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Track34 月を見上げる蟾蜍は怯えた顔で――

 高橋さんはまるで講談師のように話を続けた。ようやく鴨川月子と対面という場面だ。彼の話し方に俺はすっかり引き込まれてしまった。

『会議室に着いたときはさすがに興奮しましたね。敵地ですし、お話を伺っていた鴨川さんが目の前だったんですから……』


「おいでやす」

 僕が部屋に入ると彼女はそう言って出迎えてくれた。画面では見たが実物はさらに美しい。本当に彼女は40オーバーなのだろうか? 彼女の年齢を知らなければ20代にさえ見える気がする。美魔女という言葉はよく聞くが、これは彼女のために作った言葉ではないのだろうか。そう思ってしまうほどだ。

 とりあえず僕はいつも通り、名刺を取り出して彼女と横にいる男性に手渡した。

 男性の方は『アフロディーテ』のベーシストのようだ。たしか名前は佐藤亨一……。

「この度は時間作って頂き誠にありがとうございます! ご多忙とお聞きしていたので恐縮です」

「ほんまやで! こんなつまらんことで呼び出されるなんて迷惑な話や!」

「まぁまぁ、月ちゃん。せっかく話し合いの場が出来たんだからいいじゃない」

「ま! ウチは話し合うことなんか無いけどな!」

 なかなかだ。最初からこちらの要求を飲む気などさらさら無いようだ。

「いやー、せっかくお近づきになれたんですからお手柔らかにお願いします……。それはそうと1つお願いしてもよろしいですか?」

 僕はそう言うと鞄から色紙とマジックペンを取り出した。

「なんやねん?」

「お仕事とはいえ、こうしてお会いできたのでサイン頂きたいと思いまして……。こんな近くで鴨川さんにお会いできる機会なんてありませんからねー」

「は? あんた阿呆ちゃうんか?」

「いえいえ、仕事上では互いのメリットを探りたいところではありますが、正直お会いできたこと自体は嬉しいのですよ。画面越しで見ただけでしたが、鴨川さんすごくお綺麗だし、会ったら絶対サイン貰おうと思ってたんです」

 僕は照れ笑いを装って彼女のサインが欲しくてたまらないような顔をして見せた。僕の表情を見た彼女を見ると若干、広角が上がっている。

「ま、サインぐらいならえーやろ! 特別やで!」

「ありがとうございますー! 家宝にします!」

 彼女は慣れた調子で色紙にサインを書いていった。やはりメジャーアーティストはサインをよく要求されるのか書き慣れている。

 ベーシストはサインを書く彼女の横で穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、彼の目は欠片も笑っていない。どうやら彼は僕と同じ種類の人間のようだ。彼から強かな交渉人の匂いを感じた。もしかしたら『アフロディーテ』の要は彼なのかもしれない。

「ほら! 書いたったで! 大事にしーや」

 僕は大事そうにサインを受け取ると机の端にそれを置いて、その流れで彼女に話を切り出した。

「いやー、本当に感激だなー。では本題に移らせていただきます」

 僕は今回の企画の趣旨を彼らに機械的に説明した。感情や熱意など一切込めず機械的に……。

「で? だからなんやねん? おたくらの事情なんか知らへんよ?」

「ですが鴨川さん? 僕だって仕事でこのような企画をやっているのです。さすがに手ぶらでは帰れませんので」

「だーかーらー!! ウチはな! 『バービナ』に活動なんかさせとうないねん! そこまで調べとるんやったら分かるやろ!? あの子らにはこのまま干上がってもらうねん!」

「失礼ですが、音楽活動をするのは個人にしても企業単位にしても自由のはずです。本来、あなた方の事情に関係なく我々は『バービナ』の企画を進める権利があります」

「知ったことか!! ええか? ウチがないゆーたらないんや! お若いの!」

 鴨川月子はそう言うと、酷く怖い顔になった。

 なるほど、松田さんが言っていたのはこのことか。

「どうしても弊社の妨害をなさる……。そうおっしゃるんですね?」

「妨害しとるんはお前やろ!? なんであの子らが売れるようなことしたがるんや? 意味わからへんよ!」

 支離滅裂だ。自己中とかでは無い。とにかく、精神的にオカシイ。

「あの鴨川さん……。なんでそこまで彼らを妨害したがるんですか? 確かに彼らはあなたを裏切ったのかもしれない。だとしてもそこまで執拗に妨害工作をするのはあまりにも不条理です」

「あんな! あいつらは……。京極裏月はウチの顔に泥を塗ったんや! あれほど可愛がってやったのにウチの好意に唾を吐いたんやで! そんなクソガキ許すわけないやん!!」

 彼女は怒りに任せているのか、荒い口調でそう言って机を激しく叩いた。それほどの怒りなのだろうか……。

 いや、違う。これは怒りなんかじゃない。

 この感情は……。

 そこから僕は鴨川月子の中にある感情の正体にある仮説を立てた。そして、普段なら絶対にしないこと……。営業マンとして見つけても決して触れないこと。それに触れると決めた。

 僕は地雷原で鬼ごっこをするような気分で笑顔で彼女と向き合った。

「鴨川さん、あなたの怒りはよく分かりました。さぞ嫌な思いをされたのでしょう。でもね、本当に京極さんに抱いた気持ちは怒りですか?」

 僕がそう言うと、鴨川月子は急に表情を変えた。顔の筋肉が機能するのを止めたかのように表情が無くなっていく。

「お前何が言いたいんや?」

 彼女が強くあろうとしていることが手に取るように分かった。だが、どんなに強がろうとそこに現れた感情を隠すことは出来ないようだ。

 不思議なのは隣にいる佐藤というベーシストだ。僕がここまで彼女を追い詰めたというのにまるで助け船を出すつもりがない。

 おそらくだが、彼も鴨川月子のこのやり方には賛同しかねるのだろう。酷い男だ。優しそうにしていて実は欠片も優しくない。ただ、優しそうに見せるのが上手いだけだ。

「では申し上げます。鴨川さん、あなたは『バービナ』が許せないんじゃないですね? 僕が見た感じですが、彼らは才能があるアーティストだと思います。ほら、僕もプロモーションのプロの端くれですからね。それくらいは分かります」

「だから何が言いたい!? ええかげんにせんとほんま潰すぞ!!」

「もっと言えば、成功するアーティストだと思うわけですよ! 特に京極さんはあなたと比較してもかなりいい線まで来ている。このまま成長すればいつか『アフロディーテ』に追いつく……。いや、いずれ必ず追い越すでしょう」

「マジしばくで!? 殺したろうか? あー!?」

 ここまで来れば後は核心だ。

 ナイフを握って彼女の胸を一突きするだけ。

 それだけで死ぬ。

「そしてこれはあなたも感じていることだと思います。ですからはっきり申し上げます。あなたは怖いんだ。『バービナ』が成長してあなたに取って代わられるのが怖くて怖くてしょうが無いんですよ。だから怒りと理由を付けて彼らを妨害する。違いますか?」

 僕がそう言うと、鴨川月子は身を乗り出して僕の胸ぐらを掴んできた。既に会話が成立する状態では無い。

「ちょっと月ちゃん落ち着いて!」

 佐藤は鴨川月子を力で押さえつけたが、彼女は止まろうとはしなかった。

 胸ぐらを掴まれながら、僕はどうダメ押ししようか考えていた。どうしたらこの女を再起不能まで追い込めるだろうか?

「もっと言えば、その怖がっている様子を悟られたくないんですよね? 周りの人間にも世間にも決して悟られたくない。だってあなたは酷く怖がりの痛がりですもんね。僕にはあなたが今までどうやって生きてきたかはわかりません。正直知りたくも無いですし。でもね、少なくともあなたの周りの人間はあなたの本心に気づいているはずですよ? ねえ、佐藤さん?」

 僕はこのタイミングで押さえ込むのに必死な佐藤に話を振った。さすがの彼も僕に怒りを覚えるかもしれない。

「高橋さん……。申し訳ないですが、これくらいにしてくれませんか? これ以上はもう無理です」

「ですね……。では、良い返事を期待しておりますので……」

 僕は鴨川月子を放置してそのまま帰ることにした。僕が会議室を出るまっで彼女はありったけの罵詈雑言を浴びせてくれた。ありがたいことに……。


 そこまで話すと高橋さんは急にトーンを落とした。

「……。という訳で大変でした。あんなに罵声浴びせられたのは久しぶりでしたねー」

「なんか大変でしたね……。でもそれじゃまとめられなかったんじゃないですか?」

「ハハハ、別にその場で彼女を説得できるなんて思ってもいなかったですよ! ただ、材料を揃えに行っただけですから」

「材料?」

「ええ。いいですか松田さん? 交渉するために一番必要なものは材料なんですよ。交渉材料。今回の案件において僕はそれを持っていなかった。だから調達する必要があったのです」

 彼はもったいぶった言い方をした。一体どういう意味だろう?

「僕はね。身を守るために常にテープレコーダーを携帯しています。特に、今回のようにバックに暴力団がいるような相手なら尚更です」

「まさか……」

「そうなんですよー。さっき話した会話すべて録音しておきました。彼女が馬鹿で助かりました。あそこまで罵詈雑言吐いてくれれば十分です。あとはこれを交渉材料に彼らに納得して貰えばいいのですから。幸いなことに僕にはゴシップを扱う出版社の伝手がたくさんありますし、どこでもこんなスキャンダルは欲しいはずですからねー」

 俺は正直、高橋さんが怖くなった。そこまで織り込み済みだとは……。

「でも……。高橋さんは大丈夫なんですか? 鴨川月子のバックには……」

「それは心配に及びません。そっち関係のパイプもありますから」

 俺は彼に礼を言うと同時に恐怖に駆られた――。

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