1、パンデモニウム
幼なじみの朱里は心配そうにその洞窟の前に立っていた。
中に入ってからもう大分時間が経つが、その男は一向に戻ってくる気配はない。
「けいいち、もう帰るよ」
薄暗い洞窟に向かってそう声をかけてみるが返事はない。
何度も反対したが、一人で行くと言ってこの洞窟に何も持たずに入って行ってしまった。
仕方なく、朱里はその男に【照明魔法】とその派生スキル【足跡】をかけ、外で待つことにした。
この世界には、「修行」と呼ばれる方法で様々な能力やスキルを獲得できるという不思議な現象が人々のあいだに備わっている。
スキルの発動には、その場限りの「解脱」と完全に会得して獲得可能な「覚醒」の二種類がある。
解脱は比較的容易に起こすことが可能で、下級魔法の詠唱中に集中力が高まって中級魔法に上がる場合や、何かの拍子で剣技や狙撃術を戦闘中に閃くといったこともよく見られる。
しかし覚醒となると余程の修行を積まない限りは通常では起こることはほとんどない。
朱里は考古学者の父を持つ、冒険者の家に生まれた一人娘で、冒険のための技能は一通り学ばされたが結局、会得できたのは先ほどの照明魔法と解読の二つだけだった。
朱里は暗所恐怖症だった。寝るときはいつも微かな照明の下でクマのぬいぐるみが無愛想に座っている光景がある。
そんな朱里を見て父は途中で冒険者の訓練はあきらめ、きっと適性がない、もし他に進みたい道があるなら本人に任せよう、と思うようになった。
冒険者にも必須といえる戦闘スキルもどんな簡単なものでさえも閃く気配すらなかったからだ。
朱里には子供の頃から付き合いのある幼なじみが一人いた。
吾妻慶一という名のその男は、年は三つ離れているが言動や性格はどこか幼く、とても年上には思えなかった。
ある日、朱里の父が「これは古文書だ」という明らかに無理のある謳い文句を自分でつくり、ある男から金貨一枚で破れかけの羊皮紙を買ってきた。
彼は冒険者で朱里の父の知り合いだった。
その羊皮紙はどうやらある洞窟をマッピングしたものらしく、知る限りの鑑定技能を持った鑑定士たちに見せても、誰もがただの紙くずだと言ってまともに相手にはしなかった。
朱里の父も最初はそんなものだろうと思ってあきらめていたが、その知人には、他には見られないある突出した技能が一つだけあり、そのことがどうしても気になっていた。
【無限】。
それが、その男の持っていたスキルだった。
男は、少し前にとある山の中の洞窟に向かい、翌朝帰ってきたとき、そのスキルを会得していた。
羊皮紙がその洞窟の地図であることも、朱里の父は知っていた。
彼も実際にその洞窟には何度か入ってみたが、中は十数メートルほどの寸止まりで、分かれ道もなく本当に何もないただの洞穴だった。
それなのに、その地図にはこれまで見たこともないような複雑怪奇な迷路が描かれていた。
無限は全てのスキルを知ることができるという万魔殿と呼ばれるスキルだった。
万魔殿はパンデモニウムと呼ばれる特殊な試練をクリアした場合にのみ極まれに覚醒が可能である、未開のスキルだった。
スキルの詳細は本人だけが知っている。
無限を獲得したその次の日の夜、その記録をどこかへと残し、男は消えた。
「へー、俺には読めないけど、本当なんですかね」
その日、朱里の父の手伝いで墓地の死兵を二人で何とか倒し、その休憩中に慶一は言った。
「上級スキルをクラッシュで放ったときに出るそよ風が茜色だった。何人かがそれを確認している。間違いないよ」
「茜色? 上級スキルの風は確か」
「……確かに、最高位が夕暮れだ。夕暮れでも出せない効果が部屋の中にも残っていた。誰も感じたことのない風だったと言っていた」
「……」
そよ風は、スキルを極限状態で放ったり、強力なスキルであったり、その場の多くの者の心が動いたときに吹く風だ。
かつて、戦場でひとつの風がそよぎ、雨の中それにあたった全員が涙を流して戦意を失ったという話がある。
そのときの風が茜色だった。
「まあ、いいさ。俺はこいつを持っていくよ」
そう言って、朱里の父は冒険者ギルドにゾンビのボロ布の切れ端を持って帰っていった。
慶一の手にはバイト代の銅貨二枚だけが残った。
場所は覚えた。確か、あの山の奥の方だ。
慶一は、朱里に簡単にメッセージを送るとすぐに返答の着信が鳴った。
“わたしも行く”
そして、その日の夜、慶一はそこで初めての覚醒を手にする。