Track39 月の女神と夜の女王
その日の夜は静かすぎた。
住宅街とはいえ、都内でここまで静かだと帰って不気味に思える。俺は夜道をアパートに向かって帰っていた。
昨日の段階で『Ambitious!』も無事完成し、クライアントに提出することが出来た。百華さんにも聴いて貰ったが、彼女も気に入ったようだ。あとはテレビ局のディレクターの反応を待つのみだ……。
ようやく一段落がついて、急に疲れが出たようだ。俺も他のメンバーもぐったりしていた(七星だけは元気そうだったけど……)
体が地面に埋まりそうなほどの怠さに一歩踏み出すのさえ面倒くさくなる。
夜空を見上げると、切り取られたような綺麗な三日月が浮かんでいた。京極姉妹、そして鴨川月子の名に溶け込んだ天体。
そういえば、昔ウラに彼女の名前の由来を聞かせて貰ったことがあった。
裏月。……。と書いてヘカテーと呼ぶ名前の由来について――。
その話を聞かせて貰ったのは俺が大学を卒業間近に控えた2月のことだ。上京する日が近づき、俺たちは地元を離れることに少しの寂しさを覚えていた。上京前に1度、地元のライブハウスでイベントに参加することになっていた俺たちはその日、一緒に練習していた。(その日、ジュンは母親の手伝いで東京に行っていて不在だったが……)
「もう絶版らしいけど今でもその絵本、実家にあるよ!」
ウラはエフェクターの設定を変更しながら俺に話しかけてきた。
彼女の話だとウラの名前は母親が好きだった『月の女神と夜の女王』という絵本の登場人物から引用したものらしい。
その絵本には2人の主人公がいて、1人が月の女神ルナ、もう1人が夜の女王ヘカテーという名前だったらしい。
「へー。なんかメルヘンな話だなー」
「うん。ウチの母さんめっちゃメルヘンな人だったからさ! 記憶だといっつもふわふわしてた気がする!」
「ふわふわ?」
「そう、ふわふわ!」
ウラはそう言うとニッと白い歯を見せて笑った。
『月の女神と夜の女王』は、月に住むルナとヘカテーとういう2人の少女が和解する物語のようだ。お互い望まない形で仲違いした2人が最終的に仲直りするという内容らしい。
「そっか、じゃあハッピーエンドでいい話なのな」
「うーん、ハッピーエンドかどうかは疑問だけどね……」
「なんでだ? 仲直りしたんだろ? その2人は?」
「……。話の内容としては和解したよ……。けど、結局ルナとヘカテーは離ればなれになっちゃうんだよね。ルナは月の表側のお城で暮らすことになったみたいだし、ヘカテーは落ち延びた先の賢者の海のほとりに住むことになったんだ」
「賢者の海?」
俺が疑問をウラに尋ねた。俺の疑問にウラははスマホで検索して月表面の画像を見せてくれた。
「ほら見て! 賢者の海って言うのは月の裏側にある海の名前だよ! まぁ海って言っても水があるわけじゃないけどね。私の妹の名前は『月』の表側のお『姫』様だから『月姫』。私は『月』の『裏』側の女王で『裏月』になったんだ。まぁ今考えるとこじつけすぎるきもすっけどね……」
ウラはそう言うとSGのストラップを首からぶら下げた。
「確かにこじつけだな……。それより、なんで仲直りしたのに離ればなれになっちまうのかが疑問だけど……」
「そう! 私も昔からそこが不思議だったんだよ! 作者が何を考えてこんな話にしたのか今だにわかんない。普通ならさー、『仲直りした2人は末永く仲良く暮らしました。めでたしめでたし』じゃん!?」
ウラは不服そうにそう言うとギターの弦を弾いた。今日もSGは絶好調のようで彼女は短い髪を振り乱しながら激しく練習を始めた。汗がはじけ飛ぶという言葉を体現するかのように彼女は演奏はしている。
俺たちは一通りセッションすると地べたに座って休憩することにした。
「あっちーよ! ほんと暑い!」
「お前無駄な動きが多すぎんだよ! ドラムの俺より汗まみれってどうゆうことだ?」
俺もかなり汗をかいていたが、ウラは俺の倍近く汗を流していた。代謝が良すぎるのかもしれない。
「でもさー。やっぱギターはバンドの花形じゃん? パフォーマンスとか大事じゃね?」
ウラは息を切らしながらそう言うとアクエリアスのペットボトルをがぶ飲みした。
その時のウラは本当に輝いて見えた。汚い言葉使いや態度ではあったが、それでも彼女はとても美しかった。彼女の母親が夜の女王から名前を拝借しただけのことはある。
「なんか皮肉だね……。あの絵本のように私とルナは離ればなれになりそうだよ……。せっかく仲直りできたのにさ……」
ウラは寂しそうにそう言った。
「じゃあ今からでも上京取りやめるか?」
「いや……。もう決めたことだから止めたりはしない! これからは離れてる分、妹をもっと大事にするよ!」
彼女は何かを噛みしめるようにそう言うと、愛用のSGを激しく鳴かせた。残響だけがスタジオに響き当たり、彼女はその残響を味わうようにゆっくりと瞳を閉じた。
ヘカテーは今、賢者の海をいる。
そこが楽園かどうかはわからないが、彼女はそこに腰を落ち着けるように決めたようだ。地上を見ることの出来ないこの海で彼女は何を思うのだろうか――。
街灯を頼りに重い足を前に進める。帰り道の街灯には蜘蛛の巣が掛かっていた。少しずつ温かくなったのか虫も増えてきたように感じる。空気も刺すような冷たさからすっかり穏やかなモノに変わったようだ。
俺は重い足をバールで釘でも抜くように力を込めて前に進めた――。
「大志……くん……」
俺の後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
月姫と裏月。
それ以外のもう1つの月の声が――。




