75、波紋
訓練が終わった後、慶一は町に出て雑貨屋で電気スタンドとコーヒーを買って帰ってきた。六畳間の食器棚に電気ポットとコーヒーカップが置いてあったからだ。日が暮れた後、部屋の明かりを消し、デスクランプの灯だけをつけてコーヒーを淹れた。暇だったので前の住人が置いていった小説を手に取った。壁のピンナップはせっかくなので貼ったままにしておいた。
もう間もなく年が明ける。月乃の村のことを考えていた。月乃の村では毎年、年が明けると義一は家の前の田んぼで左義長をやる。慶一は毎年それを手伝う。挨拶にやってくる村人たちを朱里と三人で出迎えていた。今年は手伝うことができない。
あの後、何度か朱里の足跡を振り返って確認してみたが外壁の嫌な気配はもう感じられなかった。しかし、朱里の体には後遺症が残っているという。治す方法はわからない。いますぐにでも帰りたい気分だったが、帰ったところで何かできることがあるわけでもない。むしろここにいた方が治す手がかりがつかめるような気がしていた。
部屋の中はそんなに寒くはなかった。炎陣を覚えてから寒さに対して少し鈍くなったような気がする。源力の扱い方を学んだせいかもしれない。空丸や由瑞も寒さに対しては無頓着な感じだった。そんなことを考えながら小説をただ黙って読んでいた。部屋には簡単な台所とトイレが付いている。月乃の自分の部屋も質素だったので特に暮らしに不自由は感じなかった。薄暗い部屋の窓の外には敷地内に門灯の明かりがいくつか見える。その更に向こうの方には町の街灯が並んでいた。静かな夜だった。
そのとき、突然携帯が鳴った。手に取って見ると知らない番号からだった。しかしよく見ると微かに見覚えがある。それは秋の終わりにかかってきたあの身に覚えのない番号からだった。
『慶一か?』
その声は、やはり間違いなく駆のものだった。
『俺は狢川駆だ。覚えているだろ? 実はお前の番号、調べさせてもらっていたんだ。悪かったな。あのとき言い忘れていた』
「いや、いい。俺も話したいと思っていたところだから」
『そっちの様子はどうだ? 何でも戦争は終わったみたいだな』
こちらの様子を心配してかけてきたようだ。平時に戻ったことを知らせると駆は話を続けた。
『実はこっちではちょっと厄介な事件が起きてるんだ。星界というのを聞いたことがあるか?』
「いや、聞いたことがない」
『蒼い庭園で星界というのが完成したんだ。説明するよりも見た方が早いだろう。これから入り方を教えるからお前も来てくれ』
続けて星界の簡単な説明と入り方を教えてきた。
【星界】。
蒼い庭園においてカミラ・ダリルの持つ風属性魔法五番「天の河」の同位改変スキルだという。広大な仮想空間に自分の分身を持ち込むというスキルらしい。接続者は闇属性魔法七番【灰灯】を特殊な詠唱を行うことでカミラのスキルと繋がれ、中に入ることができるらしい。灰灯は現在の生体情報を相手へと告げるスキルである。灰灯を唱えている者は、もし瀕死になった場合、灰論を唱えた者によって赤い光で確認されることになる。駆は詳しい詠唱の内容なども教えてきた。しかし、慶一はまだ肝心なことを伝えていない。
『星界では戦闘結果がリターンされる。死ぬことはないが怪我を負うことはあるかもしれない。こちらで今、冬士郎が狙われているんだ。お前にもぜひ助けに入ってほしい』
「ちょっと待ってくれ。灰灯というのは定型技能だろう? 俺は使えない」
『使えない? どういうことだ、初歩だぞ。御力のせいか?』
「そうかもしれない」
『そうか、なら仕方がない。誰か代わりに戦えそうな者に頼めないか?』
「心当たりがいるから聞いてみる」
『よろしく頼む』
そう言うと電話は切れた。
どういう経緯かはわからないが今度は蒼い庭園の勢力に狙われてしまっているらしい。確認する方法はないので仕方なく、慶一はまた空丸に頼るしかないと思った。




