Track1 Mahogany&Maple
「松田! 納期来週だから忘れずに水野工業への納品処理終わらせておけよ!」
俺は会社の事務机で営業資料を作りながら上司に小突かれた。
「はい! 確実に納品されるように手配しておきます!」
面倒くせえと思いながらも上司に頭を下げ、その日の仕事をどうにかこなす。今日はバンドメンバーとの打ち合わせだ。約束の時間は午後9時だし、まぁちょっと残業したって間に合うだろう。
考えが甘かった。結局、仕事は午後8時半を過ぎまで掛かってしまった。俺は急いで会社から出ると電車に乗って新宿へと向かった。すっかり当りは暗くなって、地下鉄の車内は疲れきったサラリーマンだらけだ。俺もその中に含まれているんだろうけど。
電車から見える東京の夜景は恐ろしく綺麗だった。東京に住むようになってから俺は毎日この夜景を見ているのに飽きない。俺の地元は茨城の片田舎だったし、やはり都内はすごい。
新宿に到着したのは約束の時間ぴったりだった。俺はバンドメンバーと待ち合わせしている駅構内のドトールコーヒーに急いだ。店内に入ると奥の席にバンドのヴォーカル兼ギタリストが1人でコーヒーをすすっていた。彼女は赤いキャップをかぶり、肩まで伸びた金色の髪を右手でボリボリ書きながらノートに何かを書いているようだ。どうやらバンドのベーシストはまだ来ていないらしい。
「押忍! お疲れ!」俺は彼女に声をかけて前の席に座った。
「お疲れ! 大志遅かったねー。残業大変なのに悪いね。ジュンはまだ来てないよー」
彼女は京極裏月、俺たちがまだ地元にいた頃に知り合ったバンドのギタリストだ。彼女の本名は「ヘカテー」だけど、俺は彼女を「ウラ」と呼んでいた。ウラ曰く、「ヘカテー」と呼ぶ友人は皆無らしい。
初めて会った頃のウラはまだ15歳だった。その当時の彼女は父親と双子の妹と仲違いして家を飛び出したと言っていた。そのあと色々あって父親は蒸発、妹とは和解したらしい。俺も彼女の妹とは何回か会った。こう言うと語弊があるかもしれないけど、ウラの妹はかなりまともで真面目な女の子だ。性格も女性らしいし、目の前にいるこいつとは本当に姉妹なのかと疑うほどだ。ウラはどう取り繕っても真面目じゃないし、かなりイカレている気がする。でも俺はそんなウラのことが気に入っていた。イカレてることも含めて彼女は彼女だ。
俺はドトールのカウンターに行って飲み物を注文してから席に戻った。俺が席に戻るとウラはキャップを脱ぎ長い髪をヘアゴムでまとめてポニーテールにした。
「大志大丈夫だった? ジュンが言ってたけど今仕事忙しいんでしょ?」
「ちょっと忙しいかなー。なかなか定時に上がれねーんだよ。まぁ会社なんてそんなもんだし仕方ねーと思うけどさ」
「社畜は大変だよねー。私には真似できねーわ!」
ウラは俺を気遣ってくれていた。思えば俺が会社員になってからウラはいつも俺を気遣っていてくれる気がする。
ドトールの店内から見る駅構内は仕事帰りのサラリーマンや学生で溢れている。行き交う人々は表情が読み取れない。彼らはただ足早に通り過ぎて行った。
「こっちこそ悪ぃーなー。お前にばっかりバンドの運営任せっきりだしよー。もっと協力しなきゃいけねーのはわかってんだけどさ……」
「いいって! 気にしないでよ! 地元にいた時はいっつも大志が段取り組んでくれてたんだし、こんくらいはやっからさ!」
「サンキュな……。お前は最近忙しいのか? まぁお前の仕事は今天職かもしんねーけどさ」
俺がそう言うとウラは深いため息をついた。
「まぁ、ねぇ……。天職だとは思うよ? でもさぁ、やっぱ私はこれで食っていきたいよね!」
ウラはそう言うと隣の席に置いてあるギターケースを軽くポンポンと叩いた。
「お前そのSG使うようになって長いよなー。そろそろ別のギター新調したらどうだ?」
「やだよー! 私はこの子と一緒にやってきたんだよ! 確かに新しいギターも気になるけど、これ以上のギターあるわきゃないもん!」
ウラはそう言うとギターケースを優しい手つきで撫でる。ウラの愛用のギターは彼女がまだ中学生の頃に買ったものだ。かれこれ7年間はそのギターを使い続けているようだ。相当ウラの手垢がついているはずなのに、そのギターはいつみてもピカピカに輝いて見える。ウラは毎日、愛用のSGをメンテナンスしているのだろう。ここまで愛情を持って接してもらえればギターも本望だろうと思う。
「それにさ! 私は今でもこのSG持ってメジャーデビュー目指してんの!」
「お前はいつもそれを言うな……」
ウラはそう言って歯を剥き出して笑った。彼女は本気でバンドで食っていきたいらしい。俺もそうしたいと思いながらも現実は厳しい気がする。
「あーあ、ツッキーは人使い荒んだよ! 私だって割と忙しいのに夜中でも平気で電話で呼び出すしさー。しょっちゅうパシられるし! あのお姉さんマジでしんどいわ!」
「月子さんは相変わらずなのな?」
俺がそう聞くとウラはまた深いため息をついた。
「『ウチはぁコーヒーはファミマのがええわぁ、ウラちゃんなんでセブンのしたん? 取っ替えてきて!』とか抜かすんだよ! あのババ……。お姉さんマジで気分屋だしやめてもらいたい!」
「お前今、月子さんのことババアって言いかけなかったか?」
俺がそう言うとウラはごまかすように目を泳がせた。
ウラにとっては幸福なことだったと思う。ウラは『アフロディーテ』というバンドのヴォーカルの付き人をしていた。彼女の天性の運なのだろうけど、ウラは月子さんにすっかり気に入られてしまったようだ。
「まぁ、月子さん悪い人じゃないんだよ? 気分屋で自己中なところはあるけど基本的に優しいし、私のことなんだかんだ気遣ってくれるからね。でも時々逃げ出したくなる……」
「そんなもんじゃねーの? 俺なんかいつも会社からトンズラこきたくなるわ! 上司うっせーしよー。後輩は後輩で言うこと聞かねーし。それでもどうにか折り合いつけてやってくしかねーんだけど……」
「大志は頑張ってると思うよ! 私みたいに自由に動ける訳じゃないのに、こうやってバンドの打ち合わせとか段取り手伝ってくれてるんだもん!」
ここ3年の間にウラは驚くほど丸くなった。出会ったばかりの頃は会えばガンを飛ばすような女だったのに今はしっかりとした敬語で話したり、人に礼儀を持って接したりできるようになった。元々根が悪い奴じゃないからベースは出来上がっていたんだろうけど。
「2人とも楽しそうだね」
「うわぁー!? ジュンいきなり声掛けないでよ!! 心臓に悪いって!」
バンドのベーシストのジュンがウラの背中にいきなり声を掛けた。ß真打ち登場だ。
「お疲れジュン! お前も仕事帰りか?」
「お! 大志君スーツ姿で決まってるねぇ。うん、出先から直帰だって言って逃げてきたとこ」
ジュンは悪ふざけをしているような言い方で俺をからかう。こいつは見た目は良いけど、性格は最悪だ。
多賀木ジュン。本名、高木純は俺の幼なじみだった。幼稚園の頃からの付き合いで本当の意味での腐れ縁だ。俺はジュンの性格の悪さを常に横から眺めていた気がする。特に女に対しての考え方は最悪だ。この男は女を性欲処理の道具程度にしか考えていない気がする。(ウラだけは違うらしいけど)
ジュンの母親は女優をしていた。芸名は多賀木マリ。彼は地元の大学を卒業後、母親のところに身を寄せて芸能事務所でマネージャーをしているようだ。詳しい仕事内容は俺も知らない。
「では! みんな集まったということで! 次回のライブ日程決めちゃおうか? セトリは今回、私の独断と偏見で決めたけどいい?」
「俺は構わないよ! だいたい京極さんがゴーサイン出さないと俺らのバンド動かないじゃん?」
「フフフ、さすがジュンはわかってらっしゃる! で? 大志は?」
「俺も依存はねーよ! でも一応見せろや」
俺はウラからライブで使う曲目のセットリストを受け取った。ウラが選んだ曲目を一曲ずつイメージしてライブの映像を思い浮かべながら流れを頭の中で組み立てた。俺はここ4年ばかりライブ前にはこの作業をしていた。ウラがどんな風にMCをして、ジュンがどんな風にステージを動くかも織り交ぜながら全体を把握する訳だ。
「曲自体はこれで問題ねーと思うよ? でも3曲目の夜光虫と4曲目のDaysは曲順、逆にした方がいいな。そうじゃねーとお前MCの入りが難しくなるだろ?」
「えー? でもさDaysのノリの後に話したいよー。夜光虫だとしっとりだから落ち着いちゃうしさ」
「どっちを求めるかだね。京極らしい激しさを求めるのか、今度のアルバムのこと考えてちゃんと話するかってことだよね大志?」
さすがにジュンはよくわかっている。俺としては今度出す予定のセカンドアルバムの雰囲気を観客に伝えたいのだ。ウラはそんなことより、自身が気持ちいいかどうかで決めたがる。
「ジュンの言う通り、俺は次のアルバムの話をちゃんとしたいんだ。2回目のMCの時にノリの良い曲入ってるんだから最初はある程度話した方が良いと思うぞ?」
「うーん……。まぁしゃーないかな。そう言われればそうかもしんないね」
ウラは今イチ納得していないようだ。こいつはやっぱりノリで生きている。
俺たちはライブハウスの手配と告知について話し合った。2時間ほどミーティングをするとだいたいの流れは決まった。
「よっしゃ! それじゃあライブまでまた気合い入れていくぞ!」
「そだねー。大志は仕事忙しいんだから準備はウチらにまかせて! ジュンさぁ、ライブハウスの手配まかせていい? 私は告知のビラ配りとかチケットの手配とかすっからさ!」
「いいよー。京極さんと2人で役割分担しよう! 俺もマリさんに頼んで少しでもチケットはけるようにするよ」
「2人とも俺も手伝うからあんま気使うなよ?」
俺は2人にばかり負担をかけることに抵抗を感じていた。たしかに会社員になってから時間を作るのが難しかった。どうにかこうにかドラムの練習はできているけど、それでも圧倒的に時間は足りていない気がする。
「いいって!! 大志はドラムの練習に集中してよ! ウチらより普段忙しいんだからさ!」
そう言うとウラはまた歯を剥き出して笑った。
俺はウラのこの屈託のない笑顔が好きだった。彼女は昔から笑う時は思いきり笑う女の子だった。含むところもなく、作り笑いもしない。そんな、あまりにも真っ直ぐすぎるウラが俺は好きだった。すっかり大人っぽくなったウラとこうしてずっと一緒にいられることが不思議でさえあった。
打ち合わせをしてから数日後、俺はウラに急に呼び出されることになった。