揺籃世界における成人とその意味
■前文■
この小文は、私の著する物語世界のいくつかに共通した、社会的な通念について書かれたものです。世界観を深める一助として個人的にしたためたものですが、ご興味のある方はどうぞお時間の許す限りおつきあいいただけましたらと思います。
現実世界の成人についてを引き合いに出して如何するには資料が足りませんので、手前味噌ですが、拙作のことに限ってお話させていただきます。
●揺籃大陸の小児教育
●教育における聖堂の立ち位置
●成人年齢とその意味
●社会的通念としての「成人」
●東部火山地帯における「成人」
●その他のヒト族における通過儀礼
●結びに
●揺籃大陸の小児教育
まず、かの大陸において主に教育と言えば職業的な物を指し、ひとりの人間がある職に就いて充分にやっていけるようになるまで面倒見ることを意味します。その手前にあって、どのような職に就くかの下地になる公共教育というものは、実はほとんど存在していません。
なぜなら、多くの国家および氏族において、成人するまでに身につけておくべき一般常識は各家庭で培われるものと思われているからです。
そのため、成人前の幼児小児を集めて何かを教える機会はほとんどないと言えるでしょう。そしてその数少ない例が聖堂教会における「小児精査」です。
●教育における聖堂の立ち位置
聖堂教会とは、この世の成り立ちとすべての物事の帰結を記したと言われる「聖典」を有しており、それを中心とした宗教団体のようなものです。「聖典」を読み解き、すべてのヒト族の繁栄のために尽くし彼らに生きる上での指針を与えることを使命としています。
また彼らの多くは白術、黒術と呼ばれる「意思によるある種の遠隔物質操作能力」を身につけている「術士」集団から成っています。その希少でかつ取り扱いを間違えると危険である能力をきちんとコントロールできるよう、「魔導師」と呼ばれる教師によって若年の内から教育を施すことを、聖堂に所属する者たちは強く推奨しています。
その能力のある若年者を見つけるための方法が前項で挙げた「小児精査」です。これは聖堂に理解のある地域においてある一定の期間を決めて行われるもので、その目的は強い能力の持ち主を見つけ導くことにあります。この精査は小児と名がついていることから男子の成人年齢である十五の歳までを目安として男女共に何度か受けるものです。
年齢に足切りがあるのは十二から十五という、成人に達する程度の年齢で能力の有無や強弱といったものの変化が安定するからだと言われています。
「小児精査」によって能力があると判明すれば、聖堂による教育を無償で受けることができ、聖堂の定めた試験に合格すれば晴れて「術士」として働くことができるようになります。この資格はあらゆる職に就くのに有利になるでしょう。
聖堂による教育を受けられるのは能力のある者だけではありません。「小児精査」をするための下地として、聖堂では成人前の男女を集め簡単な算術や読み書きを教えています。各町や村には術士でもある「魔導師」や、術士ではない「導師」がおり、大きさは様々ですが聖堂を構えており、そこで人々を導いているのです。大きな聖堂では「施療院」を併設している所もあります。
聖堂の「導師」や「魔導師」に見出だされた優秀な生徒たちはさらなる教育を施され、様々な分野で活躍します。よって、この聖堂による教育や精査を好ましく思う為政者は多いのです。
特に、本物の「聖典」を有する聖火国、そして聖火の他に唯一大聖堂を持つことを許されているアウストラル大陸の西部大森林特区において、聖堂教会の名はあまねく人々の知るところとなっています。
他にも様々な場所で聖堂教会は活動しています。しかし、魔物から生存圏を守ることがまず第一とされる過酷な土地では、なかなか教育まで手が回らないのが実情です。
●成人年齢とその意味
多くの人間国家において設定されている成人年齢は満年齢で女子が十二、男子が十五となっています。
成人を迎えた男女は結婚が可能となり、また、家を出て職に就くことができるようになります。とはいえ、成人した彼らがすぐさま社会で一人前として扱われるかと言えばそうではありません。成人年齢と呼ばれてはいますがこれは建前で、正しくは「結婚可能年齢」と言うべきでしょう。満年齢で二十に満たない彼らにはまだ多くの許可されていない事柄が残っています。
それでも多くの国家がこの成人年齢を採用するのは、やはり政治的な問題によるところが大きいでしょう。国を動かす人間は爵位の有無で見分けることができ、彼らは貴族と呼ばれます。彼ら貴族は己の子女を娶わせることによって家と家を結びつけます。
病気、事故、魔物による襲撃、様々な要因で人間はいとも容易く死にます。そのため早くから結婚をさせたいと望む貴族も多いのです。そして結婚してもすぐさま夫婦生活には入らず、食事の席を同じくするだけの家族としてある程度の年齢まで婚家で教育を受けるのが一般的な貴族の結婚となります。そのため夫婦になる前に、夫または妻となる相手が死んでしまうこともあり、その際にはその結婚はなかったものとされます。
●社会的通念としての「成人」
それでは、社会で一人前として認められるのはいつなのでしょうか。それは大体二十前後と言われています。なぜなら、政治に参加する権利を得るのは、ある種の職に就いていることが前提となるのですが、その職に就くことができるようになるのがその年齢にあって上役に認められた人間だからです。
もちろん、政治に参加しない人間であってもやはり二十前後には自分の仕事に慣れてきて、職場でも認められてくるものです。特に何かをして祝うわけではありませんが、周囲の態度によって自分が「成人」つまり大人として扱われているかどうかというものが判断できるのです。
成人することによって責任ある仕事を任される機会も増えるでしょうし、ある種の信用を得ることななります。不動産を購入する場合にも、口添えしてもらいやすくなることでしょう。ただし、加害者として犯罪に関わってしまった場合にも成人であることの責任は重くのしかかってきますので、節度ある行動を取るべきでしょう。
●東部火山地帯における「成人」
揺籃大陸東部にある火山地帯には、古くからマルクートと呼ばれる国があります。ただしそれは西側からの名前であり、東部に住む者たちは自分たちの土地を「王国」もしくは「基」と呼んでいます。
このマルクートでは生まれたこどもがある程度の年齢に達することが困難とされており、そのため「成人」前のこどもには名をつけず、生まれた順に番号にちなんだ愛称で呼ぶのが一般的です。
王国での成人年齢は男女共に十五で、それ以降は本人の特質やこれまでの生活の中で優れた適性を示した事柄にちなんだ名が贈られるのです。
また、この土地の生まれでなくとも名を贈られることがあります。彼らは名を大切にしており、それを受けることは大変な栄誉とされています。婚姻によって王国に永住すると決めた者にも家族から同じく名が贈られます。
成人した者たちはより専門的な教育を受け、王国を動かしていくことになります。
●その他のヒト族における通過儀礼
人間以外のヒト族においても成人は社会の構成員となるという意味で重要です。彼らの多くは年齢によってではなく、成人の通過儀礼を成功させることによって一人前として認められるのです。
人間よりも多く優れた面を持ちながら、ヒト族の群れは小さく、過酷な土地で暮らすことが多いです。それは彼らの身体に適しているからであるとも、人間に追いやられたからとも言われていますが、ヒト族たちは口を閉ざし人間との接触を極力避けていきています。
厳しい自然の中で暮らすヒト族は、当然優秀な者が多いです。しかしそれは言い換えれば優秀でなくては生き残れないということも意味しています。族長が若者に課す通過儀礼は、すなわち彼らがこの先結婚をして自分の遺伝子を残す権利を勝ち取れるかどうかを見極めるものであるのです。
人間以外のヒト族は多岐に渡り、母系社会もあれば男系社会もあり、また、完全な民主主義による社会形態の氏族もあります。ですので一概には言えませんが、通過儀礼によってある種の淘汰が為されていると考えるのが合っているように思います。
祖先となった動物により特質が異なる氏族たちですが、概ね族長に従って暮らしているようです。通過儀礼を成功し得なかった者は共同体において発言力を持つことができず、また、結婚にも制限がかかります。群れを離れるか、それともそのまま暮らし続けるかは個人に左右されます。
一般的に氏族を離れる者はいないとされていることから、もしもあるひとつの氏族の領域外に出ている個人がいる場合、それは族長の指示、もしくは通過儀礼の途中、もしくは群れを離れた個人だと思われます。しかし、彼らの事情を詮索することは大きな失礼にあたり、彼らに屈辱を味あわせることになってしまうかもしれません。友好的に接したいのであれば避けた方が無難でしょう。
人間たちは自分たち以外の種を軽んじる傾向にありますが、彼らからすれば人間こそ自らの氏を忘れた愚かな種族なのです。「聖典」にある内容を熟知した「導師」及び「魔導師」以上の人間であれば彼らヒト族を下に見たり暴力でもって隷属させようとは思わないでしょう。しかし、「聖典」に触れたことのない愚か者による些細ないざこざは絶えません。人間を超える膂力を持つヒト族が大らかであることに感謝すべきでしょう。
●結びに
共同体が社会的に成熟していくにつれ、より若年からの一貫した教育を望む声が大きくなっていくように思います。確かに幼児からの教育は効果的であり、行わないよりは行った方がその個人のためでもあるでしょう。しかしそれは教育を施す側が施される側に愛情があって初めて大きな成果を残すのかもしれません。
また、一貫した教育を施すことにより為政者は安易に優秀な人材を得ることができるでしょうが、実際には個人の特質に合わせた教育を施す方が一貫教育の笊の目からこぼれ落ちてしまった層をも拾い上げて同程度の人材に育て上げることができます。もしくは、それ以上の優れた才能を発揮するかもしれません。
いずれにせよ、多角的な面からその個人を見て評価し、育てることができる社会こそが「個人の幸福」なる蜃気楼のような物に近づく一歩なのかもしれません。生命を繋ぐだけで精一杯であった原始的な社会から、人間同士の関わりに大きく依存した社会に変わるのであれば、重要視されるべきは一貫性ではなく多様性であると私は考えます。