外伝、火と水と
暗闇の森の中を男は奔っていた。背には幼い子どもを背負っている。酷い苦痛に苛まれている。それは決して背負っている重みによるものではなかった。
「はあ、はあ……」
湿った土を踏みしめながらとうとう歩き始めた。体力が限界に近い。
「大丈夫か、慶一」
背中の子どもに問いかけるが応えは返ってこない。酷く疲れたような顔をしており、汗をかいている。子どもも何かに苦しんでいるようだった。子どもの頭上にはよくわからない顔面が浮かんでいた。不気味な顔面だ。それは無表情のまま子どもを見下ろしている。
「おおかみ……」
子どもが背中で呟く。
「狼?」
声に教えられた通り、辺りを見回してみると前方に黒い影がうずくまっているのが見えた。木々の間に黒い塊りが見える。どうやら動物のようだ。近づいていく。
すると確かにそこには狼がいた。猟師が仕掛けた罠に嵌っているようだった。片足が罠に捕まり、身動きができないでいる。警戒しているが、大分衰弱しているようだった。それでも噛みつきそうな勢いだったので、男は干し肉を鞄から一切れ出して地面に投げた。狼の意識がそちらに向いている間に何とか罠を外した。
狼は唸りながらもその場から動かなかった。餌がもらえるかもしれないと思ったからなのだろう。男は「もうないぞ」と言うと再び子どもを背負ってその場を離れようとした。
「カイン……」
「カイン?」
「……」
そういうと二人はその場所を離れた。狼は同じ場所でいつまでも二人を見送っていた。
やがて森の中を走る車道に出た。車道と言っても補装はされておらず相変わらず土の道だ。しかし固く乾いており、車両が通った跡も見える。
男は道に沿って歩き始めた。このまま行けば町に出るかもしれない。
しばらく歩いていると、後方から車を引く音が聞こえてきた。人が引く車両のようだ。男は道を尋ねるため向かってくる車両の前に立った。
「すまないが……」
車に乗っている男を見て、声が思わず止まってしまった。恰幅のいい中年の男で髭を生やしており、品のない上等な洋服に身を包み、その隣には若い娘が座っていたのだった。
井黒の貴族か――。
娘は目隠しをされ、両手は後ろ手に縛られていた。
奴隷か――。
男は道を尋ねるのをやめて問いかけた。
「その女は誰だ?」
「何だ? お前は。関係ないだろう、どけ」
ドゴン
「殴殺……」
そういうと男は車輪の片方をへし折った。
「貴様! 何てことを。ええい、殺してしまえ!」
車を引いていた男はどうやら護衛だったらしく、こちらに近づくと屈強な体で掴みかかってきた。
男は首に手を回すと相手の重心を上手く利用し、投げ飛ばした。そのまま袈裟固めで相手の意識を落とした。
続いてガラ空きになった貴族男の懐に入り込むと再び殴打の構えを取る。
「ヒッ、待て、助けてくれ」
「事情はこの娘から聞くからいい」
そう言うと男は腹に殴打を叩き込んだ。貴族男は嘔吐しながら地面に沈んだ。
「殺したの?」
すぐそばで子どもが聞いた。
「殺してはいない。だが夜が明けるまでは目を覚まさないだろう。それよりも……」
男は車の中で囚われている娘に声をかけた。
「おい、大丈夫か」
目隠しと縛っていた縄を外した。女は季節の割には肩を出しており、薄着だった。足元は裸足だった。
「……」
「俺は狩野義一。歩いていたところをあんたの車が通りかかった。この男とはどういう関係だ?」
よく見ると女はお腹が膨らんでいる。身重だった。
「私は、髄七尾美といいます。この人は、私の……夫です」
「あんたは売られていたんじゃないのか?」
「はい……。人を殺めてしまい、その賠償金が払えず。この人に売られました」
「何か事情があるようだな。支払いは終わったのだろう? だったらこいつは用なしだ。どうせろくでもない男だ。金で役に立っただけで十分だ」
義一は前のめりに崩れている男の懐を探って金目の物を全部取り出すと吐き捨てるように言った。壊れた車には竜の紋章がある。
「……」
「気にしなくていい。これはここまで辱めを受けたあんたの分だ」
そういうと奪った金品を七尾美に渡した。
「……」
「とりあえず俺と一緒に来い。寝床が確保できれば一人くらい増えても食わせてやれる」
「……はい」
女が立ち上がるとお腹のふくらみが改めてよく見えた。
「身重か。相手はこの男か?」
「違います。もう死にました」
「そうか」
慶一も歩いて近づいてきた。頭上の顔面はいつの間にか消えていた。
これでしばらくは楽に歩ける。
そう思った、そのとき――。
「義一!」
慶一が叫んだ。
「ぐっ」
突然女が縛られていた縄で義一の首を縛り上げた。
「げほっ」
ズシン
咄嗟に強撃を放った。女は威圧に負け、手を緩めた。
その隙にロープを奪え返す。
「くそ、何の真似だ」
女はただ息を荒げている。そのまま後ずさりをして言った。
「来るな!」
義一は女の手を掴もうと歩み寄る。
すると女は自分の髪の毛を掴み始めた。
何をする気だ――?
「……」
あきれた義一は目を瞑り、スキルの詠唱をした。
――憂い泣き声消えぬ空、ただ一機の電動鴉。
【電動鴉十一】。
周囲を俗物たちから奪回する。自身をプラス。周りをマイナスにする。
空間支配の四番布陣スキルだ。
自分以外の範囲内の生物の動きをぎこちなくさせる。空箱の逆の効果を持つスキルだ。
「少し辛抱しろ、慶一」
慶一はうずくまっている。
女の手が急におぼつかなくなる。
「な、何を……」
土も風も木の葉も義一のものになった。
動きが思うようにいかない。
おそらく経験したこともないスキルでこちら側を理解させるには十分だったようだ。
「男運が干上がっているみたいだな。どれだけ辛い目にあってきたか知らないが、興味ない。俺たちも辛いんだ」
「……」
女は唇を嚙みながら義一を見上げた。手元は定まらず震えている。
「どうする。このままここで干からびるか。それともついてくるか」
「……ごめんなさい」
女は髪の毛から手を離した。
「……慶一、歩けるか?」
「うん」
「よし、裸足じゃ駄目だ。履物だけどちらかから拝借しよう。気は進まないがな」
すると女は気絶している護衛から擦り減った草鞋を脱がせて自分で履いた。
「サイズが合わない……」
「文句言うな、町に出るまでの辛抱だ」
「……」
そういうと三人は森の中の夜道を歩き始めた。
季節は秋で熊が出てもおかしくはない。念のため警戒しながら歩いた。




