第四章 霊媒師OJT19
「ふー、体動かしたら暑っちーわ。はぁ、ビール飲みてぇなぁ。オイ、貴子!寝てんじゃねぇよ!コンビニ行ってビール買ってこい!なんてさすがに無理か!ぎゃはははh!ったくよ、俺に刃向うからこういう目に合うんだ……って…………おい……嘘だろ……?」
男は絶句した。
あれだけ殴られ気を失ってもおかしくないはずの田所さんは、それでもガクガク震える腕を必死に曲げて、手のひらを床に着き、自身の血で滑りそうになりながら、必死に踏ん張り身体を起こそうとしている。
「な、なんなんだよ……気持ち悪い女だな……」
男はもう笑っていなかった。
そして中々立ち上がれない田所さんは、床に転がるテレビのリモコンを引っ掴むと、男に向かって骨ばった腕を振り上げた。
ああ、田所さんは動くのもままならないその身体で、ユリちゃんを守る為にどこまでも闘うつもりなのだ。
どんなに殴られようとも、どんなに痛くても、どんなに恐くても、その為ならなんだってするつもりなのだ。
__命にかえても守りたいものもないくせに私の何が解る、
薄闇で彼女に言われた言葉を思い出した僕は、改めてその意味を噛み締めた。
僕は大きく息を吐き、つたう涙を拭った。
そして緩めていたネクタイをきちんと結び直すと、背筋を伸ばし真っ直ぐに田所さんを見た。
もうすぐ田所さんは殺される。
だけど僕はもう逃げない。
かわいそうだ、見てられない、何もできない自分がいやだ、そんな考えは捨てた。
ユリちゃんを守る為、彼女の最後の闘いを僕は目を逸らさずに見届けるんだ。
それが霊媒師見習い、今の僕にできる事だと思うから。
◆
「……オマエそんなリモコンなんかで俺に勝てると思ってんのかよ、」
男は嘲るようにそう言ったが、その声には明らかに動揺の色が見えた。
この男は会社をリストラされ再就職に失敗し、社会との繋がりを失い、夫として父親としての責任を放棄し、この小さなアパートに引きこもる暴君となった。
いわばここが男にとって世界の全てなのだ。
田所さんがいなければ、収入の無い男はビールどころかアパートだって追い出され路頭に迷う事になるというのに。
男は自分の世界を維持する為、今までずっと妻と娘には暴力で服従を強いてきた。
だが今日は思い通りになるはずの妻がどれだけ殴っても屈しない……男は眉を潜め首を傾げた。
だが男は多少の疑問と動揺はあるけれど、それ以上の感心が、お金になるかもしれないユリちゃんに向いているようで、
「もういいや、萎えた。オマエ、なんか顔が生肉みたいでキモイし。いいからそこどけ。ユリ連れてくからさ。救急車来たらせっかくだからオマエが乗ってけよ。あ、でも余計な事言うんじゃねぇぞ?」
男は頭をボリボリ掻きながらその足を一歩前に出した。
だが進行はそこで止められた。
床に這う田所さんが握ったリモコンで男の足のスネをぶっ叩いたのだ。
「イッテェ!!!」
大袈裟な声を上げた男は足を押さえ、呆気にとられ田所さんを見た。
「オマエ……なんなの……?なんで今日はこんなに刃向かうんだよ……?」
田所さんは男のそれには答えない。
ただヒューヒューと息を吐き、覚悟と怒りを込めた目で男の顔を睨みつける。
ああ、こんな挑発的な態度をとれば男の暴力はまた田所さんに向いてしまうのに。
だが彼女はあえてこうしているのだ。
男をユリちゃんに近づけないように、救急車が到着するまで少しでも長く時間を稼く為に。
身体を張って、命を張って足止めをしているのだ。
自分よりはるかに弱く、暴力で言いなりになるはずの妻がなぜここまで刃向ってくるのか、平気で実の娘を売ろうとしている男にはまったく理解できなかった。
目の前に転がる金の成る木を渡さないばかりか、反抗的な態度と、時折見せる自分を憐れむような妻の目に、安いプライドを刺激された男はついに爆発した。
「オマエさぁぁぁぁぁぁぁぁ!!なんなのぉぉぉぉぉぉぉぉ??さっきからぁぁぁぁぁ!!邪魔してぇぇぇぇぇぇぇぇ!!いつもならぁぁぁぁぁぁぁぁ、殴られてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ、泣きながらぁぁぁぁぁぁぁぁ、言いなりにぃぃぃぃぃぃなってたのにぃぃぃぃぃぃぃぃ!!それがぁぁぁぁぁぁぁ、なんでぇぇぇぇぇぇぇ??あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!その目ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!その目ぇぇぇぇぇえぇええぇぇぇぇええぇえぇ!!!やめろぉぉおぉぉおぉぉおお!!見るなぁぁぁぁあぁぁぁああぁぁぁぁ!!」
狂ったように喚く男は、田所さんのシャツを掴むと乱暴に身体を引き上げた。
身長差で彼女の足が宙に浮く。
男は拳のかわりに細い首に手指を絡めると、見るな見るなと呟きながら一心不乱に喉仏に親指を埋め込んだ。
圧迫された気管は必要な酸素を遮断され、苦しさから激しく手足をバタつかせ、だがそれでも男は力を弱めなかった。
いつしか彼女はぐったりと脱力し、ついにはピクリとも動かなくなった。
男はビクビクと、その身体に命の火が無い事を確認すると、妻だったその女を躊躇うことなく床に投げ捨てた。
「お、お、思い知ったか……!」
肩で息する男はその場に座り込んで頭を垂れた。
床にボタボタ汗が落ち溜まってく。
そして、
「お、俺に逆らうからだ……ふざけんな……俺は悪くない……ぞ……悪く……あ……ああ……そんな……なんで……俺……オマエ殺したじゃん……!」
勝手極まりない妻殺しの言い訳の途中で、男は歯をガチガチと鳴らし言葉を詰まらせた。
それはそうだろう。
殺したはずの目の前の遺体から、娘が心配で死にきれない田所さんが抜け起きて、再び両手を広げユリちゃんの盾となり、燃えるような目で睨みつけているのだから。
瞬間、男の長い長い絶叫が部屋の外にまで響き渡った。
男は四つん這いで逃げ回り、情けない事に失禁までしている。
ほどなくして、泣き喚く男の声尻に、遠くから聞こえる救急車のサイレンの音が重なった。
ああ、やっと来てくれた。
もう大丈夫だ……。
ユリちゃんを守る為、田所さんの命を懸けた闘いが終わったんだ。
このあと田所さんは11年もこのアパートに縛られる事になるけれど、それはまた後でなんとかしようと思う。
今はただ、たった1人でユリちゃんを守り切った田所さんに、僕は感服の思いでいっぱいだった。




