外伝2、火と水と(2)
井黒国、本丸内。
奥座敷で吾妻家当主の吾妻貴志が差し向かいである人物と話をしている。
「御力の始まりは解放感だそうだ。それは爽快なものだそうだ」
「仰せの通りです」
「しかし、お前の倅はそれを拒んだ。解放感を危険なものだと察知した。何でもそうだ。大きな力には落とし穴がある。物事を吟味する素晴らしい力だ」
「恐れ入ります」
「しかし、本人が拒んでも消えてくれるものでもないようだ。使い方を誤らないように持つしかないだろう。慶一にはそれができる。大丈夫だ」
「……」
「供に付かせる者は決まったのか?」
「それが、まだ……」
「ではこちらから相応しそうなやつを一人貸そう。義一、入れ」
そう言うと奥の襖が音も立てずに開き、中から一人の男が入ってきた。
影のように無音でそこまで来ると、膝をつき頭を下げた。
「狩野義一という、表立った仕事はさせていないからあまり知っている者は多くない。我が国のギルドでは黒犬の称号が付いている。きっと役に立つだろう」
「ありがとう存じます」
「では最後の挨拶に行くか」
そう言うと三人は外へ出た。
外には甥の冬士郎、まだ三つになる駆、そして侍女の真尼子に付き添われて下を向いている慶一の姿があった。
「武兄ぃ!」
「よし、三人とも揃っているな。今から俺の言うことをよく聞くんだぞ」
腰を落とし、両手を広げて三人を抱えるようにして武は言った。
「偉くなれ」
このときの武の笑顔が見納めになった。
翌日、井黒の中心部は梵天の第一付随、釈迦によるエネルギーボールの爆心地となり、王の朱水武と吾妻貴志を始めとした多くの者を失った。
「慶一を頼む。子どもたちさえ生き残ってくれれば、いつか必ず押し戻せる日が来る」。
吾妻貴志から義一への最後の言葉だった。
暗い森をしばらく歩いているとやがて開けた場所に出た。月明かりに照らされた黒い屋根が見える。どうやら山小屋があるみたいだ。三人はそこに入った。
玄関は鍵があったが掛かってはおらずすんなり開いた。そのまま靴を脱いで中へ入った。雨戸が全部下りていたので三人で手分けして上げていった。部屋は居間の他に畳部屋と洋間が一部屋ずつだった。居間にはテーブルがあり椅子が四つ付いていた。水道や電気も通っている。どうやら街のもうすぐ近くまで来ているらしい。
「ここがどの辺りかわからないか?」
とりあえず居間のテーブルを三人で囲んで座った。探せば食料もあるかもしれない。
「私は井黒で捕まりました。それからはわかりません」
「俺たちも井黒から来た。ずっと東に進んでいたから。白井との間くらいのような気がするな」
義一は落ち着かないように立ったり座ったりしていた。冷蔵庫の中を開けたり食器棚の中を覗いたりしている。それを二人は見守っていた。冷蔵庫のコンセントは抜けていた。
「冷蔵庫の中は空だな。食い物も見当たらない」
水道の水をしばらく出した後、飲めるか確認してみた。
「水は大丈夫みたいだ。あとは持ってる食料で少し凌ぐしかないな」
そういうと義一はかばんの中を探り、食べられるものを全部テーブルの上に出した。
ビスケットが一袋と干し肉の切れ端と、道中で拾った木の実が少しだけだった。
「とりあえず今夜はここで休もう。あんたは隣の部屋を使ってくれ。俺と慶一はこっちの部屋で寝る」
「はい……」
七尾美はどうやら義一に対する警戒心は消えているようだった。空間掌握は上位の冒険者にしかできない。七尾美がこれまで関わった男にはとても及ばない所業だった。しかし義一はそれをまだ理解していない。七尾美が寝たのを確認した後、少しだけ眠った。
夜半過ぎになり、義一は何かの物音に気づき目を覚ました。居間で椅子を引く物音のようだった。慶一は隣で眠っている。七尾美が起きたのだろう。
こんな時間に何のために――。
腹でも空かしたのだろうか。義一は様子を見に行った。
居間に入ると、七尾美は椅子に座っていた。真っ暗な部屋の中、俯いた姿勢のままで頻りに何かをやっているようだった。
それを見て義一は慌てて止めた。
「おい、何をしている!?」
七尾美は義一の声も聞かずにその行為をし続けていた。
「おい、やめろ!」
義一が七尾美の手を掴んだ。七尾美は驚いたように振り向き、義一の顔を見つめた。
七尾美はただひたすらに自分の髪の毛をむしっていたのだった。それがテーブルの上に綺麗に並べられていた。
「お前、何を……」
しばらく驚いたままの表情で義一を見つめていた。やがて自分のしていたことに気づいたように、前を見ると「ごめんなさい、何でもありません」と言った。
「何でもないわけないだろう」
七尾美の髪が一部はげてしまっているのが見えた。よく見るとそのような跡は他にもいくつか見えた。
以前からやっていたのか――。
「頼むからもうやめてくれ」
「……はい」
返事には手応えが感じられなかった。
これまで外地で魔物の相手や尖兵として駆け回った経験しかない義一には全く勝手のわからない行動だ。どう対応すればいいのかもこのときはわからなかった。
ただ願うように寝室へと促し、また眠りについた。
どうやら心の傷が思ったよりも大きいようだ。ただ漠然とそう思った。
翌朝、三人は目を覚ますとおそらくこの先に続いているであろう町を目指して歩き始めた。七尾美の様子はいつもと変わらなかった。しかし、昨夜の出来事が夢でないことを示すように七尾美の髪にははげた跡が残っていた。慶一は気づいていないようだが何とかやめさせなくてはならない。義一はそう思った。
電信柱を道標にしながら歩いていくとぽつりぽつりと民家が見え始めてきた。やがて一里ほど歩いたところでそこそこの大きさの街に出た。そばにいる人に尋ねると白井領に入ったらしい。
「さあ街についた。俺たちはここで買い物をする。あんたはどうする。理由を話せば面倒見てくれる家があるかもしれない」
義一は形だけのようにそう言った。昨日のことがあるからここで別れるつもりはなかった。
七尾美も少し考えた後、もし可能ならあなた達と同行したいと言った。義一はそれを聞いて一緒に行くことにした。
「俺たちはあまり人目につきたくない。今朝の山小屋まで戻るがそれでもいいか?」
「かまいません」
そう言うと三人は山小屋のそばにまず自分たちの家を建てることにした。山小屋と土地は白井の所有物のため、あの辺りを拓くには白井本国の許可がいるらしい。少々強引だが金は困らないだけあるので、義一は先に家を建てて許可をもらうことにした。
街で食料の他、斧や大工道具などを買い揃えると山小屋まで戻ってきて家を建てる準備を始めた。
七尾美は履き物と少しまともな衣服を買った。
「よし、俺たちの家を建てるぞ。それまではこの山小屋で寝泊まりする」
こうして三人での家づくりが始まった。
最初の日は大量に買ってきた食料で七尾美がカレーを作った。金は生活に困らないだけの金貨を吾妻家からもらっていた。
七尾美は夕食のときもときどき手が震えていた。もう片方の手で押さえると震えは止まった。
ごめんなさい、と言うだけだった。慶一はよくわかっておらず、義一も笑って返した。
何とかしてやりたい。一緒に暮らすことで前以上にそう思ったが、何をしてやれるかわからず、義一はただ全てを受け入れることにした。
夕食後、ベランダのデッキに出ると秋の初め頃を告げるような風が吹いていた。椅子を出してきて座り、義一はそこでギターを弾き始めた。洋間の物置きに古い使われてないギターが仕舞い込んであったのだ。弦が緩んでいたのでチューニングする。
「義一、弾けるの?」
慶一が興味深げに聞いてくる。
「少しな」
そう言うと義一は「雨の日の看板娘」を弾き始めた。
最初は乾いた音を立てていたが弦が馴染んできたのか段々と艶のある音色になってきた。その勢いのまま即興で演奏する。
コードストロークに合わせて歌声が入る。七尾美も慶一も椅子を出してデッキで聴き始めた。
「何ていう曲?」
慶一が聞く。
「風に吹かれて」
澄んだ秋の夜空にきれいな音色が響く。
――ビルの隙間からこぼれる夕日
伸ばした影が 二つ重なる
あれから時がたち
私は一人、同じ場所にいる
帰らない誰かを待っている
秋の風がそよいだ
歌声に合わせて風が吹き抜けた。
「きれいな歌ね」
七尾美が言う。
慶一と七尾美は目を瞑って義一の歌に聴き入っていた。義一はそれを見て少しだけ安心した。
昨夜のようなことはもう起こらないかもしれない。そんな気がした。
どこか悲しい音色だった。
七尾美はただ黙って聴き続けた。義一の心であるようで辛かった。
自分のせいで悲しませている。美しい音色だった。
七尾美の目には涙が浮かんでいた。