5-3
私はその間驚きと戸惑いで何も出来なかった。状況がどうしても飲み込めないのだ。こんな事全く想定などしていなかったのだから。しかし、さすがの私も一つの大きな事実を思い出すことが出来た。私を今襲っているのは大事な彼女がいるはずの葛城さんなのだ。こんな状況は許されたものではない。私は「やめて下さい」と顔を背けながら言い、そして彼を拒絶する様に突き放した。
だが葛城さんは決してその言葉でやめようとはせず平然と私の首に吸い付いてきた。
「やめて下さいよ、もう!」
私は語気を強めて今度は力の限り彼を突き放した。
「痛!」勢い良く突き放された葛城さんは壁に後頭部を強く打った。
「何やってるんですか、葛城さん!私はそんなことする為に家まで付き添ったわけじゃないんですよ!」
「何だよ、もう…ノリが悪いな。いいじゃないか、今日はこのまま何も考えずに抱かれればいいじゃないか。楽しもうよ、恋ちゃん」
「楽しもうって…彼女がいる人とそんなこと出来るわけないじゃないですか!彼女さんが悲しみますよ?」
「彼女?ああ、もうあんな奴知らねーよ!こっちが仕事が休む暇なく忙しくて、思い通りにこなせなくって、四苦八苦で心細い時だってのに別の男見つけて別れを告げてきたんだよ、あの女は。まったくあいつはとんだ女だよ!だから俺は今、フリーなの。分かる?彼女の事とか気にする必要なんてないの。だからもう気にしないで大丈夫だって、恋ちゃん。俺に抱かれたがってた事くらい、こっちだって前々から知ってたんだから」
そう言って葛城さん躊躇なく私の胸を触ろうとしてきた。
「やめて下さい!」私は怒鳴りつけるように言った。
「何だよ、うるさいな、そんなに怒鳴られたら酔いも冷めちまうよ、ったく」
「私が好きだったのは彼女の事を一途に想って、彼女さんの事を大事にするそんな先輩の姿だったんです。酒の勢いで女に手を出そうとするような人を好きになった覚えはないです!」
「はあ、何だよ、めんどくせー女だな。俺の何を知ってるつーんだよ!一緒に働いていただけで俺の何がわかるってんだ!まったく、酒に酔わせれば持ち帰りできるかなって思ったら酒つえーし、いざ家に持ち込めたと思ったら無駄にガード硬いしよ!もういいよ、めんどくせ、帰れよ、さっさと帰れ!そうやって変にガードが硬いから男を引っ掛ける事が出来ないんだ――」
彼が喋り終わるか終わらないかのタイミングに私は力の限り彼の頬を平手打ちした。
「言われなくても帰りますよ!葛城さんがこんな人だとは思いませんでした。幻滅しました。さようなら」
私はそう言い終わるとそそくさと部屋を出た。そして、その音でマンションの住人が目を覚ますんじゃないかと思えるくらい力を込めて思いっきりドアを閉め、私は真っ暗な夜道に身を投げた。
辺りは静寂に満たされていた。ここからタクシーを拾って帰るのも一つの選択肢だった。だが、気持ちがグチャグチャの今の状態で誰かと一言も会話をしたくなかった。私はひたすら見覚えのある道や建物を頼りにただただ歩いた。一人で歩いていれば少しは気持ちが落ち着くかと思ったが落ち着こうと思えば思うほど涙が溢れ出て仕方なかった。なぜこんなにも涙が出てくるのか理解が追いつくまでもなく、止めどなく涙が溢れて仕方なかった。通り過ぎる人々は暗闇から泣き声と共に現れた私に驚きや恐怖を感じていたかもしれない。しかし私はそんな事を気にするような羞恥心を見失うほど理性を失い、感情が私を支配していた。
やがて私は、まるで光など存在しないと錯覚させられるほどに真っ暗な広大な霊園の前に着いた。こんな深夜にこの中を敢えて歩こうと思い立ったのはそんなやけくそな気持ちの延長だったのかもしれない。
霊園の中は以前自転車で突っ切った時同様、ここが街の中である事を忘れさせるほどの静けさだった。奥にいけばいくほど車道からの雑音は鳴りを潜め、ますます暗闇が世界を支配した。不思議と怖さはなかった。しばらく歩くと視界のずっと先に細長い人影らしきものが見えた。私はその人影に向かって無心で近づいていった。その人影はあの時と同じように、うっすらと月光に照らされていた。彼はあの日と同じようにそこに立っていた。
「やあ、君か」
高寺さんはまるで職場で同僚に軽く挨拶する様な調子で私に挨拶をした。それはまるでこの暗闇の中で彼だけが唯一いつもと変わらず辺りを照らす電灯の様だった。それほどの安心感を抱かさせるほどの落ち着き様だった。
「ほら月をご覧。とても綺麗だ。それに今日は天気が良いからね。星がよく見える。とても良い日だね。こんな日は涙でメイクも落ちて酷い顔をしている暇はないだろうね」
「私の顔、そんなに酷いですか?」
「酷いね。せっかくの素敵な顔が台無しだね」
「これは…しょうがないんです!化粧品の耐水性を研究中だったんで、わざと水で濡らしてどれだけ落ちるのかを観察してたんです。高寺さんが酷い顔だって言うくらいだからこの化粧品は落ちやすいみたいですね」
「それじゃあその研究も一旦終了かな?それとも吐き出したいものがまだあるかい?」
高寺さんはそう言いながら私に微笑みかけた。
「いいえ。それに今は気持ちの整理が出来ていないので話したところで多分うまく伝えられないです」
「そっか」
彼はそう言うと何事もなかったかの様にまたぼーっと夜空を眺めるのだった。私はそんな彼を見習って同じ様に夜空を眺めた。
「太陽がなければ文字通り僕らは生きてはいけない。でも太陽の光がないからこそ見えるものもある」と高寺さんは独り言の様にそう言った。
「急に何ですか?高寺さん」
「いや、つまりどんな辛い事があってもそれがあるからこそ見える世界があるって事さ。太陽が沈んでくれるから僕らはこんな綺麗な夜空を眺める事が出来る」
「励ましてくれてるって事ですか?」
「回りくどい言い方だったかもしれないがそういう事だね。何があったか知らないけどね」
「ありがとうございます」私はお礼を言った。
「僕はね、昔太陽になりたかったんだ。それくらい僕を照らしてくれる存在が身近にいたから、僕もそんな彼女の助けになりたかったんだ。彼女を亡くした時、僕は太陽をなくして暗闇に放り込まれたと思った。でも気がつかされたんだ、そこには数々の星が光り輝くとても美しい夜空があるって事にね。だから僕はいつでも幸せでいれるんだ、たとえ太陽がなくても」
「私は高寺さんみたいに強くないですよ」
私はそう答えた。
「強くなくたっていい。少なくともここから見る夜空は星がよく見えて綺麗だろ?」
高寺さんはそう言いながら私に微笑みかけた。
「確かに街中で見るそれよりも星は見えますけど、それだけですね」
「そうか」
高寺さんはただ頷くようにそう答えた。
「でも、こうやって誰かと一緒に見る夜空も悪くはないですね」
そう言いながら私は目の前に広がる夜空を彼としばらく眺めるのだった。




