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「席確保してくれてありがとうな」
講義開始5分前に着いた安達君は私にそう感謝の言葉を口にして私が荷物を置いて確保しておいた隣の席に座った。
「うぉん…」
私はというと寝不足もあってあくびをしながら返事にもならないような半端な声を上げるのみだった。
ぎりぎりに着いたのは安達君だけではなく、ほかにも多くの生徒が慌ただしく講義室に入ってきた。まだ来ていない生徒も多くいるようだった。
「まったくこの通学時間帯に人身事故なんて迷惑にも程があるよ」
「お疲れさま」
「おいおい、もっと思いやりを持って言ってくれよ。全然気持ちがこもってないじゃん」
「そりゃ自分は無関係だからね。電車使わないし」
「そりゃあどうも、で飲み会は楽しかった?」
「そりゃあもちろん。ありがとね。社長と店番してくれて」
「感謝されてもな…そもそも飲み会苦手だし、俺。まあ橘が『何で俺も店番何スか!』ってうるさかったけどな。結局あいつ閉店終わりに飲み会に参加したんだろ?」
「そうそう、ほんとに迷惑な話だよ、まったく…ってか、教授まだ来ないね」
講義はもう始まっていてもおかしくない時間になっていたが、どうやら教授も人身事故による電車の遅延の影響を食らったようだった。それにより気が緩んだのか講義室は談笑する者で溢れかえり、騒がしくなっていった。百人以上が座れるような大きな講義室だからこそ話し声はよく反響し大きなものになっていった。講義の開始時間から十分ほど過ぎた辺りで講義資料であろうプリントを抱えながら教授が忙しく入ってきた。
「はい、遅れてすみません。では今から講義を始めます。静かに、静かにしてください」
しかし、それでも後方にいる生徒の話し声は止まない。
「さっさと黙りなさい!この馬鹿者が!」
教授の怒号が教室中に響き渡った事でようやく話し声は収まったようだが、振り返ってみると真面目に授業を聞く気になったわけもなく、おしゃべりの代わりにスマホいじりに切り替えているだけだった。後ろに座っている生徒は所詮そんなものだろう。そういう私もいつもの目立たない中段の端側の席に座りながらスマホを出して、暇さえあればスマホをいじりながらいつも通り講義を聴くのだった。
「キョウジュ、それはチガいます。テッカイしてください」
ただの座学であり、ゼミでもないのだから生徒が授業中に声を張る機会などないはずだなのだが、たどたどしい発音で主張するその声はどう見ても最前列の席に座っている留学生が発したものだった。教授も含めほとんどの生徒が彼に注目した事は教室が一瞬静寂に包まれたことからも明らかだった。
「質問だったら講義後にお願いしますよ」
「シツモンではないです。マチガったジョウホウなのでテイセイをモトめているんです」
いつも真面目にノートを取りながら聞いている生徒だったからか教授は丁寧に落ち着いた口調で対応した。しかし、その留学生の態度は断固として頑ななものだった。
「ほう、私に盾突くというのかね」
「そうです。キョウジュはミラジウムをリヨウしたハツデンギジュツがコンゴのクリーンエネルギーをヒッパるとおっしゃいました。でもそれはオオきなマチガいです。ワタシはシっています。ミラジウムのサイクツゲンバにおけるカンキョウハカイをよくシっています。ワタシのクニのことなのでよくシっています。あれはけっしてクリーンなものではないです。テッカイしてください」
「いいかい、採掘現場の事に関しては私は言及していない。そもそもそれを言い出したら完璧なクリーンエネルギーというものはない。我々は今持つ技術の中で最善なものを選択し、改善していくしかないのだよ。君の主張は物事の一面に過ぎない」
「わたしはシッています。サイクツゲンバのヒサンサを。それをシッていてそうイわれるのですか?シりもしないのにそんなことをイうケンリはないです。わたしはこのクニでサイシンのカガクギジュツをマナボうとオモったのにそのクニのキョウジュがこんなニンシキなのはとてもザンネンです」
二人の言い合いは徐々に語気が強いものになっていった。どちらも譲る気はさらさらないようだった。気が付けば講義そっちのけで口論は続いていた。
「ごめん、後でノート、コピらせて」
「何だよ、加賀美、抜け出すのかよ」
「ただでさえ、糞な講義なのにこんなんじゃやってられないっての。必修じゃなきゃ受けてすらないよ」
「それは言えてるな。それじゃあバイトの方も頑張れよ。俺は昨日残った分、今日は休みだから」
「あいよ!」
安達君と別れの挨拶をすまし、私は教室を去った。次の講義までの間まだ時間があったため暇つぶしのために図書館に向かった。
図書館は相変わらず広々としていた。またこの建物は一五〇年前、この大学が出来た時からある事もあり、使われている木材と数多くの本による、長年掛けて培われたのであろう独特のむわっとした感じの匂いがした。そして私はなぜかその匂いが大好きだった。それを嗅ぐとどういうわけか落ち着くのだ。まだ午前中という事もあり、人の数はまばらだった。その分、物音はほとんどなかった。受付にあるパソコンの動作音が聞こえてくるほどにとても静かだった。
私は専攻の理工学部に関する本には目も暮れずに世界中の風景写真を集めた写真集、紀行文、旅行記等が置かれたコーナーに一目散に向かった。「秘境国」という本を手に取り、テーブルに寝そべるようにしてぱらぱらと眺めた。山に海に谷に大草原にどれをとっても身近にみるそれとは違い、それは写真家による技術のおかげか素材そのもののおかげか、どちらにしろ絶景の写真の数々に時間を忘れながら見入り、時に添えられている文章に目をやるのだった。
やがて私は一つの写真に目が止まった。それは荒野に取り残された湖の写真だった。その写真だけであれば私はパラパラとめくるページの内の一つに過ぎなかったかもしれない。しかし、そこに添えられたある一文が私を踏みとどまらせた。
「この湖は近い将来なくなるであろう」
灌漑と環境破壊でこのまま手を打たなければ十年もせずにこの湖は干上がってしまうらしい。そして、対策を取ろうにも政府のあまりの腐敗ぶりに協力の手を差し出した海外のNGO団体が呆れかえり撤退してしまい、未だに何も対策は進まないらしい。
写真だけ見るとそれは荒野と木々が茂るオアシスという美しいコントラストでしかなかった。そこにそんな過酷な未来が待っているなんて分かりもしないだろう。そして、そんな理由でこんな美しい景色がなくなってしまうのかと思うと感慨深いものがあった。
そんな考え事をしたせいなのか、それとも昨夜の飲み会の疲れがまだ残っているせいなのか、徐々に私を眠気が襲った。眠気に抗う事を諦めた私は仕方なく本を枕に次の講義までしばしの眠りにつくことにした。
ふと目を開けると私は駅前で誰かを待っていた。しばらくするとそこには退院し、おしゃれをして歩いてやってくる詩織の姿があった。それも黒のスーツで身なりを整え髪をワックスで固めた男を連れて。しかもそれは一人ではない。複数なのだ。しかもその数は恐ろしいくらいに膨れ上がり、もはや詩織の姿は見えなくなった。そして彼らは、その黒い塊は駅へと向かい、駅のホームを埋め尽くした。私はその塊の中を押し分けながら詩織を探した。しかし、その塊は通過列車が来るのを見計らってここぞとばかりに線路にダイブしていくのだった。ブレーキのおかげで列車が止まったのかそれとも粉々になった肉片が列車を止めたのか、そんなことは関係ない。飛び散る肉片と赤い液体が人々を襲い、悲鳴と混乱がホームを包んだ。気が付けば辺りはどす黒い血と手や足、胴体といったパーツも含んだ数えきれないほどの肉片の海に染まっていた。人々が逃げ去ったその現場に私は1人きりで突っ立ていた。
「詩織!」
私は真っ赤に染まった自分の体に一切の関心を寄せる事もせず、彼女が生きている事を信じて、ただひたすら詩織の名前を泣き叫ぶように大声で呼んだ。しかし、私のその声に反応する者は誰一人としておらず、辺りには私の発する声のみが寂しげに木霊していた。
冷や汗をびっしょりとかいて枕にしていた本まで濡らしたことに気が付いた私は、それが単なる夢だという事に気が付くまでにしばらくの時間を要した。慌てて時計を見ると時計の針は後数分で次の講義が始まる時刻を差していた。講義の開始時刻にはどうやら間に合いそうにない。私は悪夢の中で感じた恐怖や悲しみを振るい落とす事も出来ぬまま憂鬱な気分で、ゆっくりと図書館を後にし、講義室へと歩を進めた。