とある昔話
この小説には、あえて会話文である「」を省いています。
少し読みづらいかもしれませんが、雰囲気を出したい演出と考えてくだされば嬉しいです。
今は昔の江戸時代。
夜というものは暗いもので、外灯なんかが今の時代にあるわけもなく、人々は各々提灯を持ち歩いたり果ては月明かり星明りで道を歩いたものだった。
明かりと言ってもぽつりぽつりとある小さな屋台だけ。
そんな真っ暗な道を一人の男が歩いていた。
男は根っからの小心者で気が弱かったが、真面目な性格だった。
そんなものだから、今日も本当はやるはずのない仕事を押し付けられ、こうして夜中に家路を歩くはめになってしまった。
まだ初夏の夜風は冷たい。
男は貧乏で提灯なんて高価なものは持っていなかったから、月明かりを頼りに歩きなれた道を歩いていた。
少しばかり小走りなのは、子供の時に聞いた妖怪の話を思い出したからだ。
こんな時に限って怖い話ばかり思い出す。
鼻歌でも歌えれば良いのだがそれすら恐ろしく感じて、男は黙りこくったまま歩き続けた。
家に着くのはあともう少しだ。
と、ふと帰り道を急ぐ男の目に、道端に蹲って座り込んでいる一人の女の姿が映りこんだ。
はて、なぜにこんな時間こんな場所に。
一本道を右に曲がれば長屋が並ぶが、ここは川沿いの道だ。
右手には大きい家屋敷の垣根がずっと遠くまで並んでおり、左手には草原と小さな小川がある。
酒場かどこかで酔いつぶれ、はたまた具合でも悪くなって座り込んでしまったのだろうか。
男は放っておくのもどうかと思い、恐々女に近寄った。
女の肩は小さく上下に揺れているし、雰囲気は妖怪のものではない。
が…。
ここで昔話ののっぺらぼうが頭を過ぎった。
まさにこんな光景での話だ。
その時の主役は酔っ払いだったようだが、立場や状況は非常に似ている。
月の明るいこんな夜の話だ。
男はごくりと唾を飲み、一旦女に背を向けた。
が、また思い返して振り向く。
女は息が少し荒いようで座り込んだまま一向に動く気配がない。
本当に妖怪だったらどうしよう。
いやいや、そんなわけがあるものか。あれは子供に夜出歩かせないための嘘話だ。
しかし実際に見たという話も聞いたことがあるような。
男は背を向けたり、また振り向いたりとしばらくうろうろしていたが、思い切って声をかけることにした。
本当に病気か何かだったら後味が悪い。
しかも朝一番の知らせで女が死んでいたなんて話になったら…。
男はそっと近づいて女の肩を後ろからぽんぽん、とまるで腫れ物でも触るかのように叩いた。
震えているのがばれたら少し恥ずかしいが、構わず声もかけた。
もうし、具合でも悪いのか。
声も少し震えていたが案外落ち着いたものだった。
女はびくりと少し震えてから、ゆっくり振り向いた。
月明かりに少しずつ女の顔が照らされてゆく。
ああ…心優しい方…。
青白い月明かりに照らされた女は、真っ白な何もないのっぺりとした顔でこう言った。
私の顔を知りませんか?
男は悲鳴をあげて一度しりもちをついたが、なんとか起き上がって転がるように走って逃げた。
腹の奥から出た悲鳴はしばらくそのまま、男は無我夢中で逃げた。
あの昔話は本当だったのだ。
声なんかかけるんじゃなかった。
後悔と恐怖と混ぜこぜになりながら、男は家の方向も忘れて走りに走った。
足が疲労に疲れだしてがくりと転ぶように道端に倒れこんだ。
まるで何百里と逃げたように足は痙攣し、力を入れようものなら入れたはしから抜けてゆく。
男は痛むわき腹と胸を抑えて、倒れこんだままゼェハァと息を切らしていた。
全身から湧き出る汗は冷たいが、走ったせいで体は熱い。
しばらくの間そうしてから、男はまた恐々と振り返った。
追いかけてきていたらどうしよう。
だが、女の姿はなく静かな夜道だけがそこにあった。
男は安堵にまたがっくりと座り込んで、呆けたように辺りを見回した。
何もいない。
草原で鳴く虫の声が大きく聞こえる。
遠くには川のせせらぎ。
一体どこまで逃げ出して来てしまったのか、男は気を取り直してきょろきょろと周りを見渡した。
大丈夫だ。まだ知っている道だ。
ただ少し曲がる道を通り過ぎてしまっただけのようだった。
男ははだけてしまった着物を繕って立ち上がり、気合でも入れるかのようにぱんぱんと腿を叩いた。
震えはもうだいぶ収まっている。
大丈夫、家まで歩ける。
男は再び月明かりを頼りに歩き出した。
あれは一体なんだったのだろうか。
まだ胸はどきどきとしているが、恐怖はほんのり薄れている。
仕事の疲れで見えた幻だろうか。
一瞬は本当にあったのだと決め付け怯えたが、気を取り戻してみると幻だったのではないかとさえ思えてくる。
だが、戻ってまで確かめる勇気もない。
男はまっすぐに家に帰ることにした。
もういるわけがないと言う強がる自分と、またいたら怖いと怯える自分がいる。
男は怯える自分に従って、だがそれでも幻覚を見たのだと思いながら歩いた。
そういえば、ふと思い出す。
昔話には続きがあった。
逃げた男は屋台で再び妖怪に出会ってしまうのだ。
男は薄れ掛けた恐怖心がじわじわと戻ってくるのを感じた。
口の中は乾ききって、唾を飲み込むのが辛い。
だが…。
ここから家まではあと少しの距離だし、今まで屋台なんぞを見たことがなかった。
出しても儲からないような道だ。
民家ばかりが続く道で屋台を出しても、誰も立ち寄りすらしないだろう。
男は安心して歩いていた。
お前さん、ちょっと顔が青いがどうかされたかね。
いきなり背後から声をかけられ、男はぎゃっと飛び跳ねた。
また妖怪か何かなのか。
振り向いたらそこには小さな小さな屋台が店を構えていた。
橙色の提灯が道を照らし、そこばかりが明るくて少し眩しい。
その屋台の中からは湯気があがっているのが見えた。
手前に簡単な鍋があり、そこから湯気が上がっているらしい。
そしてその奥には店主なのだろう、人の良さそうな老人と呼ぶにはまだ若い年老いた男がにっこりと人懐こい笑顔を浮かべていた。
ああ、物語の通りだ。
男は一歩ずつ後ずさりをした。
年老いた男の笑顔がまた怖い。
おとっつぁん、遅くなりましたなぁ。
ふと物陰から若い綺麗な娘が顔を出した。
真っ白な顔にこれまた人懐こい笑みを浮かべた、小柄な女だった。
橙色の提灯の明かりに、赤い着物が映える。
こんな物語ではなかったな。
綺麗な娘の登場に男の緊張感が少し和らいだ。
まじまじと年老いた男と娘を見やる。
この人お客さんですの?
娘がきょとんと店主に聞いた。
年老いた男は首を傾げ、男を見つめながら言った。
いいや、青い顔をしてもそもそと歩いていたからねぇ。
何かあったのかと思って声をかけただけなんだよ。
娘は、ははあと頷いて男ににっこりと笑顔を見せた。
おとっつぁんの作るおでんは自慢なんですよ。おひとついかがですか。
男は娘の笑顔に息を深く吐いて、気の弱い緩んだ笑顔を返した。
そうしようかなあ。
のっぺらぼうに出くわしたことはすっかり忘れて、男は屋台でおでんと酒を頼んだ。
仕事の疲れもあったのだろう、男はぐでんぐでんに酔っ払ってしまった。
おでんも酒も美味いことこのうえない。
次にこの屋台を見つけたときは、少ないが知り合いを連れて来ても良さそうだ。
男は気分をよくして、今日の仕事の愚痴や家での話を二人に話して聞かせた。
年老いた男と美人な娘の親子は、気を悪くするでもなくただただ笑顔で聞いていた。
時折相槌を打ったり、頷いたりするだけではあったが、男は気分が満たされていくのを感じた。
そこでふとさっきのことを思い出した。
笑い話にして聞かせれば少し娘の方の気を引けるかもしれない。
男はさっきののっぺらぼうの女の話を二人に聞かせた。
まるで子供のときに聞いた昔話のようだったと。
男は疲れで幻覚でも見たんだろうよ、と締めくくった。
二人はくすくすと笑って聞いていたが、店主がふと話を切り出した。
それは確か最後が、こういう屋台でまたのっぺらぼうに会ってしまうんでしたな。
男はそうだそうだと笑った。
だが実際はこうだ。
人のいい店主と綺麗な娘にこうして話を聞かせて終わりだ。
男は昔話がでっちあげなのだと、酒の入りもあって熱く語った。
あんなものは子供を怖がらせるための作り話なのだ。
でっちあげねぇ…本当にそう思うかい?
がらりと店主の声が変わって、男はまだ酔いの覚めやらぬ顔で店主を見た。
店主の笑顔が作り物のように見えてくる。
おいおいよしてくれよ。怖い思いはもう十分だ。
男は冷や汗を掻きながら、それでも強気に笑って見せた。
心なしか娘の笑顔ですら作り物めいた仮面のように見える。
店主はそおっと両手で自分の顔を覆った。
男はごくりと唾を飲んだ。
娘は相変わらず笑顔でこちらを見ている。
途端に静まりかえった屋台に、虫たちの鳴き声が響く。
のっぺらぼうってのは、こういうのじゃなかったかい…?
店主がゆっくりと手を開いて見せた。
途端、男の顔が引きつった。
慌てて立ち上がり懐から小銭をありったけ取り出し、投げつけるようにして台に置く。
ち、馳走になった…。
消え入りそうなか細い声で男はそう言うと、今度は家路に向かってまっすぐに走っていった。
転びそうになりながら走り去って行く男の背中を見て、店主はおや?と娘に振り返る。
俺は普通の顔をしていたよな?
くすくすと笑い出した娘に目と鼻はない。
のっぺらぼうのまま、口だけで笑って言った。
おとっつぁん、目と口が逆についてますよ。
店主の男はぶわっはっはっと噴出すように額にある口で大笑いした。
人間の顔は面倒くせぇなぁ。
月の綺麗な夜、屋台に年老いた男と若い女の楽しそうな笑い声がいつまでも響いていた。
そんな妖怪たちの、笑い話。
昔話に出てくるお化けは、案外と陽気なものが多いので題材にしてみました。
今は陽気なお化けの話なんて滅多に聞きません。
忘れていた子供の頃の、ちょっと怖い昔話を思い出して頂けたら幸いです。