二
結局、あの後、僕は彼女に会う事ができなかった。彼女の容体が悪化したという深刻な理由ではない。単に僕に会う勇気がなかっただけだった。無菌室に入れられた、命も僅かばかりしかない彼女に再び顔を合わせる勇気が僕になかったのだ。
「キョウコセンパイハゲンキソウデシタカ?」
ケータイにいつものように外国語のメッセージが届き、僕は気が進まない中、宛先に返事を返した。
「ごめん、今は気分が優れないから大した返信も外国語で返す事も出来ない。ちょっとそっとしておいて欲しい。ごめん」
一人になりたいこの状況下ではこれくらいの気遣いが精一杯だった。
「私こそすみません。やっぱりつらいですもんね、彼女が無菌室に入るようじゃ…私も今度、京子先輩にお見舞いに行こうかと思います。受験勉強の方、頑張ってください。それと京子先輩の体調が良くなるように祈ってます。何かあれば全力で手助けするので遠慮なく言ってください。それでは」
僕はその文章をじっくりと読んだ後、ケータイをそっとズボンのポケットに閉まった。
やりとりの相手は高校の一年後輩のりっちゃん。僕と京香と同じ吹奏楽部であり、皆が彼女に親しみを込めて、りっちゃんと呼んでいた。彼女とは高校時代、先輩と後輩という関係以外の何物でもなかった。関係性が変わったのは、僕が医学部の受験に失敗し浪人生活を始めた頃からだった。
「先輩!」
現役生と合同で行われる授業を取った際に一人ポツンと座る僕に対して彼女は満面の笑みで僕を呼び止めた。
「りっちゃんじゃん!卒業以来だな。元気にしてた?まさか予備校で会うとはね!吹奏楽部の方はどうよ?顧問の齋藤は相変わらず?」
「元気にしてますよ。私も齋藤先生も。先生は相変わらず懲りずに一年生にきつく当たってます。おかげで昔の私みたいにたくさん新入部員が泣いてますよ」
まさか同じ予備校に通い出したとは思ってもいなかった僕は驚きを隠せなかった。その時浪人しながら予備校に通う同級生は誰もおらず、そもそも僕自身交友関係が広くなかった事もあり、話し相手が出来た事が素直に嬉しかった。だからなのか僕とりっちゃんが隣に座りながら同じ授業を受けるのは当然の流れだった。
流れが大きく変わったのは、授業終わりに僕が語学の成績が芳しくない事、先日の受験においてそれが足を引っ張った結果、受験に失敗したことをりっちゃんに何気なしに話した時だった。彼女はしばらく考えた後、ある提案をした。
「それなら私と外国語を使ってやりとりしません?それなら先輩は苦手な外国語を上達できるし、私は得意科目をもっと伸ばすことができてウィンウィンじゃないですか?いつまでも浪人しているようだったら真戸先輩をデートに誘う余裕もないし、見捨てられちゃいますよ」
彼女は目をキラキラさせながらそう提案してきた。
それは僕と彼女との関係性に関して否応なしに変化を伴うものだった。高校生の頃と比べて話す頻度が格段に増えたとはいえ、予備校以外で顔を会わす事もなく先輩、後輩という関係性に揺るぎはなかった。
だが、これは違う。明らかに違った。僕と彼女の関係がより親密になるというような甘いものではない。
僕には真戸京香という恋人がおり、彼女もその事を十分承知の上で提案しているのだ。
かといって彼女の主張にも一理あった。りっちゃんは当時から語学が得意であり、それは同じ吹奏楽部内でも有名だった。それを強みに彼女は外国語大学を受験する予定だった。だからこそその提案は理にかなってはいたのだ。故に僕は悩み、最終的に京香に正直に全てを話し、判断をゆだねる事にした。
「太晴もモテモテでよかったねえ」
「こっちは真剣に相談しているんだから真面目に答えてよ」
僕を茶化す京香に対して僕はそう言い返すのが精一杯だった。
「別にいいんじゃない?りっちゃんは良い子だって事は私も十分分かってるし、それに彼女の言う通り今の成績じゃあ合格なんてできないでしょ、せっかくの助け舟を有効に使ってさっさと合格しなさい!医者になって病弱な私を一生サポートするって付き合う時に言った言葉忘れないんだからね!」
京香がこうも易々と快諾してくれるのはりっちゃん、そして僕をそれだけ信頼してくれているからこそなのかもしれない。だが思い悩むそぶりがまったくなく、快く快諾してくれたのは意外という言葉以外の何物でもなかった。
「それにしても私の知ってる男子ってのはこういう事わざわざ話さずに都合よく誤魔化すものだと思ったから正直に話した太晴の株は私の中では少し上がったかな」
「そりゃあそうだよ!何年間京香一筋で生きてきたって思ってるの。小さい頃から幼馴染として仲良くしてきてずっとアプローチしてきたじゃん。やっと付き合うことが出来たんだからそんな簡単に裏切るような事はしないよ」
「ふーん…まっ、とりあえず受験頑張りたまえ!」
「ラジャア!隊長!」
そうやって僕らはふざけながら敬礼をしあったのだが、今となっては「ふーん」と言いながら言葉を飲み込んだように見えたあの時の京香が気になって仕方がなかった。
結果として僕の語学の成績は上がり合格するのに十分な成績を模試で取る事が出来た。ただ、その頃からだった、京香がその流行りの難病に罹ったのは。元々病弱であり、病気を発症して入院する事など慣れっこになっているほどだったが、それが直接命に関わる、未だに完治困難な難病であれば話は違う。
彼女を見舞いに行くことなど小さい頃から慣れてはいた。病弱な彼女をわざと茶化して、それに対し彼女が言い返すほど僕らにとって彼女の入院は日常の一コマと化していたが、この時ばかりはそんな事出来るはずもなかった。
だからこそ見舞いに行くのは当然として僕の日常における彼女に割く時間は、受験のそれよりも俄然多くなってしまった。
いくら病弱な彼女の強力なサポートとして医者を目指したからといってその本人が死んでしまうようでは元も子もないのだ。
結論を言えば僕は再度受験に失敗し、再度浪人生活に入った。彼女の病気に気を取られたから失敗されたと言われても何も反論出来ない自分が悔しくて仕方がなかった。
それに対してりっちゃんは現役で志望校に合格して今はキャンパスライフを謳歌している頃だろう。そして、僕の彼女である京香は無菌室に一人取り残されているというわけだ。
雨の中、意味がないと分かっていながらも未だにずぶ濡れの衣服のまま、ただ茫然と傘を差しながら歩き続けた。
家に着くとそこには今にも使い物にならなくなりそうな年期の入った中古の白の軽自動車が自宅の駐車場で僕を待っていた。車の表面には所々前の持ち主がどこかでぶつけたであろう引っかき傷やへこみが目立ち、タイヤもだいぶ溝が薄くなりすり減っているようだった。数年前に父が買った新車のファミリーカーとは大違いだ。それを売って今の中古車にしたのが数か月前だ。父のリストラが関係していることは間違いないが、それだけが十年ローンで買った新車を早々に手放した理由ではないだろう。
誰もいない居間を抜け冷蔵庫を漁るとラップに包まれた大皿が二つあった。これをレンジで温めて父親と二人、夕食として食べてくれという事だろう。最近働き出した母も、新しい仕事先に転職した父も帰りはまだまだ先であろう。
医者を目指すと二人の前で初めて言った際は大喜びで、何浪してでもいいから頑張って合格しろ!と応援してもらっていたが、今やお金を稼ぐために二人とも家を空ける時間が多くなり、二人と話す時間もほとんどなくなってしまった。父がその事を口にする事は一切なかったが、車好きの父があの車を売り飛ばした時点で僕の浪人生活もそろそろ限界なのかもしれない。
そそくさと自分の部屋に閉じこもりベッドへダイブした僕は、意味もなくケータイを弄った。弄ったところで求める物が手に入るわけでもなく、ただ時間だけが過ぎて行った。外では相変わらず雨音が寂しげに鳴り響いていた。
僕は耐えきれず、腑と深く一呼吸ついたが、心は落ち着きそうになかった。たしかにりっちゃんに対して、「一人になりたい」と言ったし、それは嘘ではなかった。しかし、このどうしようもない気持ちを吐き出す相手が欲しくてたまらなかった。
僕は京香を失ってしまうのではないかという恐怖に押し潰されそうであり、それに耐えるのに必死だった。でもその気持ちを吐露したいと思える相手は恋人でもないりっちゃんだった。
しかし、そんな事が許されるはずはなかった。
だって恋人の命が危ないって時にどんな理由だろうとほかの女に甘えるなんてあまりにもおかしいではないか!
そんな裏切り、許されるはずないではないか!京香を長年追いかけ続けたからこそ、りっちゃんに甘えようとする自分自身が許せなかった。だからこそ僕はそんな愚かな自分を責めた。でもそうしたからといって心が晴れる事はなかった。
こんな事になるんだったら京香に相談するまでもなく、彼女の提案を断れば良かったのだろうか?でもそんな事今更出来るわけもなかった。外はもうとっくに暗くなり、夜を迎えていた。日が昇るのはまだまだ先のようだった。