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「風鈴っていいよね、あれは癒されるよ。チリンチリーン♪って」
これが夏に言う台詞であれば何の違和感もないだろう。だが、今はまだ桜が散ったばかりの4月中旬なのだ。それでもそんなのはお構いなしにこんな発言をするのだから詩織らしい。
「それってつまり私に買ってこいってこと?まだ梅雨もやってきていないこの時期に?」
「いいじゃん、いいじゃん。病人である私からの一生のお願い!来年には死んじゃってお願い聞けなくなるかもしれないんだよ?」
そう言いながら彼女はベッドの前で立っている私に向かって手を合わせながら上目遣いでわざとらしく何度も目をぱちぱちさせた。どうやらこれが彼女なりの人にお願いをする際の精いっぱいの姿勢らしい。
「そういう冗談やめて、笑えないし」
「えーなんで?私がこうして自分の病気を冗談にして笑い飛ばしてるんだから、恋も同じように笑い飛ばしてよ!」
「はいはい、そうですか」
そうやって能天気に話す彼女を私は軽く受け流した。
「あれ?ねえ怒った?怒った?」
「怒ってない、こんな時でもふざけてるあなたにただ、呆れているだけです!そんな悪い子にはこのお見舞いで買ってきたりんごあげるのやめるから!」
「ええ!うそ!そんな神様、仏様、恋様!どうかわたくしめをお許しくださいまし!」
「よろしい!余も心の広い高潔なる者、許して進ぜよ!」
「ははああ!ありがたき幸せ!」
「ふふ、でもごめん、ナイフ持ってくるの、忘れたからそのまま食べて」
病室のベッドの上で大げさに土下座をする彼女に私はついつい笑いを堪えきれず、正直に忘れたことを謝った。
「ええ!何それ!せっかく私が土下座してあげたのに!」
そんな下らない冗談を言っては私たちはいつも通りに笑いあった。谷口詩織はこうやって突拍子もない話をしたり、自分が命に関わる病気だろうとそれを笑いに変えてしまうくらい、いつも下らない冗談を言っていた。そして、その振る舞いが何よりも有り難かった。彼女がそうやって明るく振る舞うが故に私は彼女の病気をあまり深刻に受け止め過ぎずに済むのだから。
「ところで、恋はどうなの?最近良い話とかないの?恋バナとか浮いた話とか」
りんごを無心で食べ、やっと大人しくなったかと思っていた矢先、詩織は急に話題を変えてきた。
「どっちも恋バナのことでしょ?まったくあなたはその類の話が大好物なんだから。残念だけど、わたし相変わらずそんな話は皆無なもので…」
「ええ!ないの?もう大学二年生なんだよ?大学生にもなって好きな人の一人や二人出来ないなんて社会人になったら恋人なんか出来ないよ!」
「余計なお世話です!私は散々詩織から恋愛のどろどろした所を見せ付けられたから恋愛なんかする気にならないの」
「ええ!ひどいな。私は私なりにこれまでの恋愛楽しんできたつもりなんだけどな。それに私はただ白馬に乗った王子様をいつも探しているだけだし」
「白馬に乗った王子様だって!あらまあ何ともロマンチックな事!」
「ああ!馬鹿にした!今、馬鹿にしたでしょ!その薄ら笑い!相変わらず恋は口が悪いな!そんなんじゃモテないんだから!」
「モテなくて結構でーす!」
そう言いながら私は詩織に対してあっかんべーのポーズをとった。
「キィィ!むかつく!」
そう言いながら本気で悔しがる彼女を見ながら私は声を出して笑った。私自身、口が悪い女である事は自覚している。それでも詩織はそれに対し嫌味もなく受け入れてくれ私を結果的に笑わしてくれた。だからこそ病気である彼女を見舞いに来たのにいつも元気をもらっているのは私のほうだった。
詩織の病気が見つかったのは大学に進学して一年ほど経った頃の事だった。それは世界中で猛威を振るい、この国でも十年ほど前から患者が出始めた致死率の高い危険な病気だった。その病気の治療方法はおろか、原因すら未だに分からず、患者は体内の免疫細胞の働きが弱まり、免疫力を徐々に落とし、最悪の場合には些細な感染病や癌を発症していとも簡単に命を落とすのであった。
彼女は大学進学と共に大学付近に引っ越し一人暮らしをしていたものの、病気を機に家族がいつでも見舞いに来れるように、大学を休学し、故郷であるこの街の病院に入院した。この病気の原因がはっきりしない以上、免疫力を上げる治療を行うしか方法はなかった。仮に治療がうまくいき患者が快方に向かっても原因が特定されていないため、再発するケースもあり、継続的な検査は必要だった。
彼女の場合は一般の人と比べれば依然免疫力は低かったものの、治療が功を奏したのか幸いそれ以上悪化することなく安定した状況がここしばらく続いていた。
「ところでさ、またいい男を見つけたんだけど」
「詩織、またそんな話?病院の中でもそんな事考えてるわけ?いいかげん病気治すことに専念すればいいのに」
「いいじゃん、いいじゃん。息抜きも大切なんだから。ここ大して娯楽もないし、やる事限られてるからすぐ暇になるの。それにそもそも病気治すのに専念しようにもどうしたらいいのかわかんないし。楽しいことやってた方が病気の方も良くなっていくと思わない?」
「はいはい、分かりましたよ、そうですね。で、どんな男なの?」
いつものように目を輝かせてその男性の事を話す詩織の事を私は頬杖をついて聞いた。そうやって彼女の恋バナを私が聞いてあげるのが私たちの日課だった。一目惚れした男性の話、たまたま道で出会った素敵な男性、ドラマを見て気に入ったイケメン俳優の話、初めての彼氏とのデートの様子、思いもしなかった男性から告白されたと報告したり、二股を掛けられたと深夜私に泣きついたり、密かにアプローチし続けた相手とやっと付き合える事になったと報告したり、倦怠期での彼氏への愚痴だったり、そして喧嘩別れした際の元彼への怒りなど、彼女のこれまでの恋愛遍歴に関しては誰よりも熟知している自信が私にはあった。それくらい彼女は私にたくさん恋の相談をしてきた。何で私なんかにここまで心を許すんだろうと思うほど彼女は私に多くの事を臆することなく話してくれた。
そして、彼女はいつも誰かに恋をしていた。それがたとえ一瞬で終わる恋だろうともどんなにひどい別れをしようとも成就しようとも片思いに終わろうとも関係なかった。彼女は恋を楽しんでいた。だからだろう、いつも彼女の目は輝いていた。
彼女の話によると今回の恋の相手はアラサーの高寺という担当の医者だった。
「やっぱり医者は忙しいのか疲れた目をしているんだけど、患者である私たちには必ず微笑みかけてくれるの。患者に親身に向き合ってくれるのはもちろん、今の私の状態、今後の対処、治療法を私の目をじっとそしてしっかり見て事細かく丁寧にそして分かりやすく説明してくれるの。だけど、何よりの魅力はふと一人きりでいる時の寂しそうな表情!そんな時の彼は職員の人だろうと声を掛けるのを躊躇するほどのオーラを放っているの。孤独で寂しくもあるけどそこに誰かが割って入ってくるのを許さない!みたいなそんな空気を醸し出しているの。そのミステリアスな感じがもうたまらないよね!きっと昔何かしらつらい経験をしたに違いないって私は思ってる」
熱心に語る彼女に圧倒されながらも私はいつものように適当に相槌を打っていた。だからこそ彼女のその発言を聞き逃してしまった。
「・・・というわけだから恋、お願いね!」
「え、何が?」
「だ・か・ら!私の恋のキューピットになって!て言ってるの。ちゃんと聞いてた?」
「あっ…ちょっと待って。ちゃんと聞いていなかったことは謝る、ごめん。でもどういう事、恋のキューピットって?」
「そりゃ、私と高寺先生の恋のキューピットって事に決まってるじゃん。もう、ちゃんと聞いてよね」
そう言って拗ねる彼女に対し、理解が追い付かない私はしどろもどろに返答するしかなかった。
「ちょっ、ちょっと恋のキューピットってどういう事よ?それにそもそも私がどうやって恋のキューピットになるっての?」
「そりゃ~先生について情報収集してもらうとか…あの人、必要以上に自分の事話してくれないし、中々距離が縮まらないんだよね」
「そんな事言ったって、詩織は恋愛には慣れてるんだから今迄みたいに自分の手でアプローチすればいいじゃん。なんで私が手助けしないといけないの?」
困惑して彼女の頼みを拒む私を尻目に彼女は一息深呼吸して私の手をそれぞれ握りしめた。
さっきまで冗談を言い合っていた時とは異なり私の方にしっかり向き合って真剣な表情で目をじっと見ながら話し始めた。
「最後かもしれないから。最後かもしれない恋だから恋の力を借りてでも精一杯楽しみたいの。だからお願い」
私を決して逃がしはしないであろうその鋭い眼光に見つめられては話をはぐらかす隙などどこにもないようだった。「最後かもしれない」その言葉は先ほど詩織が冗談で放ったそれとは重みが違った。こうやって真剣な表情で言われれば言われるほど私は「彼女の死」が身近に潜んでいる事を自覚せずにはいられなかった。
どうやら私は改めて彼女の病気に対し真剣に向き合わなければならないようだ。いくら安定しているからといっても彼女が完治困難な謎の難病に罹っているのは間違いない事実だ。そしてその多くが死を迎えている現実を考えれば彼女が常に自身の死を頭の片隅に抱いている事は何ら不思議ではないのだ。でも、私はその現実をどうしても受け入れる事が出来なかった。何だかんだ言ってははぐらかしその現実から目を逸らすのだった。さっきだってそうだ。私は単に彼女の明るさに助けられているだけなのだ。一人では彼女が死の危険性の高い難病を患わっているという現実に耐える事など出来やしない。
「最後かもしれない」そう真剣な表情で言う彼女は自分がもうすぐ死んでしまうかもしれないという現実に対して、もうとっくに覚悟を決めているのだ。
私はそんな彼女から逃げるように目を逸らし、あたりを見渡した。何か話題を逸らすものはないか、私はとっさに、本能的に行動していた。
「あっ」
私は入学祝に親から買ってもらった腕時計に目がいった。
その時計は八時四三分を示していた。私は思わず声を上げた。
それは一つの用事を思い出させるには十分だった。そうだ、今日は詩織の見舞いの後にバイト先の仲間たちの飲み会に参加する予定だったのだ。それなのに気が付けば集合時間の時間はもうすぐだった。
「ごめん、用事忘れてた」
私は大急ぎで荷物を持ち詩織に目も合わせずに病室を去ろうとした。
「さっきのお願い、約束してくれる?」
振り返ると急ぐ私に対し鋭くまっすぐな瞳で見つめる彼女の姿がそこにあった。
「ごめん、その話は後でまた。じゃあ私急ぐから!」
私はそう言い残し、その場を逃げるように去った。たまたま逃げる口実があったものの、そんなものがなくとも何かしら理由を捻り出して逃げていたに違いない。そうだ、最後のはずがないのだ。いくら彼女が大変な病気に罹っていようといつでも会うことができたじゃないか。彼女に会えなくなるなんてあるわけないのだ。当時の私は現実から目を逸らしていた。それに比べ彼女はどんなに明るく振る舞おうととっくの昔に覚悟していたのだ。自分の命が尽きるその日を。だからだろう、当時の私は彼女のあの目に向き合う勇気はなかった。