外伝、犯す心
暗い部屋の隅で男が一人座っている。窓からは月明かりが漏れている。男は部屋の隅で静かにその言葉を発した。
「我、汝の救いなり。蒼き隆盛の一片なり」
ズッ
男の頭上に顔が現れる。そしてそのまま唸り声を出し始めた。
「灰論?」
男は年の頃は二十歳前後で黒の制式動服を着ている。この場所での黒の動服は戦闘要員を示す配色である。
外壁には隆起の期間がある。普段は焦点の合わない虚ろな目が、はっきりとした凝視の状態になる。見つめられると外門と呼ばれる攻撃を受ける。体は重くなり、凍え、やがては生存活動も止まってしまう。
こうした外壁の隆起と呼ばれる状態に入った子どもを守るためには、外側からスキルで救うしかない。炎属性を含む自由技能か、あるいは特殊な自由技能だけがそれを可能にする。
「マキ様は、あなたを気にかけていらしたから」
この世界にはスキルの所在を広く見通すことができる能力がある。闇属性魔法五番【灰論】。
目を閉じ、意識をそのチャンネルに合わせると、周囲や遠くまでの各個人が持つスキルの種類が明かりで確認できる。
最も強い光が御力になり、次いで自由技能、定型技能と続く。
ジュウヤは言われるままに会ったこともないその少女のために「灰論」を習得し、少女のいるであろう方角を見た。
暗い世界にいくつもの明かりが灯っているのが見える。小さな白い光が定型技能だ。そして同じく小さいが橙色の光が自由技能だ。これは数が少ない。さらに遠くを見ると赤い光が見えてきた。
他よりも大きな光だ。それが赤色を帯びている。同位改変と呼ばれるスキルがある場所だ。それが隆起の状態にあり、誰の助けも届いてない証だ。助けが入れば御力による定型技能の同位改変の通常状態である白い大きな光に戻る。
早く誰かが助けなければ――。
しかし、光はいつまでたっても赤いまま動かなかった。
ジュウヤにはまだ対抗するスキルがない。誰かが助けに入るのを待つしかなかった。
しかし他に力のある者は誰かの助けに入っており、手が空いてない。
やがて赤い光は少しずつ薄れ、暗くなり始めた。
ジュウヤは咄嗟にその手を伸ばした。
すると少女はすぐにその手を掴んだ。
二人がスキルで繋がれた瞬間だった。
この世界ではスキル同士が繋がることでより強い効果を発揮する現象がある。超過現象と呼ばれるそれは異なる種類のスキル同士がお互いのその存在を声で確認することで繋がることができる。
ただしいくつか条件があり、繋がるにはお互いに強い絆を持つか心情的に思いが高まったときにのみそれが可能となる。
ジュウヤはまだ定型技能しか持たない。同位改変は別種類とはいえ、外壁に対抗する能力はない。
月に照らされた青白い草むらをかき分けて進む。やがて川に出た。
頭上には得体の知れない顔が張り付いている。異様な光景だった。
見上げる度に声が聞こえる。
「落ち着いたようです」
「そうか、すまない。お前もゆっくり休め」
「何なんですか、これは」
「わからない……」
最初の隆起が起きたときに、それをかばってマキは死んだようだった。
隆起の正体を知っているのは、この場所だけになる。ジュウヤは川へ向かった。
石を探さなければならない――。
動服の姿のまま川の底を漁り始めた。この中に一つだけあるはずだ。
月の光の下で男が水音を立て、川に浸かり続ける姿が一晩中続いた。
――外壁による副作用だ。
動物は、著しく精神にダメージを受けたとき、行動パターンの豊かさや自由を全て失い、単調な反復運動に入り込んでしまう場合がある。旋回運動をひたすら繰り返すだけになってしまった鳥や、ただ突進するだけになった野犬などだ。
ジュウヤは、ひたすら川の底をさらい続けた。
そこに一つだけあると信じ込んでいるからだ。頭上の外壁を破壊できるはずのただ一つの石を。
助けを呼ぶための言葉も、冷静に対処する判断と思考も、ジュウヤにはもう残っていなかった。
数日後――。
「こわい……」
少女は穏やかさを取り戻し、言葉もまた話せるようになっていた。
「たすけて……、くろい人」
おそらくジュウヤのことを言っているのだろう。
ジュウヤの死が近いことを示しているようだった。
少女の頭上には再び虚ろになった顔面が浮かんでいる。
「何が怖いんだ、上楽?」
「黒い人?」
少女の言っていることはわからない。
和真とユノカはただ見守ることしかできなかった。
幽玄の間に、うつむく男が一人――。
そこに言葉はなく、ただ立っているだけだった。
頭上に異形の顔が浮かんでいる。
眠れない夜が続いた。
川の水と懐の干し肉の切れ端で日を凌いだ。
それからは川辺の野草を食べていた気がする。
数日経って慟哭を聞いた。遠い空から聞こえた。
自分の声であることはわからなかった。
その後、誰かの泣き声が聞こえた。
ごめんなさい、ごめんなさい、とすすり泣く声だった。
初めて聞く声だった。
手が水の中で動いているのが見えた。
誰の手か、このときはもうわからなくなっていた。
次の夜、川に何もなくなった。
川辺に少女が立っているのが見えた。
ごめんなさい、と言ってその少女は泣いていた。
気がつくとその手を掴んでいた――。
――離れないで。
俺はどこへも行かない。
――離れ、ないで。
伸ばした小さな手が離れていく。
どうすればいいんだ。
――声を。
声?
俺はもう一度それを捕まえて言った。
「もう、怖くない」
気が付くと無数の石弾が月明かりの下、川辺に浮かんでいた。
青白い光を放ち、俺の意識に少し遅れて光は尾を引いてついてきた。
初めて見る景色だった。
傍らには川底の石が岸辺に山のように積み上げられていた。
犯自由技能。
蒼い庭園と呼ばれるその場所にいる者だけが得られる自由スキルをそう呼ぶ。
ジュウヤは外壁を破壊した。
上楽の光が大きな白へと戻った。
賊山、山頂。
黒い霧の中でユノカが衣類の手直しをしている。
「今度、新しい世話役が来るそうだ」
「……だれ?」
その隣で椅子に座った和真と上楽が話をしている。
「木月充弥という者だ」
「ふーん、男か。力仕事全部任せよっと」
「いいかな、上楽」
「……はい」
仮に御力や外門、外壁能力が何らかの理由で暴走した場合、対抗できるのは同じ御力と、犯自由技能、そして炎属性のディスオーダーのみになる。
どこかに得体の知れない御力を使うものがいるようだ。
世界の至るところでそれに気づき始めるようになった。
翌日、賊山の頂に一人の男がやってきた。
彼が行ったことは一時しのぎでしかない。
いつかは、誰かが元を絶たなければならないからだ。
晴れた空の下、黒い霧が深々と山の頂に覆いかぶさっていく様子が見えた。




