86、六文字
冒険者の寮で何もすることなく過ごしていた。窓際に月光草の鉢植えが置いてある。
あれから義一からは連絡も来ない。朱里はどうなっているのだろうか。何度も月乃に帰ろうと思ったができなかった。肩には朱里の気配がある。きっとまだ大丈夫だ。朱里に会いに行くのが怖かった。
冒険者ギルド本部の書庫で朱里の治し方に関して色々探したが、手掛かりになるようなものはなかった。唯一気になったのが治癒のスキルだが、死に至るほどの病を治すのは治癒ではなく蘇生といい別なもののようだった。当然蘇生も現在まで使用者は確認されていない。
窓の外には灰色の空が広がっていた。微かに雪がちらついている。隣の住人は結局、最終的に七輪を部屋に持ち込み、そこで鬼火を焚いているようだった。
電気ポッドでコーヒーを淹れて飲んだ。既に一度読んだ「君の横顔。」を手に取って開いた。悲劇的な最期を迎える男女が輪廻転生し、新しく生まれる命でそれぞれが少しずつ前世の記憶を取り戻していくという物語だ。前世の名前も思い出し、男の方が女を探し出して悲劇を回避し、結ばれるというものだ。男の方は前世では精神疾患を持ち、女は事故で車椅子になる。二人は出会い、お互いに惹かれ合うが若くして離れた場所で二人とも命が尽きてしまう。その物語の中では全ての命は死後、輪廻転生して新しい命として生まれ変わるが、前世の記憶を得ることはない。完全に新しい命として真っ白な状態でスタートする。しかし、前世があまりにも苦しみに満ちていた場合だけ、前世の記憶を得ることができる、というものだった。二人は記憶を少しずつ取り戻し、前世では成し得なかった健康な状態で生涯を全うし、一緒に死ぬことができた。
もし、朱里が死んだら、自分には何もなくなってしまう。今まで朱里を失うことなど考えたこともなかった。朱里の存在は今までにないほど大きなものとなって心を苦しめた。また朱里と出会えるのだろうか。これは物語ではなく現実だ。現実の朱里を何としても守らなくてはならない。
本を棚に戻して横になった。ギルドに行っても大してやることがない。暇な日が続いていた。明日、空丸に相談してみよう。何か新しいことがわかるかもしれない。
日が暮れかけてきたので食堂へ向かった。ちょうど混む時間だったこともあり、席は半分くらい埋まっていた。そんな中、壁際に隅の席で一人で座っている人影に目が留まった。懐かしい人物がそこには座っていた。
「深山さん、お久しぶりです」
「慶一か、何でこんなところにいるんだ」
「俺も先月からここに部屋を借りているんです」
どうやら深山が帰還したようだった。夕食後、椅子に座り茶を飲んでいた。
「まあ、座れ。懐かしいな」
「体は大丈夫なのですか?」
「なんとかな。昨日戻ったばかりなんだ」
二人はこれまでの経緯を簡単に話した。ついでに空丸に話そうと思っていたことをちょうど会ったばかりの深山に話してみることにした。
「義一さんの娘がか。それは心配だな」
「どうやったら治せると思いますか?」
「どういう状態なのかわからないから何とも言えないな。治癒のスキルが有効なのは主に怪我だからな」
「そうですか」
「一度帰った方がいいんじゃないか?」
「それは考えてます」
やはり一度月乃に帰るべきだろうか。部屋に戻り、携帯で義一に返事をしようとした、そのとき。
携帯に一件の着信があった。メッセージだ。
“たすけてくれ”
それは駆からのメッセージだった。
内容はそれだけで音声通話の着信はなかった。
駆の元で何かが起きている。
助けないわけにはいかない。
一体何が起きているのか、それ以降の返信はなかった。