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それから一週間が過ぎた。徳井さんは高寺さんと一緒に海外に行き、彼の勤務先の病院で治療を受ける事になったそうだ。その事は上原さんを通じて知った。徳井さんと高寺さんからはその後も「会って話がしたい」と何度も連絡が来たが、私がそれに答える事はなかった。私と連絡を取ったところで互いが気まずくなるのはわかりきっていた。私の事はさっさと忘れて二人で幸せに暮らせばいいのだ。それが身を引いた者の定めだ。それにお互いにとってもさっさと忘れた方が楽だろう。どうせもうすぐ二人は遠くの海外に行き、会う機会はなくなるのだから。
「それで本当にいいの?」上原さんは心配そうにそう尋ねてきた。
「いいんですよ、これで。辛い恋はさっさと忘れた方がいいんです。少しの間の恋だったのが不幸中の幸いですよ。私はこの恋をさっさと忘れて、あの二人は私の事をさっさと忘れて仲良く暮らせばそれでいいんです」と私は言った。
そういう私に対して上原さんは不満げな表情を浮かべたが私がそれに構うことはなかった。そしてまたいつもの日常が続いていくのだ。
「加賀美先輩、それは有り得ないっすね」
そんな日常は訪れはしないと言わんばかりに話に割って入ってきたのは話を盗み聞きしていた橘だった。
「あんたには関係ないでしょ?」私はイライラをこれっぽっちも隠さずそう言った。
「関係ないって徳井さんには世話になったんすから関係ない事ないっすよ。事情は上原さんから聞いてます。いいっすか、あっちだって気まずいのにそれを承知で二人して連絡を取ろうとしているんすよね?それだけ伝えたいことがあるって事っすよ。それなのにそれを無視するなんて恩を仇で返すつもりですか?」橘も負けじと怒鳴るようにそう言ってきた。
「あんたにそんな事言われたくない」
「あー頑固な人だな、どんだけ俺の事嫌いなんっすか?いや、もう嫌いなの承知の上でこっちだって話しているから構いませんよ。でも俺、なんか変な事言ってますか?俺だったら大切なばあちゃんがボケてても俺に会いたいっていうなら飛んで会いに行きますよ。それと何か違いがあるんっすか?それとも振られた相手の恋人になったから、自分を振った相手だから、これまでの関係も全部どうでもいいって事なんすか?あんたの恩なんてその程度なんっすか?これでも俺だって加賀美さんの事を想って言っているんすよ?どーでもいい相手だったら『あーあ馬鹿だな、こいつ』って心の内で思って終わりっすよ。それをわざわざ口に出して言っているんだから、察してくださいよ。俺だって少しは心配しているんっすよ。大切な相手が事情を分かってる上で最後会いたいと連絡を寄越してきている。それなのに返事も寄越さずに会わないなんてよっぽど立派な理由なんでしょうね?俺にはただ逃げてるようにしか見えないっすけどね」
私は何も言い返す言葉が出てこず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
「恋ちゃん、ここで逃げたら一生後悔すると思うよ」
しばらくして上原さんは諭すようにそう言った。
「でも…でももう無理ですよ。今から行って間に合うかどうかわからないし、それにそもそもこれから仕事だってのに抜け出すわけにいかないじゃないですか…」
私は子供のように小さくなりながらそう言った。
「それがなんだっていうんっすか。何の為に俺たちがいると思っているんすか」
「恋ちゃん、行っておいで。恋ちゃんの空いた穴は何とかするから。最悪あたしと橘君で店を回せばいいことだし。皆恋ちゃんの味方だから気にせず行ってきな」
顔を上げるとそう言って優しく私を見つめる二人の姿がそこにあった。迷う暇などもうどこにもなかった。二人に背中を押され、私は無我夢中で空港に向かって走り出した。
高寺さんは言った。「そこに太陽がなくても、そこには無数の星が僕らを照らしてくれている」と。本当にその通りだ。上原さんだって、あんなに馬鹿にしていた橘だって、こうやって私の事を想ってくれていた。たとえ絶望に突き落とされたと思ってもいつも何かしら、誰かしらが私を照らしてくれた。そんな無数の星たちのおかげで今の私がいた。
私はあのタワーに向かった時、迷信に全てを委ねた。でもそもそも私はそんな迷信なんかに頼る必要なんてなかった。
私は多くの仲間に支えられていた。辛い事があっても誰かが私を助けてくれた。
だから私は詩織の力になりたかった。
だから私は徳井さんの力になりたかった。
だから私は高寺さんの力になりたかった。
そのはずだったのに私は逃げたのだ。自分勝手な一時の感情のせいで。力になりたい相手が会いたいと言ってくれている。それだけで十分幸せだったのだ。相手から何を伝えられるのかそれは分からない。でも私に話をする事で彼らの願いが一つ叶うというのであればそれだけで十分ではないか。彼らの幸せを考えさえすればそれを拒む理由などなかったのだ。
空港に着くと私は徳井さんから伝えられていた飛行機の便のフライト情報を即座に確認した。どうやらまだ搭乗手続きの段階だった。それが分かると私はすぐに徳井さんに電話を掛けた。電話の呼び出し音はいつまでも続くように思えた。その時間が長く続くほど、私の心臓は激しく鼓動している気がした。
「恋ちゃん?いまどこ?」
緊張と諦めが交差し始めた頃になって徳井さんが電話に出た。その声は喜びと驚きが混ざり合っているような声だった。
「今、空港に着きました!」
「良かった、それじゃあ保安検査場の手前に来て!」
焦るように話す徳井さんに促され、走って保安検査場に向かうとそこには両手を広げて私を一人で待っている徳井さんの姿があった。あの優しい表情だった。よく相談に乗ってもらっていた時の様な優しい表情で徳井さんは私を待っていた。その姿を見た私はついさっきまで抱いていた気まずい気持ちがどこかへ吹き飛んでいた。そこにいたのは私を優しく包み込むいつも通りの徳井さんだった。私は迷わず彼女の胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい。返事返せなくて」
徳井さんの胸に飛び込んだ私はそう言った。
「ううん、そんな事どうだっていい。それよりも私こそごめんね。恋ちゃんにつらい決断させちゃって」
涙声でそう言う徳井さんに私は我慢が出来なかった。私は遠慮なく徳井さんの胸の中で泣いた。そしてそれに応えるように徳井さんは私を優しく抱きしめるのだった。
「徳井さんだから出来たんです。徳井さんは私にとっても大切な人だから会わせなきゃってそう思ったんです。でもごめんなさい。私、そうは言っても弱いからせっかく大切な人が会いたがってるってのに、あまりにもショックだったからこんなギリギリまで逃げてました」
しばらくして落ち着いた私はそう言った。
「いいの。このまま会えないで出国する事も覚悟してたし、会いに来てくれただけで十分。私とても幸せだよ、ありがとう。あっちに行ってしっかり病気治してくるよ。着いたら連絡するからね」
「はい、待ってます。私はもう大丈夫なんで心配しないでくださいね。二人が羨むくらい素敵な相手を今度見つけてみせるので」
「おっ!言うね、恋ちゃん。別にこれから先私の病気が治って太晴とは別に素敵な男性と巡り合う未来もありうるんだから。そこまで気を張らなくてもいいんだよ?」
「病気が治れば用済みってわけですか。徳井さんも悪い女ですね」
「世の中には素敵な男が山ほどいるからね。もっといい男に乗り換える貪欲さがあってもいいでしょ?」
気が付けば休憩時間等でよくやっていた下らない冗談を言い合っているいつもの私たちがそこにいた。それが嬉しいのか冗談自体のおかげかわからない。ただ、私たちはいつものように笑い合っていた。
「とにかく二人とも幸せでいて下さい。私が望むのはそれだけです」
「ありがとう、恋ちゃん。それじゃあ私は行くね。もうすぐしたら彼も荷物を預け終わってここに来るだろうけど、私がいちゃ中々話しづらい事もあるだろうからふたりっきりでゆっくり話してきて」
そう言って徳井さんは最後に私を抱きしめて手を振りながら名残惜しそうに検査場へと向かうのだった。
徳井さんはもうすぐと言っていたものの、高寺さんは中々姿を見せなかった。私は仕方なく近くのベンチに座り辺りを意味もなく眺めた。
これから旅行に向かうのか、旅行から母国に帰るのかわからない。だがそこには楽しそうに検査場に向かう家族連れの姿、大きなバックパックを背負って検査場に向かう旅人、別れを惜しむ親と子、そしてしばしのお別れなのか抱き合うカップルの姿が多く見られた。そう、ここは多くの人々にとって出会いの場であり、別れの場だった。そして、私自身もその別れをする者の一人だった。
これまでいくつもの別れをした。憧れだった葛城さんに幻滅し、襲ってきた彼から逃げる事で訪れた幻想との別れ、喧嘩して謝る暇もなく訪れた詩織との突然の別れ。思い返せばどちらも酷い別れだ。でも今日は笑顔で徳井さんとお別れが出来た。次一体いつ会えるのか分からない。それでも私たちは遠くにいようともどこかで繋がっている。そう思える笑顔の別れだった。
ふと後ろを振り向くとそこには高寺さんがぽつんと立っていた。
「久しぶり」彼はぎこちなくそう言った。
「久しぶりじゃないですよ、一週間ぶりです」と私は言い返した。
「一週間がとても長く感じたから僕にとっては久しぶりなんだ」
「詩人か何かですか、一週間は一週間です」
「相変わらずだね」
「いつものようにしゃべりたいだけですよ」
「ごめん」
「謝らないでくださいよ。これは私自身が選んだ事でもあるんですから」
「そうだね、ここで長々と謝ったところで見苦しいだけだね」
「そうですよ、まったく。そんな事よりもわざわざ連絡をよこしてきたんだから何かこっちが喜ぶような事をしてくださいよ」
私は冗談っぽくそう言ったものの、高寺さんは真剣に私を見つめるのだった。だから私は恥ずかしくなって目を逸らした。それと同時に高寺さんは私を強く抱きしめた。
「ありがとう。ちゃんと伝わるかわからないけど君に会えて良かった」と彼は私を抱きしめながらそう言った。
「それより徳井さんの病気ちゃんと治してくださいよ」
「ああ」
「そして徳井さんの事、幸せにしてくださいよ」
「ああ」
「あとそろそろ離してもらえません?名残惜しくなっちゃうんで」
と涙が溢れそうなのを必死に堪えながら私はそう言った。
高寺さんは私の言葉に答えるように少しずつ体を離すと最後に私のおでこにキスをした。
そしてそれは私の理性を吹き飛ばすのに十分だった。私は迷いなく彼の唇を奪い、彼もそれに対し徐々に心を開くように舌を絡めた。それからどれくらい経ったのかわからない。ただ、気がつけばどちらともなく私たちはゆっくりと体を離していた。
「ありがとう。元気で」
憎らしいほどの素敵な笑顔で彼はそう言った。
「ありがとう。私も会えて良かった」
涙を流しながら私はそう言った。
振り返ってみればそれは一つの失恋だった。一つの別れだった。でもそんな言葉などちっぽけに思えるほどの感謝がそこにはあった。
詩織に出会えたから今の私がいた。
徳井さんに出会えたから今の私がいた。
高寺さんに出会えたから今の私がいた。
どれか一つでも欠けていたら今の私はいなかった。だからこそ私はいつか葛城さんとの出会いすら感謝する日が来るのだろうか?それは今の私にはわからない。
ただ、一つだけはっきり言える事がある。たとえこれから先どんな別れがあろうともその出会いに感謝し「ありがとう」と伝えたい。
そう、さよならのその前に。




