29、月夜
「俺、人がいるとダメなんです」
ある日、義一に向かってそれを言った。助けてほしいわけでも治したいわけでもなく、どうしようもなくそれを言葉にしていた。義一は等欠損の症状が現れない数少ない一人だった。
そんなとき、義一は村へと連れていった深山にまだ小さな体で薪を割る斧を振り上げている慶一の姿を見せて言った。
あれも同じだ――。
その理由は言わなかった。
しかし、深山には長年苦しんできた、勘のようなものから何かを理解した。
それは自分と同じ苦しい姿だった。
ある日の任務の最中、深山は短剣技三番を無造作に放っていた。
どういう道を辿ってそこに来たのかわからないが彼はそこに立っていた。
長時間の放浪で周りの景色がわからなくなり始めていた。
上空の月が彼を微かに白く染め上げていた。
風だけが彼に触ることができているようだった。
二人は何もせずにそれを見ていた。
深山は三番の全ての攻撃をそばにあった大木に向けていた。
和真の喪失から数えてこれで四度目になる巫文山探索。
深山は探索隊に加えられていた。
規定を破り、暴れ狛犬を単独で使っていたことを咎めるものだった。
両手を縄で縛られ、隊の真ん中を歩いていた。等欠損によって弱った深山を囮にする。巫家当主の指示によるものだった。どうやら探索対象の和真のことをよく知っているようだ。
山の中腹まで来ると、茂みの中の少し開けた場所に陣取った。
土の上に座った。深山のすぐ後ろに隊長が控え、周りを隊員たちが取り囲んだ。
「空丸の親父のやりそうなことだ」
人がいると苦しい。十人ほどいる隊員たちの存在が息苦しい。苦しくて目を閉じるが、目を閉じたところでそれは変わらない。隊員たちは全員がマスクをしていた。黙って和真が現れるのを待っている。
人がそばにいるだけで消耗する。段々空は暗くなってきた。等欠損の症状が長く続くと幻覚のようなものが始まる。深山はそれを感じていた。
始まったな――。
子どもの落書きのようなカラスが空を横切った。それが合図だった。周りにいる隊員たちがゆっくりと回り始めた。コーヒーカップのようだ。すぐ後ろにいる隊長は緑色のじょうろで足元に水をやっていた。やがてそこから芽が出てつるが伸び始めた。隊員たちは不規則にくるくる回っている。気がつくと全員がマスクではなくガスマスクをしていた。顔全体を覆っていて表情は見えない。隊長は手を合わせて横になり、その上をつるが踊り、隊員たちが回る。異様な光景だった。
上空で白い靄が立ち込め、大きなくじらの形を取った。白い靄がゆらゆら揺れている。暗闇に白い細かな雨が降り始めた。しかし濡れない。幻の雨だ。雨のような煙のようなものだった。時々、落書きのカラスがくじらのそばを横切っていく。くじらは夜空一面を覆っていた。
突然、前方から突風がやってきた。黒い猪のような突風だ。敵対心と殺意をむき出しでやってきたそれは広場に襲いかかった。
殺される――。
そう思った次の瞬間、突風は辺りを一瞬で薙いだ。自分の横を吹き抜けていった。やがて黒い突風は追い風になり、手の縄がほどかれていた。隊員たちは突風で薙ぎ払われ、抜け殻になり、服とガスマスクだけがくるくると回っていた。隊長のいた場所には服とガスマスクが横たわっていた。
そのとき、取り残されて踊っていたつるが突然襲いかかってきた。深山は咄嗟に落ちていた短剣を取り、応戦した。襲いかかるつるに短剣を打ち込む。打ち込むたびにつるは太くなり、やがて大木になった。枝をしならせて襲ってくる。気がつくと暴れ狛犬を放っていた。大木に切りつけ続ける。何かがおかしい。これはただの大木だ。幻覚が治まってきた。しかし、深山は切り続けた。
くそっ――。
俺は人間が駄目だ。
こんな状態では生きていけない。人間がそばにいるだけでこうなるようでは。
「うおおおおおお!」
バキッ
身体損傷だ。右腕が折れた。
だらんと垂れた右腕に力が入らない。自分の腕ではないみたいに感じる。
短剣を落とした。暴れ狛犬が解かれた。
「俺はもう終わりだ」
人で生きていけない。
一生一人で生きていくしかない。
「終わりではない」
気がつくと人が二人、そばに立っていた。
巫家の羽織を着ている男と、その傍らにもう一人、着物姿の若い女だ。赤子を抱えている。
男の方はそう言うと、ただ寂しそうに笑っていた。
俺は人間が駄目だ。
人のそばにいられない。
しかし、この二人は初対面にもかかわらず、苦しくならない人間だった。
大丈夫な人間がいる――。
男は落ちている携帯端末を手に取り、電源を切った。
もう一人の女の方は赤ん坊を大事そうに抱えている。
やがて風景が少しずつ落ち着いてきた。
隊員たちは和真の出した場力によって威圧され、散開したようだ。おそらくあの黒い風だ。
二人を見て立ち上がろうとした、そのとき、女が抱く赤ん坊に手を引かれたような気がした。伸ばされた手を掴むように赤ん坊の方を見ると、その直後に突然何かに伸し掛かられたように体が重く、苦しくなった。
やがて僅かな抵抗の後、深山は意識を失った。
気を失う直前、人の顔が浮かんでいるのが見えた。
女が抱える赤ん坊に、それが張り付いていた。
それが自分の方を向いた途端、何かが伸し掛かってきた。
どこから生えてきたのかわからないような、それは不気味な顔だった。
意識が戻ると右腕に黒い影が滲んで見えた。
嫌な気配はどこにもない、自分の意思で動く影だった。
ディスオーダーだ――。
病院のベッドに寝かされており、右腕は無くなっていた。スキルの威力で粉砕骨折したようだ。
あのとき、赤ん坊は女の両手に抱えられながら黒い霧を吹いていた。
まるで何かに抗うかのように吐かれたそれは、暗い空へと上っていった。
和真が消え、あれから十五年が経とうとしていた。
和真はあの山の中にいる。
本部から送られた巫文山への調査隊はまたいつもと同じく任務失敗で折り返していた。
ただ一人、任務から戻った深山は人が変わったかのように欠損申告を取り消し、スキルの隠蔽をやめ、公開表示にし始めた。
巫文山の調査報告はほとんどが白紙だった。
あの赤ん坊が生きていれば年の頃は八つか九つになっているはずだ。
山の頂へと上った黒い雲が空を覆っているのが見えた。




