紫式部
執筆者:折穂狸緒
1周年おめでとうございます!
サークル一の幽霊部員(?)ですのでもっともっと頑張ります。
「この前の、良かったよ」
夕暮れの教室。夢と現実とが曖昧な線でぼんやりと少年の輪郭を描く。きっちりと制服を着こなして、ズボンには皺一つ無かった。手を後ろに組んで背筋を伸ばしたまま立っている。
机に腰掛けた少女へと投げかけた言葉は先月の部内での文芸誌の事だ。
一ページ目の扉絵、ならぬ扉小説。少女の書き上げた作品だった。
「連載なんでしょ? 中々の滑り出しだったよね、特に、主人公が幸せな場面から始まるのが、良い」
少女は虚空を見つめたまま何も言わない。膝を開閉させている。きっと自分の作品について語りたいだろうに。それをぐっと堪えているらしい。
「普通、幸せってエンドに持ってきた方が良いだろう? それが、もう始めから幸せ。これ以上何を望むんだろう、本当に長編になるの?」
少女は答えない。ただ一点をじ、と見つめている。ただ、口元に僅かに緩ませているだけだ。
「……紫式部って知ってる?」
暫くの沈黙のあと、漸く少女は思い口を開いた。楽しそうな笑顔だ。
「紫式部? 源氏物語の?」
唐突な脈絡の無い質問に少年は面食らう。
「そう、その紫式部。その源氏物語。この物語がどうしてこんなにも有名になったか、知ってる?」
「知ってるってそりゃあ、世界最古の長編文学だからだろう?」
戸惑いながらもそう答える。だが少女はその答えに不満だったのか、眉を顰める。
「ええ、ええ、それもあるでしょうね、それよりも、私はもっと別にあると思うの」
かつん、と爪先を前の机に当てる。小さな音だったが、少年の耳の奥に響いた。
「主人公、光の源氏の栄華、その衰退の落差」
含みのある言い様だったが、少年ははっとした。そういう事か。
「私は、それを書きたいの。幸せで幸せで、仕方のない主人公をエンディングで叩き落としたいの」
にやり、と笑う少女。その表情にはまだまだ幼さが残っていた。
丁度、日が暮れきった。赤く幻想的だった世界が突然終わる。
黒に近い紫色の空の中にぽつりぽつりと星が浮かぶ。
数分の静寂。少年は黙ったままだった。ただ、ただ少女を見つめていた。
「嗚呼、きっと違うね」
口を開いた少年。笑っていた。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「君は、純粋で美しい」
少女の目の前にコスモスの花束。紫と白のコントラストがよく映えている。
受け取ると少年は優しく微笑んだ。
「だから、君は紫式部には成れない」
そう言うと、閉め切った教室内に突風が吹く。
少女が顔を覆って風に耐えてる僅か数秒の間に少年は消えた。
残ったのはコスモスの花束と、色とりどりの花びら。
少女はそれをただじっと見つめていた。