百恵と摩子のことは、なにをしていても、四六時中、忘れることはなかった。
百恵と摩子のことは、なにをしていても、四六時中、忘れることは、なかった。一日も早く、正常な暮らしを取り戻して、人並みの平凡な家庭の幸せを味わいたかった。
百恵は東京の向島で育った。向島の東の端は押上で、今でこそ、東京スカイツリーで賑う町に変貌したが、百恵が子供の頃は、向島のこの界隈は下町の貧しい人々が住むところだった。最盛期には芸者置屋や料亭が、軒をならべていた。また、職人の街で伝統工芸品などの工房もあった。現在もその伝統は引き継がれているようだ。
百恵の両親は蕎麦屋を営んでいた。店のやりくりに苦労するほど、貧しい生活を強いられた。百恵は最近では珍しく、もの静かな女で、容貌や性格は古風なところがあった。百恵の母は実直な方で、まるで、百恵に瓜二つの教養のある人だった。
百恵の父は太平洋戦争中に艦船上で米軍機に急襲され、沈没した艦船から命からがら、脱出して、自力で近くの島まで泳いで、生き延びたとのこと。百恵の母方の祖母は当時としては、めずらしく、高等女学校へ進み、下町の人に尊敬されていた。百恵はカンナみたいに、はっきりと自己主張するタイプの女性ではなかった。娘の摩子は私が晩婚だったため、40代後半で生まれた子供だった。摩子も母親に似て、控えめで、おとなしく、可愛らしい容貌をしていた。私は摩子をこのうえなく可愛がっていた。
摩子がまだ幼稚園の頃、摩子と百恵・私の3人で野坂昭如さんの「火垂るの墓」をテレビで観ていた。観終わったら摩子も百恵も涙をながしていた。涙なしでは観られない名作だった。私といえば、2人のまえで、涙を流すのも恥ずかしいので、トイレに駆け込んだ記憶がある。私は、ほとんど、アニメをみないが、この作品だけは、感動した。後になって、知ったことだが、この作品は野坂さんの戦争体験を、元にしているとのこと。実体験は質の高い芸術をうむのだ。納得の作品だった。その当時、百恵は「こんな悲しい、映画は二度と観たくない」と言っていた。この夏のある暑い日、ツタヤへ、行って、「火垂るの墓」のDVDをかりて、数年ぶりに観た。その夜は、心優しい百恵と摩子の姿が私の胸に迫って来るようで、眠れない一夜をすごした。
摩子といえば、彼女の子供の頃から、女性関係の激しい父親に反発する頃もあったが、心のそこでは、私を慕っていたとのこと。それだけに、この二人には、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。百恵との離婚直後に、二人は早稲田鶴巻町から、向島の実家へ移り住んでいた。
その後、実家は数年前に蕎麦屋を廃業していたので、自宅は人手に渡っていた。それから、谷中銀座の路地裏に引っ越していた。人伝に聞いた話だが、二人は、自宅に帰ると、肩を寄せ合うように、寂しげに、暮らしていたとのこと。また、この母娘は私の帰りをひたすら、待っていたとのこと。
二人は不幸のドン底にいたので、出来るだけ、明るい町に住みたかったので、JR日暮里駅から歩いて、5分ぐらいの谷中銀座に移り住んでいた。この街は多くの観光客で賑わった。特に、外国の観光客が訪れていた。彼等にとって、東京という大都会にありながら、ちょっと、鄙びて、日本的なところがお気に入りだった。人情あふれる、レトロな街で、「夕焼けだんだん」の近くの商店街からすこし、入った路地裏の家賃の安い文化アパートにひっそり暮らしていた。
「夕焼けだんだん」は、私の若い頃はあかね色に染まる夕日を長く眺められたが、最近は高層ビル群が建並び、すぐに、ビルの陰に消えていくようだ。また、猫の聖地として、有名で、人と猫とが、日常生活にとけこんでいて、心の支えとなり、住人や観光客にいなくてはならない存在だ。私は、もう東京には微塵も魅力を感じないが、この谷中銀座の風情だけは、特別だ。
私は、ここまでの二人の所在は確認していたが、その後、二人が何処に住んでいるのか、不明だった。私はその所在を調べる手立てはあるにはあるが、ドン底生活から抜け出せない現状では、たとえ、所在が判明しても、現実に同居できるわけではないので、会いたい気持ちを押し殺して、しばらくは、捜さないことにしていた。
それでも、百恵と摩子を一日でも早く京都へよんで、一緒に暮らしたい。そして、所謂、普通の家庭の幸せを取り戻したいと。しかし、現状は厳しい。破産した身だ。しかも歳もくっている。どうしよう!このごろは、いつも、焦っている。そして、気分が鬱になると、もうやる気を無くしてしまう。そして、幸せというやつが、私から、どんどん、だんだん、遠のいていく。
我ろ旅は 旅と思ほど 家にして 子持ち痩すらむ 我が妻かなしも
(万葉集 東歌 詠み人知らず)
(私の旅は旅だと思ってあきらめるけど、家に残って子を持ち、痩せているだろう妻がしのばれることよ)
東日本震災で被災した東北の人々のことを思うと、自分はまだ大丈夫、幸せだと言い聞かせる。が、しばらくすると、現実の自分に立ち戻り、ドン底を這いずりまわっている醜い老人の姿が私の頭をよぎる。それが、自分であることをいやがおうでも、知らされる。悲しんで、寂しくて、悩むより、もっと、現実を冷静に客観的にみることで、自分を奮い立たせようとすればするほど、身も心も硬直していく。
ひょっとしたら、鬱と躁の狭間を行ったり来たりしているのではと。不安な感情に襲われる。焦るばかりだ。近くの心療内科へ、いってみると、やはり、不安症と診断された。できるだけ、薬は飲みたくないが、日に2・3回、不安な気持ちに襲われる。
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 万葉集 山上憶良
(私 憶良はもう失礼いたしましょう。今頃は子供が泣いているでしょう。それその母親も私を待っているでしょうから。)
と詠んではみたものの、私には帰ってみても、百恵と摩子に逢えるわけがないのだ。
一方、カンナと三好との関係は数カ月で終わった。三好の妻の知るところとなったからだ。
しばらくして、私は次の適当な職が見つかるまでということで、当分、「カラオケ喫茶八金」のマスターをすることになった。その当時は、三好との関係がなくなっていたので、カンナのマンションに立ち寄ることもあった。
カンナと私の間には、金銭関係はなく、ボランティアとして、マスターをして、その代り、無料でカラオケを楽しんでいた。カンナも金銭的ゆとりもなく、私に払う金等ないし、当然、私も台所事情を熟知していたので。私は店では、通称「かねちゃん」と呼ばれていた。カンナが適当につけた愛称だった。客も私のことをそう呼んだ。
この業界は、勿論、初めての体験だったので、好奇心もてつだって、「かねちゃん」と呼ばれることに、当初は、耳触りのいい心地よい満足感を味わっていた。ところが、カンナは客の前では、私がちょっとしたミスをおかしただけで、厳しく、叱りつけた。特に男性客の前では、徹底していた。これは理に適っていた。客には、私の存在を、雇われマスターとして、意識させることにより、カンナが女独りで頑張っているという姿をみせたかった。勿論、現実もそうだった。
しかし度が過ぎると、客の前で「かねちゃん、何時になったら、一人前になれがあー!いかんやんか!」と土佐弁を連発した。物を粗末に扱っていると、「知恵のない贅沢もん!」と怒鳴りつけた。贅沢に慣れた役立たずの無能な奴という意味だ。当初はこのいじめも、客の前ではカンナと私の関係をカモフラージュするために、理に適ったものとして承知していたばかりか、客の前で、芝居がかったママゴトをしているようで、妙に快感を味わったものだ。
しばらくして、接客に慣れたころ、柄にもなく、常連客に「社長!声はいいし、男前だし、女性にモテモテだね!」セレブの女性には「歌に艶がある。若いね!旦那は幸せだね!」と心にもないことをいう。当然常連客もヨイショしていることは重々承知だ。私の芸は精々この程度。三流の太鼓持ちも、いいところだ。
それでも、お客は「おい!かねちゃん。早くビール持って来い!遅いぞ」「いいかげんに、でんもく(カラオケを入力する機器)に慣れてくれよ!」「全く気が利かんな!」といった調子で、気が滅入るばかりだ。そのことをカンナに話すと、「お客はそんなもんや!」と、一笑に付される。
甘ちゃん育ちの私にしてみれば、我慢もこれまでと、何度も、店を辞めたいと、カンナに申し出るけれど、いつも、彼女特有の慰めと励ましに、屈してしまうのだ。ところが、彼女を経済的に支援してくれる常連さんが現れそうになると、かねちゃんこと、私の存在も危ういものとなった。
本気なのか、悪ふざけか、判別できそうにないいじめがはじまった。無気力で無口な私も流石に、その夜は帰宅したカンナに、バカ女を連発して、吼えまくったものだ。内弁慶もいいところだ。それはさておき、カンナのいいところは、寛大でおおざっぱなところだ。
その反面、悪いところは、必要以上に、執拗に、どうでもよい細かいところに拘ることだ。例えば、私が「甲という人は不美人だ」というと、カンナは全面否定した。私が「彼は真面目な人だ」というとカンナは「彼は不真面目な人だ」という。最後には、私も、面倒くさくなり、彼女に同意する始末。
また、彼女は堂堂と、かつ確信的に自分のことを、自慢しまくることだ。そこには、嫌らしさはなく、天真爛漫といえば、そうかも知れない。例えば、常連客のA氏に「私は、かわいいし、歌も上手し、きっと、私を好きになってくれるよね!」と、自然体で迫っていく。そうすると、実際にA氏は彼女を好きになってしまったものだ。このへんがカンナの魅力なのか、彼女の魔力に取り付かれてしまった男どもは結構いた。
カンナは庶民的な店が好きだった。飲食店やブティックに入る時も、安いところを好んで、入った。河原町通りの安いファミレスで食事をした。嫌ったのは、気取った、セレブ系の店だった。これは、百恵もそうで、二人に共通していた。そして結構安めの衣服でも、二人とも、上手に着こなしていた。
また、カンナは自分の店の定休日などは、私と二人で、京都四条河原界隈の商店街や錦市場商店街などを散歩した。少女みたいに、楽しそうに、繁華街の散歩を楽しんでいた。「こんなところ、やっぱり、京都やね!高知から出てきて良かったね!」と、年甲斐もなく、はしゃいで、京都にすっかりとけこんで、満喫しているようだった。しかし、やはり、高知の「八金」で田舎ものだった。私はそういうカンナに惹かれた。京都の常連客も私とおなじように、京都人らしくないカンナに惹かれたのだろう。
客層といえば、さまざまで、それだけで、カンナの店そのものがドラマであり、人生そのものだった。街の自営業をしている男どもを引き連れてくるスレッカラシの女。彼らは彼女のことを、女王様と呼び、飲食代は彼らが交代で、支払っていた。また、選挙のときだけ、へいこらして、選挙が終わったとたん、威張りだす政治屋先生。江戸時代、某藩の家老の末裔だという弁護士。気取り屋でけちな野郎だ。当世の弁護士によくあるタイプだ。三代続いているという町医者。息子は名門大学の医学部卒のエリート医者で幸せそのものだ。下ネタ話ししかしないエロ医者さん。
また、父親の莫大な遺産を相続し、それをひけらかすことすら面倒くさいと言わんばかりに、無気力で我が儘なドラ息子紳士。よわい、90歳だが、色気ぷんぷんの伊達男。見習うべし。
カンナに新作のポップ演歌を作曲してやるという色狂いの三流の作詞・作曲家。カンナの虜になってしまった資産家の不動産屋。彼は高級なティファニーのネックレスをカンナに惜しげもなく、プレゼントした。カンナはこの様な贅沢な高級品とは縁のない生活環境に育ったので、ちょっとだけ、贅沢な気分に浸れたことで、喜んでいた。普段は質素に、けなげに、働いているカンナの姿をみているだけに、このプレゼントを嬉しがっているカンナを見ていると、たまらなく、愛おしく思えてきた。やはり、カンナも本音では、高級ブランド品が好きな女性なのだと思った。当然といえば、当然だが。
客層の例を挙げると枚挙に遑がない。世間は広いもので、客の中にも、変り種がいるものだ。鮫島という男で、年頃は50代。彼は30代半ばになってから、某国立大の医学部を目指して、猛勉強した。その甲斐あって、みごとに合格を果たした。その目的は、町医者の出来の悪い師弟を医学部に合格させる個人指導の塾経営だった。しこたま、儲かっていた。そのため、鮫島は医学部に合格したものの、入学せず、合格という実績で、塾生が医学部に合格した暁には、その町医者から、その財力に応じて2,000万から5,000万の報酬を貰い受けるというものだった。
中には、即金で払えない町医者もいた。その場合は、10年払いで公正証書を作成させた。約束を履行しないときは、容赦なく裁判所で執行してもらった。それでも、執行出来ない場合は、つまり執行可能な財産がない場合は、カンナの店から、かつての塾生や父兄に厳しく、店まで、即金で持ってくるように、携帯で矢の催促をしていた。例えば、「おい山本!鮫島先生や!カラオケ喫茶八金まで、50万今直ぐ、持ってきいな」といった調子で。現役の医者でかつての彼の塾生を呼び捨てにして、自分のことを、鮫島先生といっていた。
驚くべきことに、実際、彼等は、鮫島の迫力に押されて、言われたとおり、持参したものだ。つまり、彼らは、鮫島に催促されなければ、払わない程に、大柄に、なっていたのだ。鮫島もそれを承知で強行に催促していた。私はそういう彼を密かに、尊敬していた。うっかり彼を本気で、先生と呼びたくなるほどに。
少なくとも、3・11の大震災で、白日の下に曝されたあの原発ムラの連中よりも、偉いと思った。鮫島は大検(現高校認定試験)の塾もしていた。塾生には、医者・大学の教授・資産家の子弟も多くいた。驚くべきは精神医療を専門にして、不登校の子供達の相談にのっているはずの大学教授の子弟もいた。
話しはだいぶそれたが、私はカンナの男性関係を、頼りない紐らしく、大目にみていた。というより、そうするよりしかたがなかった。女に囲われているという状況を大いに、プラス思考で歓迎している自分に満足し、快感にさえなっていった。惰性で時間だけが流れていた。
しかし、何時かは、彼女と別れる日が確実に到来することを予感していた。彼女が店を維持し、メジャーな歌手となるために、それなりの資金が必要だった。この業界では、常識になっていることだが、金持ちの後援者を得ないと、実現不可能の世界だった。手っ取り早い方法として、財力のある男の支援を受けることだ。そのためには、カンナが惚れそうもない人間でもよい。いや、そういう人しかいないのかもしれない。
彼らの愛人になるか、うまくいけば、正妻におさまるかだ。カンナも私という男がいながら、メジャー歌手になるという夢を実現させてくれるような金持ちの出現を待ち詫びているのだ。金とは縁のない私は、いずれ、カンナのもとから、去る運命にあった。その予行練習として、彼女から嫌われる方法を選択した。
例えば、彼女と二人、カフェレスト等で飲食した際は、敢えて、割り勘にした。もっとも、情けないことに、現実問題、私は彼女の分まで支払う経済的能力にかけていた。それどころか、大方、カンナが私の分まで、支払った。つまり、その気はないのに、支払う振りをしているだけで、彼女もそのことは承知していた。
羽振がよかったころのかねちゃんこと私の地位は地に墜ちたもので、プライドも消え失せそうになっていた。そうこうしているうちにカンナの前に工藤という弁護士が現れた。権威と金に弱い俗物だった。金のない依頼人には冷たかった。特に法テラスのような国の支援機関に相談にくる金のない相談者には冷淡に対応をしていた。この弁護士先生にとって、法テラスはチョットした小遣い稼ぎの出店として、位置づけていた。女性経験も豊富だった。毎月それ相当の援助をカンナにしていた。更に、毎日のように、彼女の店に常連の客として通った。
工藤は心臓に欠陥があり、アメリカで1500万円かけて、心臓手術をしたことを自慢していた。ところが、工藤は、二年前に、突然、不摂生がたたって、心臓病で急死した。工藤からの援助が途絶えてしまった。援助が途絶えると同時に、カンナと私との間がギクシャクした関係になっていった。
売り上げも当初半年は伸びていたが、客足がピタリと、とまってしまった。それは私の存在が大いに影響した。私はマスターという立場で働いていたが、その風貌が金持ちにみえたので、彼女のスポンサーと誤解された。特に男性の常連客は私が都合で店を休んでいる時に「かねちゃんはママのこれか?」と親指をたてて、「間違いないよ。かねちゃんは金持ちとちがうん?」としつこく、カンナにせまっていた。
彼女は「かねちゃんは自営業をしおったけんど、不況のあおりで、倒産したがよ。かねちゃんのたっての願いで、次の仕事が見つかるまで、この店で働いてもらいゆき。」と懸命に抗弁していた。それでも、彼女が実際に女独りで、頑張っている姿が客にはみえず、客足が急にひいていった。




