セ―トイボール荒野を越えて西部州都ウェルストスへ
クルスは今ほど自分とミティアの将来が不安になったことはなかった。
自分たちが育ったエルドの村を出るときまでは、小さな不安がお腹に居座ってるくらいだったが、長時間馬車に揺られているうちに、不安はだんだん大きく成長してきてしまったらしい。
世界一広いと言われているセ―トイボール荒野、どうやら馬車はここを西部州都ウェルストスに向かって突っ切るようだ。
北部州と西部州の境のしるしとなる、ルーシエ川を渡ってから、幌馬車の外に見える景色はかなり長時間変わっていない。赤茶けた砂が恵みの大地を覆いつくし、わずかに生えた低木がその場だけにぽつりと緑色を加えている。上を見上げればギラギラと照り付ける太陽が、見る人の眼をつぶしてやろうとやっきになっている。
クルスは馬車の外から視線を戻し、となりに座っているミティアに眼を向けた。
自分より頭一つ分低い身長の妹は、幌に空いた穴から東の方をぼんやりと見つめている。セ―トイボール荒野の東にはセントピール山脈があり、その向こうは世界の中心、首都セントクラインになっている。
クルスたちのような世間に疎い田舎の子どもでも、首都のうわさくらいは聞いたことがある。こんな田舎とはくらべものにならないほど華やかで、便利な暮らしができるそうだ。
それでも首都に行く人は少ない。今の暮らしで満足しているわけでは決してない。首都の仕組みそのものに理由があるのだ。首都はセントピール山脈の中心にできた盆地につくられており、人の行き来は厳しく制限されている。人口が増えてパンクしてしまうことを防ぐためだ。
そもそも首都は王城と議事堂を建てることのみを目的に作られたらしく、当初はそこに人が住むことは想定されていなかったともいわれている。確かに首都に行くためには必ずセントピール山脈を越える必要がある。セントピール山脈はどこからどう登ろうと最低でも2500メートルは登らなければいけない、世界最高峰の山脈で、しっかりとした装備がないと99.9999%死ぬと言われる雄峰だ。極寒の冬はもちろん、夏も分厚い雷雲が山脈の中腹から上を覆っているので、いつしか雷が落ちやすい『人殺しの峰』やら、冬のある期間だけ一時的に豪風が吹く『気まぐれ峡谷』なんて物騒な名所までできてしまったほどだ。
この峰々を越えていくならば、たいていは秋口と相場が決まっている。気候的にも登りやすく、春のように雪崩を警戒する必要がないからだ。雪が完全に溶け終わるころには、すでに雷雲が人を貫く槍をかまえて峰に居座り始める。その雷雲が去ってから雪雲が峰を覆うまでおよそ2週間。その間に移動を終わらせなければ、やがて訪れる極寒の息吹になすすべもなく倒れ伏すことになる。まだこの大陸で戦争が活発に行われていた頃に成立した都市らしいので、自然の力で他国から国を護るつもりだったのだろう。
この大陸はおよそ1000年前まで小国が乱立し、日々戦争に明け暮れていた、ということはクルスも最低限の知識として知っていた。今から1000年ほど前に、大陸東にあったある国が大きな力を持ち、周囲の国を飲み込み始めた。それと対立するように南にあった小国は連合を組み始め、西の方では大国の下に総轄された小国の集まり、つまり連邦を形成した。北の国々は次々に傍観の立場を表明し、国境を封鎖し始めた。
あわや三地方間の全面戦争かと思われた時、颯爽と現れたのが『覇王・アラングレー』だった。アラングレーは今の首都のある土地にいきなり『国家・セントクライン』の設立を宣言し、それから12日の間に北方の国々を制覇した。いきなり現れた第三の敵に、残り三地方は的確な対処ができなかった。アラングレーは北方を取った後、西方に進軍。この国々を15日で完全に屈服させ、南征を開始。南の諸国連合を18日で壊滅させて、ついに東の大国エストラに進駐した。当初、アラングレーはこの大国を20日で落とす気でいたそうだ。結果的にはそれよりも2日多くかかり、セントクライン建国から延べ67日でアラングレーは大陸全土を支配する『大王』となった。
大王・アラングレーは世界唯一の大陸――ピポーケル大陸を四つに分割した。東部州エストラ。南部州サウザリオ。西部州ウェルストス。北部州ノーザム。各州には、もともとそこで大きな地位を占めていた国の首都に地方政府を置き、州ごとに自治の形をとらせた。立法府は首都・セントクラインにある議事堂で開かれる議会を設定し、最高司法権を大王自ら持つこととした。その一つ下に位置する高等司法権は、各州の州都にある国立裁判所が保持している。この決定には、大きな不満も出ず、かくして大陸は一つに統合されたのだ。
クルスは馬車が今まで走ってきた方を向いた。この視線の先に自分たちの育ちの郷エルド村が、そしてその向こうには生まれの郷セリナム市がある。エルド村は北部州ノーザムの南西に位置する、人口50人ちょっとの本当に小さな村だ。クルスとミティアはものごころついた時からすでにここにいた。自分たちの遠い親戚だという恰幅のいいおばさんの家で養われていたのだが、この村はよそ者にかなり厳しい村だった。クルスとミティアは日常的に迫害を受けてきた。とくに妹のミティアはひどい迫害を受けていた。石を投げられる、つばを飛ばされる、足を引っかけられて転ばされる。こんなのはまだかわいいものだ。強姦の被害に遭いそうになったこと数回、全身に打撲痕や火傷痕をつけて帰ってきたこと十数度。こんな状況では村から逃げたいと思うのも自然なことだろう。かなり幼いころから旅立ちの資金を貯め、珍しく数日前にちょうど村の近くを通った幌馬車に忍び込み、ここまでやってきたのだ。
セリナム市。それは北部州ノーザムの中で最も人口の多かった都市だ。何十万という人口を抱えた北西の都市。それが壊滅したのは12年前。生き残った者はたった数人と言われる。クルスとミティアはその中の一人だ。両親は遺体で発見された。宇宙からの脅威とか、海から何らかの攻撃を受けたのだとか言われているが、真相はいまだわかっていない。とにかく何十万もの人間が一昼夜で死んだのだ。州政府はこの都市を永久保存都市に指定し、人の立ち入りを全面的に禁止した。いまもセリナムは大厄災の跡をとどめて保存されている。
本当はクルスはミティアを連れ、生まれ故郷に戻りたかった。だが、このような事情で故郷行きを諦め、反対方向に移動しているのである。クルスの算段では西部州都ウェルストスで職を探し、そこで妹と一緒に暮らすつもりだった。クルスはいま16歳。世間的に16歳と言えば、十分に労働力として認めてもらえる年だし、向こうに行けば何とかなるだろうといつものクルスらしくない、短絡的な思考でここまで事を進めてきた。しかし今になって今後のことに深く思いが至り、後悔をし始めたのだ。
もう一度馬車の中に視線を戻し、妹の顔を見る。その顔には迷いも、心配も浮かんでいない。浮かんでいるのは飽きの表情だ。いつまでも変わらない風景に退屈してしまったのだろう。文句を言われることは絶対にないが、その顔にクルスはどうしても非難の表情を見て取ってしまう。
クルスが同意も得ずに引っ張ってきてしまった妹に対して罪悪感を感じ始めた時、馬車は広い荒野のど真ん中で徐々にスピードを緩め、ついには止まってしまった。