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さよならのその前に  作者: 大橋宇宙
13/29

三の2

十日ぶりに会う京香は相変わらず無菌室の中だった。でも表情は思いのほか落ち着いている、そんな気がした。それは僕自身この前よりも落ち着いて今の彼女に向き合えているからなのだろうか?

「週に最低二回は会いに来るって約束だったのに…まったく十日も会いに来ないばかりか、連絡も寄越さないとは。彼氏失格だぞ、まったく」

「あれ、言ってなかったっけ?ついさっきまで十日も掛かる模試をやっていたものだから連絡取れないって」

「十日もぶっ通しで模試なんかしてたらまさしく死んじゃうじゃん、ったく。別に彼氏が来なくても見舞いに来てくれる人たくさんいるから全然寂しくなかったけどね」

「ごめん、連絡寄越さなくて…りっちゃんから色々聞いたよ」

「あれ、もう本題?もっと冗談言って私を笑わしてよ」

「ごめん…」

「ちょっと、そこは嘘でも謝らずに何か冗談言ってくれれば許したのに…まあいいや。りっちゃんから何をどこまで聞いたの?」

「りっちゃんが俺に好意ある事を分かった上で彼女が俺に近づくのを許してたって事。それと自分は先が長くないからりっちゃんに俺を支えてくれって託したって事。ほんと、なんつー彼女さんだよ、まったく。そんなことされたら逆に京香に対する想いは強くなるだけだわ」

「そのままりっちゃんとくっついちゃえば良かったのに」

「嘘でもそんな事言うなよ!俺の気持ちにもなってくれよ」

 興奮気味にそう反論する僕に対し京香は一息ため息をしてから話始めた。

「私だって太晴の傍にいたいよ!私の病気が奇跡的に治って太晴とずっとそばに居れるならそりゃあ、そうであって欲しいよ!でもそんな事を夢見るほど私だってもう子供じゃない。今ある現実として私が亡くなってからの事、真剣に考えないといけないの!悲しいかもしれないけどいつまでも泣いているわけにはいかないし、何よりも私の事引きずっていつまでも悲しんでほしくないよ!太晴の事は大好きだから私がいなくなっても幸せでいて欲しいの!おかしいかな?」

「おかしいよ!好きだったらいつまでもその人と一緒にいたいって思うもんじゃん!」

「太晴は小さい頃からいつも私を追いかけてた。だから怖いの、私がいなくなったらこの人はどうなるんだろうって。昔から病弱だったから誰かの負担にはなりたくなかった。だから太晴の事が好きでも彼女になるのは避けてた。最後は根負けして付き合う事になったけど、それでもこっちはただちょっと好きになったから付き合うとかいう軽い気持ちで付き合い始めたわけじゃない。相当の覚悟をもって付き合いだしたの。だから太晴のためなら仮に私を捨ててほかの女の下に行こうともそれが太晴の幸せならそれでいいと思ってる。本当だよ?だからりっちゃんの事分かってた上で許した。それが太晴の為になると思ったから!」

「なんだよ、それ。もっと俺を必要としてよ!」

「太晴の事は大事だよ。でも太晴がいないと困るような人生は嫌なの。だって私はただでさえ身体弱くてほかの人が当たり前に出来る事を十分にできなかった。それを一つ一つ望んでいたらいつまで経っても幸せになれないよ!病弱な彼女を捨てて彼氏がほかの女に逃げてしまうなんて考えてるようじゃ彼氏なんか作れないよ。私は太晴がいなくても幸せでいる勇気を持てたから太晴と付き合う覚悟が出来たの。わかる?だから太晴も強くなってよ」

「強くなってって言われて『はい、強くなります』って簡単に言えるわけないじゃん。今までどれだけ京香の事想ってきたと思ってるんだよ。何の為に俺、医者目指してると思ってるんだよ。無理だよ。そんな事急に言われても」

 京香と付き合えた事に喜んでいた自分、自分が医者になって治してやると粋がって彼女を抱きしめていた自分、後輩のりっちゃんの好意に甘えた自分、彼女の覚悟を聞いた後ではそのすべての自分が幼稚に思えて仕方がなかった。気が付けば僕はいつものように泣いていた。まったく情けない男だ。つくづくそんな自分が嫌になった。

「こっちに来て」

 どれだけ時間が経っただろうかそんな僕に対し京香は優しく声を掛けるのだった。そしてベッドから降り、ベッドの周りを囲むビニールカーテンの前に立った。僕も涙を拭き、言われるがままにカーテン越しに彼女の目の前に立つことにした。

「両手を前に出して私の手に重ねて」

 ビニール越しだがそれでも彼女の体温を感じる事が出来た。彼女の手は冷たく弱々しかった。でもそれと反比例するように僕の心は温まっていく気がした。

「おでこも付けよう?」

「おでこは熱いくせに相変わらず手は冷たいのな」

「じゃあ太晴の手で温めてよ」

「わかった」

 そうやってしばらくビニール越しからお互いの体温を、存在を感じ取った。無菌室という壁があるからこれが最大限のスキンシップだろう。

「ねえ、キス…したい?」

「ビニール臭いだけだし、それはさすがに勘弁だわ」

「だよね」

 彼女のおかげで気が付けばさっきまで泣いているのが嘘のように笑い合っている二人がそこにいた。まったく同い年のはずなのに京香には敵わなかった。

「わたしはここにいるから。離れていても心はいつも太晴の傍にいるから」

「うん」

「無理に強くならなくっていいから、それだけは覚えていて」

「どっちが病人かわかんねえな」

「これでも私も太晴からこうやって元気もらってるんだけどな…」

「そりゃあ嬉しい事言ってくれるね」

「一応恋人ですから」

「そうだった、そうだった」

「これから会ったらこれを毎回しよう?それで会えない時はこの時の体温の事、そばにいるよって事、思い出すの。たとえ離れていて体温を感じる事が出来なくても心は繋がってるから」

 優しくそう語りかける京香に僕はキスで返事をした。

「さっきキスは嫌だって言ったじゃん、嘘つき」

「唇を重ねるくらいだったらそんなにビニール臭くないかなって唇の体温感じるくらいいいじゃん」

「まったく、しょうがないな」

 そう言って彼女は返事を送るようにビニール越しに唇を重ねた。決してお互いを求め合うような激しいキスではなく向こう側の相手の体温を感じる為のとても静かなキスだった。

 それから僕と京香は毎日連絡を取り合い、週に二日会ってはビニール越しに両手を重ねおでこを合わせキスをした。そうやって僕らはお互いの体温を感じるのだった。

そして、僕はとにかく医学部に受かる事だけに集中して受験勉強に励み、彼女は治る事を信じて治療に専念した。うまくいくのかどうなるのか保証はどこにもなかった。ただ京香は「叶うかどうかわかんなくても目標があった方が頑張れるでしょ?」と笑いながら言った。僕はその言葉をただ信じるしかなかった。

 今年度最初の模試を明日に控えた日の夕方僕はいつものように彼女のお見舞いにやってきた。普段よりも少し早い時間だ。せっかくなので少し驚かそうとそーと音もなく僕は部屋に入った。

「よ!」

「ちょっと、ノックくらいしてよ!」

「なんだよ、京香らしくない。何か隠しごとか?」

「入院生活は結構退屈だからね。皆にサプライズでもしようかなって思ってちょっとやってる事があるの。だからこれ以上詮索しないでよね」

「はいはい、わかったよ」

 彼女が何を隠したのかはあっという間だったのでわからなかった。だが、サプライズと聞いて僕はそれ以上の詮索をやめる事にした。

「明日は模試なんでしょ、今度こそ合格できるようにいい点取って私を安心させてよね。そしてさっさと医者になって私を治して!」

「おうよ!」

 無菌室に入ってばかりの頃とは違い口には出さなくとも僕が仮にそのまま合格しようとも劇的な特効薬でも出来ない限り彼女の命は僕が医者になる頃までは持たない事はお互い分かっていた。それでもそれを承知でこんな冗談が言えるのは毎度行う、あの儀式のおかげだったのかもしれない。決して直接触れる事は出来なくともビニール越しからお互いの存在を感じ取る事で不思議と不安から解放されたのだった。そして、その儀式のおかげか京香自身も、まだ無菌室から出られるわけではなかったが病気による免疫力低下に歯止めが掛かり体調は安定しているようだった。今年年を越せるかどうかと言われていたが、少なくとも僕の受験結果を見守る事は出来そうだった。そういった安心が尚の事、僕らに心の余裕をもたらせてくれているのかもしれない。

「それじゃあ、合格間違いなし!って思えるくらいの点数叩き出してよね。何たって二浪してるんだからね!」

「そっちこそサプライズ楽しみにしてるからな!」

「太晴へのサプライズだなんて一言も言ってないんですけど!」

「ええ!じゃあ別の男かい!俺を捨てて別の男に乗り換えてしまうなんてひどいじゃないか」

「何言ってるんだか」

 そうやって下らない冗談を言いつついつものようにビニール越しの体温からお互いの存在を感じ取り、別れのキスをして翌日の模試に臨むのだった。

コンディションは万全だった。ここ数日も過去問を解いてはわずかな反省点を改善しながら高得点をたたき出す日々だった。だからこそ模試当日は朝に一言「模試頑張ってくる」と返事も待たずに打ったきりだった。模試に集中する為にも模試の休憩時間も含め電話の電源を切ったままにしていたのだ。

その日はここ何年もこんな生活を繰り返している僕にとっては日常の一コマでしかなかった。違いと言えば今まで以上に模試が上手くいったと感じた満足感くらいだろう。だから僕は模試が終わり、解いた問題に関してあーだこーだと余韻に浸る事もなく一目散に携帯電話の電源を入れ彼女に連絡を入れようとしたのだった。

しかし、結局その日彼女と連絡を取る事は一度として出来なかった。ケータイを開くと彼女の母親から何度かに渡って着信が入っていた。そんな事は初めてだった。とっさに悪寒がした僕は折り返し電話を掛けるまでもなくその足で直接病院に向かったのだった。



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