一
「ねえ、何か話してよ」
京香のその声で僕はふと我に返った。この部屋にいるのはビニールのカーテンで四方を囲まれた無菌室のベッドの中で静かに佇む京香と無菌室越しに彼女と向かい合って椅子に座っている僕だけだった。静寂だけがその空間を支配していた。受付で待っている際に聞いた、誰かしらの足音やらテレビの音声、看護師からの呼び出し、受付で待つ人々の会話など、ここでは皆無だ。そしてまるで別の星に来たのではないかと錯覚するほど空気は重苦しかった。ここで耳にするものと言えば彼女の声くらいだった。
そこまで静かなら僕がしゃべればいいのだろう。しかし、僕にはそんな事は出来っこなかった。初めて彼女が無菌室に入っている様子を目の前にしてしまっては何をしゃべったらいいのか、分かるはずもなかった。用意してきた話題など彼女のその姿をみてしまっては一瞬にして吹き飛んでしまった。
それは覚悟していた事だった。
会う前から分かっていた事だった。
でも、頭で分かっていても僕の心は理解してはいなかった。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
そう言って僕は席を外した。僕は敢えてエレベーターは使わずに階段を駆け足で上がって屋上に向かった。
エレベーターに乗っていては彼女の事を考えずにはいられないだろうから。
同乗者にそんな事を考えている僕の顔など見られたくもなかったから。
少しの間だけでも彼女の事を忘れられる事を願い僕は無我夢中で屋上まで階段を全速力で駆け上がった。
息が切れて仕方がなかった。僕は肩を上下させながら必死で酸素を欲した。それは生きている証だった。僕がいま生きている、何よりの証だった。しかし、そんな証など一番に生きて欲しい人の生きる保証がない中では価値などないに等しかった。
屋上には誰もいなかった。当たり前だ。外は大粒の雨が地面を叩いていた。こんなところにわざわざ足を運ぶ者など僕くらいしかいないだろう。僕はその中に何の迷いもなく飛び込んだ。
雨は僕の体を瞬く間に濡らし、僕はずぶ濡れになったものの、それと同時に僕の涙と泣き声をかき消してくれた。
「別れて欲しい」
数週間前彼女は僕をこの屋上に呼び出してそう提案してきた。
「何があってもそれは嫌だ!」
僕は誰かを睨みつけるわけでもなく険しい表情のまま彼女の提案を拒絶した。
そして、ほかに好きな人が出来たとか、恋人として僕を見れなくなったとか見え透いた嘘を言う彼女をフェンス際に追い込んで
「俺の邪魔になると思うからって別れようとするなよ!俺の受験の邪魔になるからってそんな事言わないでくれよ!俺が医者になって京香の病気治すから!それまで必死になってがむしゃらに生きろよ!俺はお前の為に頑張りたいんだから!」
そう彼女に言ったはずだった。
「本当に私が重荷にならない?」
泣きながらそう聞く彼女を力の限り抱きしめたはずだった。
「当たり前だよ、ここで別れるくらいだったら医者になれない方が何倍も何千倍も何兆倍もマシだ」
そう言って彼女の唇を強引に奪った。それに対し彼女は喜んで腕を僕の首に回し、互いの唇を求め合ったはずだった。
だからその粋がったはずの心意気はこんなにも簡単に崩れ去るとは思いもしなかった。自分がこんなにも弱いなんて思いたくもなかったが、逃れようのない事実だ。僕は彼女が死ぬ事を受け入れる事ができなかった。死ぬかもしれないという可能性を受け入れる事が出来ないでいた。
だってそうじゃないか、いくら病弱だったからといって今まで小さい頃から彼女がそばにいたのだ。僕は小さい頃から彼女を追いかけ彼女と共に成長してきたのだ。なのに、彼女がいない世界など想像できるはずはないし、そんな事受け入れることなど出来るわけがないじゃないか?
僕は気持ちが落ち着くまでそこで思い切り泣いた。それで体が冷え風邪を引くかもしれないという心配などするはずもなく、沸き起こる感情に身を任せた。それはまるで五歳の子供が泣きわめくようなものだった。誰かが見ればきっとみっともない若者がおめおめと泣いていると馬鹿にしたかもしれない。でもそんなのはどうだって良かった。この世界には屋上で泣き喚く僕と無菌室のベッドで寂しげに外を眺める真戸京香しかいなかったのだから。
僕が泣き止んだのは西空に微かに顔を出す太陽を見た時だった。その頃には僕は涙を流すエネルギーも水分もなくしていた。遠くの方で微かに見える夕焼けをしばらく見つめた後僕は弱まる雨の中の屋上を後にし、京香の主治医の野々上久の下へ向かった。
「そのびしょ濡れの体をどうにかしなさい。患者だけでなくその面会者の面倒まで私は診る気はないぞ」
担当患者を何人も抱え忙しい中、迷惑そうにこちらを見つめる彼の目線は僕に鋭く突き刺さった。ただ、そんな事を気にする気は僕にはさらさらなかった。
「真戸京香を助けて下さい!お願いします!」
僕はびしょ濡れの体を地面に擦り付けるように土下座をし、辺りを水浸しにし、その叫びは辺りの人々の足取りを一瞬止めた。
「君ねえ…」
野々上はそんな事は気にも留めずにそう呟いた。
「ベストは尽くす。だが、今のままだともって半年だ。覚悟はしなさい。だからこそ君は君なりに彼女に対しベストを尽くしなさい」
しばしの沈黙の後、彼はそう言い残しその場を去って行った。取り残された僕はただ茫然とその場に座り込んだままでいた。