第四章 霊媒師OJT14
僕は粘度の高い汗が額から目の中に流れこみ、しみる痛みも構わずにあたりを見渡した。
そこに田所さんの姿はない。
ただ彼女に握られた手の感触だけは、しっかりと僕の右手に存在し続けている。
さっきまで切れ切れに視えていた田所さんの過去の映像。
現実のアパートはまだ入居前で荷物もなくガランとしていた。
なのに今この部屋は、むせ返る程の生活感がある。
消えた田所さん。
突如出現した家具やカーテンに赤いランドセル。
真夏のような暑さに気が狂いそうな蝉の声。
もうこのくらいの事では戸惑いはするけど驚かない。
多分__彼女は桜の薄闇で僕に向かって過去を語り続けているのだろう。
彼女の声、彼女の無念、彼女の悲しみ、彼女の強さ、どれにどう反応したのか、それともすべてに反応したのか、少し前までコマ送りのように視えていた彼女の過去が、しだいにそのコマ数を増やして溢れ出し、やがて僕の視界を埋め尽くした。
おそらくここは田所さんの最後の日のアパートだ。
僕は今、田所さんの過去そのものの中に立っている。
背後で人の気配がした。
僕は誘われるようにその方向へ足を運ぶ。
そう広くない室内、数歩程度で目的地に着いた。
「ねぇ、ママ!早くしないとお祭りが終わっちゃうよ!」
その声は囁くような小声であったが、弾むような色を帯びていた。
ここは薄暗い洗面台、備え付けの鏡の前で小学校低学年と思わしき女児が“ママ”と呼はれる女性__田所さんに髪を結ってもらっていた。
「ほらユリ、そんなに何度も振り向いたら髪ができないでしょう?お祭りは夜まで続くのよ。今はまだお昼なんだから慌てなくても大丈夫。そんなに早く行きたいならおとなしく前を向いていてちょうだい」
そう言って笑う田所さんは、やはり内緒話をするかのような小声でもって答えていた。
鏡の中に映るのは田所さん母娘だけで僕の姿は映らない。
まるで盗み聞きをしているような気がして少し罪悪感を感じる。
それにしても、なんでこんなに小声で話をしているのだろうか?
声だけじゃない。
娘さんの……ユリちゃんの髪を結う田所さんは、ヘアブラシを台に置く時でさえ静かに音を立てないよう注意を払っているように見える……。
猫の仔のような柔らかい黒髪を、慣れた手つきで頭の高い位置でまとめた田所さんは、鏡の中でその出来に顔を輝かせるユリちゃんに微笑んで見せた。
そして、いつのまに隠し持っていたのか、夏の空のような鮮やかな青いリボンを取り出すと、丁寧に髪に巻きつけて形を整えていく。
ユリちゃんはリボンがよほど嬉しかったのか、両手で口元を押さえ、声を殺しながらピョンピョン小さく跳ねていた。
微笑ましい光景、なのだろう。
幼い少女が母親にかわいらしく髪を飾ってもらい、跳ねるほど喜んでいるのだから。
だけど。
強い違和感を感じる。
そんなに嬉しいのなら、なぜ声を殺しているのだろうか?
子供らしく大きな声で笑ってもいいだろうに。
と、その時。
はしゃぎ跳ねるユリちゃんの肘にあたったヘアブラシが台から落ち、フローリングの床に音を立てて転がった。
言ったって、たかがプラスチックのヘアブラシだ。
そう大きな音がした訳でもないのに、一瞬で怯えた表情に変化した母娘が息を呑み、オロオロと後方を窺っていた。
すると、
ドンッ!!
拳で壁を叩くような鈍い音が響いた。
続けて、
「うるせえぞっ!!」
と、若干呂律の回らない野太い怒鳴り声。
ユリちゃんは、その鈍い音と怒声に怯えているのか必死に母親の腰にしがみついている。
田所さんは口を開けて声を出そうとしているが中々言葉が出てこない。
慎重に言葉を選んでいるように見えるのは僕の考えすぎだろうか。
やがて意を決した田所さんは細い声でこう言った。
「ご、ごめんなさい。うるさくしてしまって、気を付けますから……」
田所さんの怯えた謝罪に奥の部屋から、チッ!という舌打ちが聞こえ、そして再び静けさが戻った。
ユリちゃんは鼻を真っ赤にして声も上げずに泣きながら、“ユリのせいでごめんね”と繰り返し、田所さんはなんとか笑おうと顔を歪めながらユリちゃんを抱き締めていた。




