一
昭和十六年十二月。
かの有名な『ニイタカヤマノボレ』の打電にて太平洋戦争が勃発して間も無く。
南方資源確保の為、いち早くラバウルに進出した帝国軍は、更に米豪の戦略ラインを遮断する為にソロモン諸島へと進軍した。
以降――
ガダルカナルの争奪戦や数次に及ぶソロモン海海戦。そして数え切れぬ空戦。この地は常に最前線として、両軍に多大なる出血を強いていた。
そのソロモン諸島のほぼ中腹。ブーゲンビル島の南端にショートランドという小さな島がある。
大小幾つかの島で構成されている為に水面が穏やかなこの地は、水上飛行機の運用に適している事から、開戦直後に『R方面部隊』と名付けられた海軍水上機部隊が展開。『ショートランド水上機基地』が設営された。
言うまでも無い。最前線中の最前線である。
その、最前線基地であるショートランド基地の更に東側数海里。
まるで本島を守る盾の様な位置に『第八九三分隊』の本拠地であるムラムラ島は存在した。
夕日が西の海に沈み、月光が柔らかく水面を照らす中。二機の水上機が綺麗なアプローチで着水し、桟橋に接岸した。
一機は小柄な、しかし洗練された美しさを持つ複座の複葉機。
もう一機は俊敏な印象の、とても水上機とは思えない精悍な外観を持つ単葉機。
正式名称はそれぞれ零式観測機と二式水戦。共に帝国海軍が誇る新鋭水上機である。
この二機は、水上機王国と言われた帝国海軍が、その持てる技術の全てを駆使して開発した、正に水上飛行機の極致と言える存在だった。
特に、零式観測機は単発水上機が望みうる最高の性能を実現した傑作機と言われ、本来の用途である弾着観測はもとより、空戦、偵察、爆撃、対潜哨戒と様々な任務をこなせる万能機として、大戦を通じて多いに活躍した機体である。
一方の二式水戦も、他に類を見ない独特の飛行機だった。
機体の基になっているのは、『ゼロ戦』の名で有名な零式艦上戦闘機。
その艦上戦闘機である零戦から降着装置を取り外し、各所を補強した上に胴体下と両翼下にフロートを装着した、要するに水上機に改造した零戦である。
もちろん、零戦譲りの空戦性能は損なわれず、昭和十八年現在、世界最強の水上飛行機と言える機体であった。
ちなみに、同様の機体は欧米各国でも研究されていて米国はF4F艦上戦闘機、英国はスピットファイア戦闘機をベースに水上戦闘機を開発しようとしたのだが、両機とも期待された性能を獲得する事が出来ずに断念しており、唯帝国海軍のみが水上戦闘機の開発、運用に成功していた。
接岸した零式観測機から飛び降りた坂巻一飛曹は、手馴れた動きで機体を係留する整備員達に「おう、一丁頼まぁ」と声を掛けると、後席の相田二飛曹と列機の二式水戦搭乗員である宮本二飛曹を連れ、桟橋に隣接された(実の所、簡素な天幕である)指揮所に赴いた。
「坂巻一飛曹以下三名。空中哨戒任務を終え、帰還致しました。本日の戦果は敵戦闘機二機、撃墜確実であります」
天幕内で茶を飲んでいた、分隊長である敦賀大尉の前に整列し、任務の終了と戦果を報告する。
……しかし、その姿勢も口調も、いわゆる「海軍気質」といわれるスマートさとは程遠い。それどころか規律に厳しい帝国軍人とはとても思えない、力の抜け切った態度だった。
対する分隊長、敦賀大尉も、
「はい、ごくろうさん。明日も忙しくなるから、しっかりと休養しておきなさい」
と、湯飲みを手にしたまま面倒臭そうに報告を聞いていた。
痩せた初老の、背中を丸めてお茶をすすりながら周辺海域の地図を眺めるその姿はとても軍人には見えず、むしろやる気の無い地方公務員を思わせる。
「では、お言葉に甘えて」
と、踵を返し、出て行く三人の背中に、突然思い出した様に分隊長の声が掛かった。
「今日は清水一飛曹達の機が未帰還だ。線香の一本も立ててやれ」
その一言に、一瞬だけ表情を曇らせた坂巻は、それでも次の瞬間にはいつも通りのとぼけた声色で「了解であります」と、言葉を返した。
その足で三人は無言のまま墓舎へと足を運ぶ。
椰子の葉で屋根を葺いた丸太組みの小さな墓舎は、それでも島の中では一番上等な建物だった。
小屋の奥には簡素な仏壇が設けられていて、その上に真新しい白木の箱と位牌が三つ置かれている。
もちろん、空で散華した搭乗員達には遺骨など存在しないので、故人の私物(大体の場合は軍帽)が納められていた。
「明日はわが身か、白木の箱よ~、と」
相田が、歌う様に妙な節をつけて呟きながらサイダーの空き瓶に野花を活け、キャラメルの箱と共に供える。飄々とした態度とは裏腹に、その手つきは赤子を扱う様に丁寧だった。
そんな相田の仕草を目で追いながら、宮本は線香に火を点け、
「仇は、取ります」
と一言呟くと、そっけなく墓舎を出て行った。
坂巻は無言で、今日散って行った清水一飛曹と伊藤二飛曹、そして里中一飛の位牌を見詰めていた。
「清水さんは、確か機長と同期でしたっけ?」
「ああ」
「伊藤は、俺と同郷だったんですよ」
「そうだったな」
「里中も、あいつ結局女を知らないまま逝っちまいましたね」
「……そうだな」
相田の放つ言葉に形だけの相槌を打ちながら、線香に火を点け、供える。
「せめて童貞くらい卒業させてやりたかったなぁ」
努めて明るく振舞ってるであろう相田は、「さて飯飯。腹が減っては戦は出来ぬ」と相変らず歌うような節回しで呟きつつ、兵舎に向かった。
「…………」
坂巻は、武運つたなく散った戦友を哀れむ様な、あるいは非難する様な複雑な眼差しで位牌を一瞥した後、墓舎を後にした。
(また一人、同期が逝っちまったか……)
夕食後。兵舎として使われている大型の天幕内で、酒の入った椀を片手に坂巻は沈思していた。
保存が悪く、酸味が強くなってきているその日本酒は、今日戦死した同僚の清水一飛曹が数日前ショートランド本島の食料庫から銀蝿してきたものである。
(注 海軍では、他所の物を勝手に失敬する事を『銀蝿する』と称していた。要するにかっぱらいの事である)
散った戦友を偲びながら、彼が残した酒を口に含む。
酔う程に、陽気で酒好きで、銀蝿が得意で、酔うと調子の外れた軍歌を楽しそうに歌っていた清水一飛曹の姿が脳裏に浮かんだ。
貴様とおれとは、同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
咲いた花なら、散るのは覚悟
みごと散りましょ国のため
予科練習部で同期だった清水が、連れ立って酒を飲む時に好んで歌っていたその歌を、気が付いたら坂巻は口ずさんでいた。
貴様とおれとは、同期の桜
別れ別れに散ろうとも
花の都の、靖国神社
庭の梢に咲いて会おうよ
だらしなく酔った清水と肩を組んでは歌ったその歌詞を、心の中で反芻する。
(咲いた花なら、散るのは覚悟……か)
坂巻とて、自ら志願して航空兵となった身である。空で戦って死ぬ事に無論、異存は無い。
問題は、男子がその一生を賭すに値する戦いが出来ているか、である。
「散るのはまあ、しょうがないにしてもねぇ。こんな飼い殺しのまま無駄死にするのは勘弁ですなぁ」
坂巻の心情を、まるで代弁するかの様に相田が呟いた。
その呟きに、自嘲的な笑みを零しながら坂巻は「そうだな」と、小さく答えた。
「私ぁね、どうせならもっと華々しく、敵の大艦隊と刺し違えるくらいの大仕事で死にたいと思っとるんですよ。こんなチンケな島で終りたかぁ無いですね」
根っからの偵察員である相田は、敵艦隊の発見を『刺し違える』という、誠に偵察員らしい一言で表現した。
敵陣深くまで潜り込んで艦隊の位置を探り、発見した後には味方の攻撃隊が到着するまで現地に留まり誘導するという任務を持つ偵察機は当然ながら危険も多く、しかもその重要性の高さに反して、華も無く扱いも低い。
それでも相田は偵察機乗組員としての誇りを持ち、またその重要性を理解していた。
「俺は、敵を墜す事が出来るんなら何処でも一緒ですがね」
二人の会話を聞くとは無しに聞いていた宮本二飛層が、やはり日本酒をちびりと飲りながら言い放った。
「そうは言うけど宮さんよ。あんた、もう一回零戦に乗って暴れてみたいとは思わんのかね。あんなゲタバキじゃあ、母艦搭乗員の腕が泣くってもんだろ?」
そう食い下がる相田に、しかし宮本は、
「敵を殺れるんなら、なんでも構わんですよ。それに、もう加賀も沈んじまったし」
と、ぶっきらぼうに答えては坂巻の足元に置いてある一升瓶を勝手に取り上げ、酒を椀に注いだ。
(まったく。どいつもこいつも、めげない連中だ)
坂巻はそんな二人に呆れる様な、それでいて頼もしくもある様な、複雑な思いを抱いていた。
彼等の所属する『第八九三分隊』は、実の所まともな部隊では無い。
様々な理由で軍部から目を付けられた者達を一つに纏め、最前線に送り込んだという、ある意味監獄の様な所である。
そこには銃殺されても文句を言えない様な重罪で飛ばされた者から、殆ど言いがかりのような些細な事で送られて来た者まで様々な兵達が居るのだが、共通している事は『海軍のはみだし者』とされている者達という事である。
たとえば相田二飛曹。
彼は珊瑚海海戦時、敵艦隊の索敵中に乗機の無線装置が故障し、やむなく艦隊に帰還した所、上官より「敵を前にしておめおめ逃げ帰って来るとは何事か!」と理不尽に叱責された。
「敵を見つけても、報告できなければ意味がありません」と反論した所、その話を聞いていた巡洋艦隊指令の高木提督(この海戦の不始末により更迭された無能提督)の耳に入り、「士道不覚悟」と言う謎の処分を受けてこの部隊に飛ばされた。
宮本は、かつてはエリート中のエリートである母艦搭乗員として、空母『加賀』の戦闘機隊に所属していた。
その頃は真面目で優秀な下士官だったらしいのだが、ミッドウェー海戦で母艦を沈められて以来、まるで人が変わったかの様に粗暴になり、事あるごとに上官に噛み付く様になった。やがて煙たがられて水上戦闘機隊に左遷され、現在に至っている。
「……しかし、こんな状況に追い込まれて尚戦意を失わないのだから、お前ら大したもんだよ」
酒椀を片手に尚も議論する二人に、坂巻はむしろ感嘆の思いを持っていた。
そんな坂巻自身はソロモン進軍直後に、現地の女性に狼藉を働いた上官を同僚であった清水と共に告発し、その報復として二人してこの分隊に「派遣」されていた。
他の隊員も、いずれ劣らぬ札付きばかりなのだが、そこははみ出し者同士のシンパシーというのだろうか。『とある軍高官の女房を寝取って出世コースから弾き出された』と噂されている敦賀分隊長の下、士気はともかく隊の結束は強かった。
「さて、明日も早いぞ。お前達も休める時に休んでおけ」
尚も杯を進める二人に形だけの注意をして、坂巻が就寝に就こうと腰を上げたその時。
「敵艦隊接近! 艦砲射撃!」
警鐘代わりに吊るしてあるドラム缶をガンガン叩く音と共に、見張り員の銅鑼声が響いた