ピュアヒューリーズ36
三坂さんはメガネを外してカウンターの上に置いた。
「やっぱりいつまでも逃げてはいられないんやね」
三坂さんはカクテルを口に含むと一口で飲み干した。
「三坂さん……」
「あれはな……」
それから三坂さんは当時の話を聞かせてくれた。
三坂逢子の話。
1994年9月。私は亨一と話していた。他には誰も居なかった。
場所はいつも『レイズ』が打ち合わせする喫茶店。コーヒーとタバコの香りだけが鼻を突いた。
「今からなら間に合うと思うよ? 鴨川さんだって話せばわかるはずだしさ」
「そういうこやない」
そう……。そういうことではない。
これは私と月子との気持ちの問題だ。
「ねえ……。逢子が嫌だって言ってくれさえすれば俺も助かるんだ。別に彼らが嫌いってわけじゃないけど、俺は今のままがいいしさ」
亨一は真剣な顔で私に微笑んだ。目は笑っていない。
「私もな。ほんまはそうしたいんやけどな……。でもちゃうねん。そういう問題やない。あんな、私は月子ちゃんと勝負して負けたんやで? しかも私からや。これで前言撤回なんか出来へんよ」
「……。それでも。俺は逢子に前言撤回してほしい。だって……。もしこのまま俺が抜けたら『レイズ』は新しいベース探さなきゃいけないよね? そうしたら困るのは逢子自身なんだよ?」
亨一の言うことはもっともだ。こんなつまらない理由で亨一クラスのベーシストを手放すなんてどうかしている。
でも……。
「あんな、亨一。こればっかしは理屈やないんや。私は調子乗ってあんたを賭けの対象にしたんやで? そんで……。その上、『あの賭けは無効や』なんて言えるかいな。これ以上、負け犬になりとうない……」
完全に私の我が儘だ。そして、この判断で『レイズ』の誰も得をしない。
繁樹だって亨一が抜けたら相談相手が居なくなるし、ヒロに至っては別れてしまうかもしれない。
そして……。私だって相当な痛手だ。それは何もバンド運営に関してばかりではない。もう既に亨一は私にとってそれだけの存在ではないのだ。
「……。分かったよ。じゃあね。ひとつだけお願いがあるんだ」
そう言うと亨一は1つ私にある提案をした――。
三坂さんはそこまで話すと大きなため息を吐いた。この街のため息の1パーセントくらいはありそうな深いため息。
「そんでな。亨一が私に言った提案ちゅうんがまたけったいなもんやった」
「けったい?」
「せや! ま、そのお陰で今まで『レイズ』はやってこれたし、悪いことばかりやけどな」
僕は黙って彼女の言葉の続きを待った。
三坂さんの頬は赤くなっていた。アルコールが身体中を駆け巡っているのだろう。
彼女は10秒ほど遠くを見つめていたが、ゆっくりと口を開いた。
「亨一はな。抜けた理由をねつ造するようにゆったんや」
「ねつ造?」
「せや! 『逢子は引き留めたけれど俺は辞めたいんだ』とな。ウケるやろ? ま、これに関してはヒロの為やったんやろうけどな。繁樹はこのこと知っとるやろし……。もしほんまのこと言ったらヒロはバンド辞めてたと思う……」
どうやら佐藤さんは僕に嘘を付いていたようだ。
彼は三坂さんと鴨川月子がどのような話し合いをしたか知らないと言っていた。
しかし、三坂さんの話が事実であれば、佐藤さんがこの件を知らないわけがない。
「そうだったんですね……。じゃあ、佐藤さんが『レイズ』を抜けたのって……」
「色々とこじれ取ったんや。月子ちゃんは亨一を引き抜きたがっとったし、私は意地になっとった。そんでヒロのこともあったからな……。ま、今回の件で全面的に悪いんは私なんよ。亨一とヒロは被害者や。月子ちゃんは……。まぁ、私の次に戦犯やろうけどな」
三坂さんはそこまで話すと自身の頬を両手で叩いた。
「でもな! もう限界やな。20年以上こないなこと続けてきたけど、もう無理や」
「どうするんですか?」
「せやね……。ま、正直にヒロに話すわ。そんであの子がウチらのバンド抜けるんやったら仕方ない……」
そう話す彼女は妙にすっきりした顔をしていた。
もしかしたら僕はとんでもないことに首を突っ込んでしまったのかもしれない。
もう取り返しがつかないけれど……。




