鴨川嘆きのジンタ!真っ赤に咲けよ!オゴニカの花!
●(小説のエントランス)この作品を、亡き父・母及び家族と、心ある人々へ捧げます。)
鴨川嘆きのジンタ! 真っ赤に咲けよ!オゴニカの花!
(懐メロと童謡にささえられて!)
京都四条大橋のほとり、出雲の阿国の碑の前で、懐メロ・童謡の路上ライブをしているしがない男。この男、ピエロの面をかぶり、悲しげに、憂いをこめて、なおかつ奇妙なことに、楽しげに歌っている。三月三日だったので、「嬉しいひな祭り」を歌っている。また京都なので、菊地章子の懐メロ「春の舞妓」も歌っている。確かに、好奇心旺盛な御仁にはちがいない。
この初老の男・私・橘兼人がこの小説の主人公の一人である。物語の主人公にこのようなロートルかと、訝る人の気持ちも理解できるが、このような稀有なことが、高齢化が進んでいる現代社会では、充分ありうることだ。
通行人はこのライブにほとんど、無関心で、ただ外国の観光客が物珍しそうに、立ち止まり、古都・京都見物のついでに、たいして面白くもないけど、ちょっと、珍しい光景で、自国では、聴いたこともないエキゾチックな歌だから、チョットした記念にとカメラをむける。その中に、オッチョコチョイの明るいアメリカの若者が日本人の彼女を伴って、しばらく、聞いてくれた。彼女はメガネをかけた真面目そうな人だった。カセットテープが2個売れた。とりあえず、「日本の唄、すばらしい」とたどたどしい日本語で、彼女と一緒に拍手してくれた。嬉しかった。家に持ち帰って、そのテープをしっかり、聴いてくれたら、尚、嬉しいのだが。
その日の売上は1,000円だ。楽しくもあり、虚しいパフォーマンスで終わった。私の狙いはこのテープが一つでも多く売れることである。私はド素人にもかかわらず、厚かましくも、プロ並みに有料で販売しているのである。生活費を稼ぐためだ。僅かな年金では、最低生活もままならない。そこで、多少の小遣いを捻出するため、この哀れ、かつ奇妙奇天烈なパフォーマンスを演じることとなったのだ。ピエロの面は恥ずかしさやら度胸のなさをカバーすることと、多少は通行人の気をひくためだ。通行人は、遠巻きにクスクス笑って通る。 なかでも、ショックだったのは、いかにも上品そうな地元京都育ちの人らしき五十代半ばのご婦人が薄笑いを浮かべて、立ち去って行ったことだ。京都の人であれば、私の唄に多少は興味を持ってくれるのではと思った誤算の結果だ。また、20歳ぐらいのヤンキー風の光の三原色のように髪の毛を染めた男の子が三人・私の真ん前に現れ、「この爺さん面白い。何やってるんや!」と言いながら、私の唄に合わせて、ふざけた合唱をはじめた。
「お前ら!いいかげんにして、あっちへ行きな!」と追い散らす始末。それも、恐る恐る。いかにも、みすぼらしい文化アパートの我が家に帰ってくるなり、疲れとみじめさがドット全身をおそう。ドン底生活を実感する瞬間だ。
私の母方の叔父は神風特攻隊員として、敵艦を目指して、鹿児島の知覧飛行場を飛び立ったが、屋久島近くの海上に故意に不時着した。戦後2年経って、ひそかに、九州の故郷へ帰還した。
当時、叔父の選択を非難する者は誰もいなかった。むしろ、家族も村のひとたちも、皆抱き合って喜んだ。とりわけ叔父の母の喜びように村の人たちも涙したとのこと。父も母も(私の祖父母)も叔父の死を確信して、墓までたてていたのだ。
帰還するまでの2年間、叔父は何処かで、悩み、苦しみ彷徨った果てに、否、悩まずにしっかりと帰還の計画を立てていたのかもしれないが、そんなことはどうでもよいことで、兎にも角にも、父母の待つ故郷の我が家に無事、帰ってきたのだ。
叔父は生前、この2年間のことを誰にも話すことはなかった。また叔父に聞く者もいなかった。叔父は不器用な人だったので、妻や子供たちにも話すことはなかった。その代わり、帰還後しばらくは、酒を浴びデカダンに生きた。「デカダンにも主張があり、後悔はない」と、自分に言い聞かせて、終戦のドサクサを紛らすしかなかったのだ。
当時、私はまだ子供だったので、後にこの話を母から聞き、叔父は冷静で勇敢な行動をとれた人であり、人生をおもいっきり生き抜く資質のある人だと思った。さらに、当時、流布していた右に左にブレまくった浅はかな輩をしり目に、自分なりの戦後の生き方を真剣に模索していたのだろう。
それで、平凡で、幸せな人生をいきたのだ。そのいかにも実直な風貌のなかに、穏やかな表情をみて、私は叔父の人生は後悔のない充実したものだったのだと確信した。叔父は数年前、他界した。私はそういう叔父をひそかに、慕いつつ、自分の塒を探し求めている。
オゴニカの花は、中国・黒龍江省とロシアとの国境沿いに咲くという逞しくも、可憐な花である。真っ赤に咲く花である。冬の厳しい寒さに耐えて、暖かい春をつげる花である。私にはなんともいえない、郷愁をそそる花として、記憶に強烈に刻まれている。不思議といえば不思議。私はこの花をただの一度もみたことがない。ただ、岡晴夫のデビュー曲で昭和14年(国境の春)に歌われた歌詞の中に「咲けよ!オゴニカ 真っ赤に咲けよ! 燃ゆる血潮のこの胸に 明日の希望の花よ咲け」と歌われている。この頃、他にも、オゴニカを歌った唄が数曲あった。
情熱的で郷愁をそそる歌だ。戦前のソ満の国境地帯で歌われた唄で、春をまつ身に、吹雪が吹き荒れる大陸の風景が、その荒野に咲く真っ赤なオゴニカの花が、恰も、そこに、居合わせたように、眼前にくっきりと、映し出されるのだ。
別れた妻の百恵を思い出すとき、このオゴニカの花も一緒になって、百恵の姿の背後にいつも見えるのだ。また、「アリラン峠を超え行く」や「片割れ月―管原都々子」等の朝鮮系の唄を聞いていると、如何してか、心を和ませてくれる。情感あふれるこの感情が身体の芯まで浸透していくようだ。日本人と朝鮮の人々とはやはり、古来より、何処かで、血が繋がっているのだろうか?
また、百恵と一緒に、昭和16年に、河原喜久恵が歌った「月の浜辺」を阿佐ヶ谷のカラオケ喫茶で歌ったものだ。私は子供のころ、九州で育ったせいか、逆に北国を慕う気持ちが強い。百恵の先祖は北の地・山形の庄内藩(現在の酒田市・鶴岡市)の士族の出で、世が明治に変わって、廃藩置県・秩禄処分・廃刀令等の明治新政府の政策により、落ちぶれた士族の末裔だ。
時代と折り合いを付けられず、要領の悪い真面目な人達だった。明治20年ごろ、山形から、東京の下町へ移り住んだ。私は中央沿線の阿佐ヶ谷で、百恵と2年間の同棲生活を経て、結婚した。
因みに、庄内藩は幕末に敵対していた薩摩藩の西郷さんに、明治になって、助けられた。西郷さんは、庄内藩では、尊敬されていたという。歴史に興味のある方は、西郷さんと庄内藩の関係について、関連の本は多数。一読ください。西郷さんが龍馬と同様、横暴な国家権力関係者(K)の中で例外中の例外だったということだ。龍馬と同郷の土佐の岩崎弥太郎(T特権階級)と比べられよ!自ずと、歴史が物語っている。
私は学生時代、その当時の学生の大半がそうであったように、学園闘争を経験した。マルクスの資本論など、話題にしても、ほとんど数ページで放り投げ、大勢の中で、烏合の衆の一人として闘争に参加した。
学園闘争に参加しない者は、ノンポリとして、馬鹿にされた。ノンポリとはNON-POLITICALの略称で、政治問題や学生運動に全く関心を示さない人達のことである。ましてや、右寄りの人達はさらにレベルの低い人たちとして、左よりの人達から扱われた。概して、体育系の学生で、当局側(大学側)を守る人たちだった。当然、左よりの学生からは、嫌われた。
これ等右寄りの学生達の中には、政権側から金を貰って、学生からぬ生活を送っている輩もいた。本人たちは、いっぱしの、政治家気取りでいた。その結果、予想に違わず、現在、政権側の中枢にいる者もいる。一部は総会屋になった者もいた。
大学卒業後、サラリーマンになることをやめ、適当なアルバイトをみつけて、自分なりに自由な生活を送っていた。2年間位、司法試験の勉強もしていたが、自分には合わないと思い、あっさりと、諦めた。というより、世間体を気にして、受験勉強をしている振りをしていたのだ。
マルクスとは関係なく、「革命と搾取」という言葉からできるだけ遠いところで、我が道を進むことにした。マルクス等あまり、勉強しなかったが、本能的に感じるものがあったので、資本主義の歯車に乗っかっては、これ大変と世に背を向けて生きることにした。惨めな労働者には死んでもなりたくなかった。
しばらくして、知人の経営する喫茶店が当の本人の病気のため、閉店することになった。そこで私に経営の依頼があったので、喜んで引き受けることにした。天からの贈り物だった。高田馬場界隈だった。そこは、偶然に転がり込んできた所ではあったが、私にとっては、小さな清流から流れ込んだ夢のような恰好の桃源郷だった。大学街で学生や大学の教職員が常連客だった。
私は無気力な人生を送っていた。このような人間にとって、生活する手段として喫茶店経営はうってつけの商売だった。客との会話にも気をつかうこともなく、無精者の私にとって、願ってもない商売だった。開店して30年間は、家族を充分に養うぐらいには、繁昌していた。更に、週に一回、大学で法律の講義をしていた。私は大学は法学部卒で、法律系の資格受験講座を持つ私立大学で、ちょっとした小遣い稼ぎ程度で、講義をしていた。
この大学の学生達は、4年間、ほとんど、勉強することなく難なく卒業していた。例の司法改革で、法科大学院まで、設置していたが、開校以来、合格者は一人もいなっかた。当然、定員も満たしていず、学生の大半は中国の留学生で、それも名ばかりで、実際は、禁じられている就労目的で、滞在している人たちなのだ。
本来の大学の機能を果たしていない大学だった。日本の大学の大半はこのような私立大学で、文科省の天下り官僚が、高給取りの事務長として、迎えられ、できるだけ多くの助成金を文科省から、ひっぱりだしていた。
また、このような大学の経営者(理事長)は世襲制で、大学本来の教育理念など二の次で、自分達の懐具合だけを大事にしているだけだ。企業経営の感覚で教育理念が置去りにされている。温室育ちの一種の貴族社会を形成していた。実状は税金の無駄使いを堂堂とやっているということだ。勿論、この世界でも例外ありで、真面目な教育関係者もいる。
司法改革といえば、このことで、司法試験の合格者が以前の4倍ぐらい多くの合格者をだすようになり、弁護士でめしを充分食えない者もでて、カップ麺を食べて、糊口を凌いでいると聞く。現にNHKでこの現実をドキュメンタリー番組で放映されていた。
また、名門大学の校門の近くに、堂々と司法試験の大手予備校が教室を開校している。聞くところによると、司法試験の合格者は実質的に、これらの予備校へ通った人々で占められているという。嘆かわしいことだ。結果、今の実務法曹三者(裁判官・検察官・弁護士)の殆どは、大手司法試験受験予備校の出身か?大学の存在意義が問われる。司法改革はどこへいった?
とはいえ、これら大手予備校の教材は大学の学者によって、書かれた専門書をパクッテいるだけで、受験生が苦労せずに読めるように、作られたものだ。まあ、パクるということも、受験生が理解しやすいように、努力したということか?
法律専門の書籍は難解な表現が多々ある。専門家の先生方にお願い。予備校にパクられないように、もっと、解かりやすく、書いて下さい。勿論、一般大衆にも分かるようにお願いします。
百恵と摩子との家族生活は幸せそのものだった。この界隈も例にもれず、大型のファミレスの進出により、いまから7年前、喫茶店は閉店においこまれた。画一化したクールなビジネスとその思想に敗北したのだ。そして、破産だ。百恵とはこの破産騒動と私の浮気が原因で離婚することになった。
百恵には十分未練があったが、百恵の親類縁者の勧めと私自身にも自責の念があり、やむなく、離婚することにした。百恵は私の両親に心から尽くしてくれた。何一つ不平を言うことなく。両親が生きていたら、離婚話しただけで、猛反対されたことは明白だ。
百恵も私との過去はともかく、私との婚姻関係を維持したかった。いずれ、私が経済力を回復したら、百恵との復縁をきっと、果たそうと決意して。ところが、7年前の11月末日、夜半、そとは寒風が吹き荒れていた。
私が帰宅してみると、私の家財道具のみを残して、百恵と摩子が突然、姿を消してしまったのだ。もぬけの殻だ。茫然と家財道具のない部屋の真ん中で、立ちすくんでいると、今まで経験したことのない悲しみと孤独感が、どっと、こみあげてきた。
大声で「お前たち!勝手にどこへ行ってしまったのだ!」と、年甲斐もなく、子供のように、隣近所のこともかんがえずに、号泣したのだ。母が亡くなって以来、男泣きに泣いた。予期してはいたものの、離婚とはこういうことかと、実感させられることになった。
予想以上に、独り身の侘びしさ、寂しさがズシンと、心の芯までしみた。百恵も、言葉を交わして、別れるよりも、まだ、このほうが、別れやすい選択だったのかと私なりに勝手に納得して、こらえた。移転先はおそらく、向島の実家であろうと、見当は、ついていたが、百恵の家族のいる実家までは尋ねる勇気がなかった。
ジリ貧生活を強いられている私が、実家を訪ねても、かえって百恵と摩子に迷惑をかけることになる。後ろめたい気持ちが優先した。破産に追いやられたことで、鬱の気持ちが、数カ月続いた。当初はこの精神状態にどこまで、耐えられるかと思うと、お先真っ暗になり、自暴自棄になっていた。
世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり…万葉集 大伴旅人
(世のなかはむなしいものだと知る時こそ、いよいよますます悲しいのだった。)
しばらくして、京都に在住の学生時代の旧友から誘いがあり、気晴らしに京都へ移り住むことにした。
アパートを借りるのに一苦労した。私の収入(年金)では、不動産屋ばかりか家主自身さえ、申込の受付さえ、してくれないのだ。その不動産会社の規模が大きければ大きい程横柄だった。知人を通じて、ようやく、借りられたが。ここでも、格差社会の歪を実感させられた。破産以前は、比較的高級なマンションに住んでいたので、この落差に愕然とすることになる。
堀川通りの古いアパートで、みすぼらしい6畳一間の部屋があった。その代わり家賃は格安だった。6年前の2月の末だった。京都の冬の寒さは格別だった。百恵と摩子のいる東京を去り難く、後ろ髪を引かれる思いで転居したので、寂しさもましていた。
玉衣の さいさいしずみ 家の妹に 物言わず来にて 思いかねつも(万葉集 東歌)
(美しい衣のさいさいしずみ、家の妻にろくにものも言わずに出てきてしまい、恋しさに耐えかねている。)
私は京都の街に慣れたころ、四条大橋に近い、南座の北側・縄手通り界隈にあるカラオケ喫茶へ通っていた。ママさん1人で、低料金の店だった。それは、「カラオケ喫茶八金」という名の店だった。ママさんは土佐出身でいかにも南の国の女らしく男まさりで元気な明るい人だった。
八金とは、土佐で、向こう見ずで勝気な女を言うそうだ。名前をカンナといった。土佐弁丸出しでお客にはその方が、好感をもたれた。格別、美人という程ではないけれど、身体つきも、ぽってりとして、愛嬌のある小顔で、お客に人気があった。特に男性客には、ことのほかもてた。女性客は流石、京都の「はんなり」という京ことばが、ピッタリの常連は何人かいたが、カンナはこの京ことばからは、ほど遠い性格だった。
最も、最近の京都の人はこの「はんなり」という言葉を使わない。過去の言葉になってしまった感がある。しかし、私はこの言葉が大好きなので、使わせてもらう。
京都・関西以外の人達のために、「はんなり」の意味を講釈すると、「落ち着いて、上品で、明るいさま、味覚・聴覚・味覚」にもいうそうだ。
彼女は歌手で、歌唱力は抜群だった。はんなりとした京都のご婦人や、歌好きの男性達に人気があった。大正・昭和初期・戦中・戦後二十年代までの懐メロをよく歌った。20代の頃は、ダンサーを目指して、上京していたが、その夢を諦めて、京都に住むことになったとのこと。
歳は、四十代半ば。懐メロ世代ではないが、お客の要請で懐メロを歌ううちに、歌に磨きをかけていった。私といえば、この男こそ、母親世代の懐メロ以外、他のジャンルの歌に全く興味がなく、所謂、懐メロバカだった。
カンナは菅原都々子の「片割れ月」や松島詩子の「夕べ仄かに」などを、私は別れた百恵を偲んで、懐メロの「月の浜辺」・「啼くな小鳩よ」やディックミネの「黒い瞳」をよく歌った。このカラオケ業界では、新作と称して、歌いやすいだけが、取り柄の、つまらない唄が歌われていた。
甘たるい気の抜けた、なんの取り柄もない演歌が主流だった。音楽業界の狙い通り、この手のCDがよく売れた。カンナはお客の要望があれば、これ等の唄を歌ったが、本音は戦前の懐メロや戦後間もない頃、始まったラジオ歌謡に興味があった。そして、実際にこのようなジャンルの歌謡教室も設けて、お客さんに歌唱指導もしていた。教え方も優しく、丁寧で、キレのある指導が生徒に好評だった。
カンナは先を素早く見通す感にたけ、そのことでかえって、早合点して、結果、失敗すること、しばしばであった。店の料金を値下げして、集客を図ろうとし、多数の客を見込むのはよいが、「店内がこんじゅうて、後片付けもしんどい」「女の子も何人か、やとうか」と、いったぐあい。女の子の給料など払える状況でもないのに。未だ実現もしないことを、妄想する癖があった。当の本人は結構、大真面目で、傍から見ていると、滑稽極まりないことで、ちょっとした愛嬌と私は傍観していた。
妄想といえば、彼女は将来、当然メジャーになり、NHKの紅白歌合戦のステージで歌っている自分を信じていた。妄想と言えば、妄想だが。私もまた、彼女のその姿を想像して、NHKのホールで応援している自分を妄想していた。できれば、カンナとデユエットで戦前の懐メロの「沓掛小唄」や「お島千太郎恋歌」などステージで歌えたらと、妄想をふくらましていった。私自身も岡晴夫の「国境の春」や松井須磨子の「さすらいの唄」等をステージで歌っている自分を妄想していた。妄想合戦も良いところだ。とはいえ、妄想することも、精神衛生上、良いことだ。ほんの一瞬、人生を楽しくしてくれるものだ。
また、カンナに惚れ込んで、毎日のように、彼女の店に通ってくる常連もいた。ただ、カンナはそういう客と親しくなればなるほど、自己主張をし、土佐弁でまくし立てていた。
カンナは貧しい家に育ったので、TMKにヨイショする客には、常連でも、商売を忘れて、本音で、こっぴどく、やっつけてしまって、パッタリ来なくなったりした。当然と言えば当然だ。私はそういう客を7・8名は知っていた。これ等の客だけでも毎日来てくれれば、十分、店の採算はあったのに。
私はそのようなカンナに何時しか、魅かれるようになっていった。カンナも歳の差はあったが、私を父か、いや年の離れた兄のように慕っていた。しかし、一般にこの業界でメジャーな歌手になるためには、歌唱力に加え、多額な資金を要した。
私は精神面でカンナの相談役になれても、資金面での力にはなれなかった。それで、お客さんの中にしかるべき人がいないものかと、物色しているようだったが、なかなか、意中の男性があらわれそうにない。そこで、私に相談があった。私は京都の四条河原町に中高年向けの婚活を専門にする会社を紹介した。以前に知人の男性から聞いていた情報だった。私は本心では、カンナに婚活して欲しくなかったが、いかんせん、私に彼女を支える資力はなく、複雑な気持ちで、紹介した。
数百人のリストのなかから、1人の男性が候補にあがった。京都の私立大学に勤務する大学教授だった。カンナより一回り年輩の紳士だった。名を三好格郎といった。三好は京都の名家に生まれ、資産もそこそこに有していた。
カンナは幼くして、父親と死別していたせいか、歳のはなれた男性に魅かれるタイプの女性だった。カンナは三好を好人物とみて、心にきめた。相手もカンナを気に入り、婚活は成功した。ただ、婚活は表向きで、三好は妻帯者だった。三好は相当な浮気者で、妻は家で、悶々とくらすうちに、精神を病み、精神病院に入院することになったのだ。なかなか、回復の兆しがみえず、三好自身も憂鬱な日々を送ることになった。
そこで、三好はこの悶々とした状況から、解放されるために、適当な女性を物色していた。カンナとは、愛人として、付き合ってくれればとのことだった。カンナは資金さえ援助してくれればと、わりきって交際することにした。その話をカンナから聞いた時、「おめでとう。良かったね」と祝福したものの、人気のない、みすぼらしい我が家に帰ったとたん、寂しさ・悲しさとわが身の不甲斐なさが心の芯まで沁みた。私は愛すべき者を奪われたような気持ちだった。
カンナは三好との交際後は、以前にもまして、店と自分の将来に不安が、払拭されたため、生き生きと、かつ、のびのびと振舞っていた。カンナが元気になればなるほど、私の気持ちは、沈んでいった。否、ますます、カンナに対する想いが膨らんでいくばかりだった。そして、以前にもまして、カンナの店に足繁く、かよった。勿論、私は、そのような、お金など、通常では、持ち合わせていないので、前述したように、当初は友人・知人から借金しながら、カンナの店に通っていた。そのうち、預金も底をつき、友人に当座の生活費を捻出するため、さらに借金をすることになった。
しばらくして、周囲の人々も私に愛想をつかし、収入のみちが絶たれたので、冒頭の四条河原の路上ライブとなったのだ。私は、当初は恥ずかしい思いと、勇気のなさで、実行を躊躇したが、カンナの店に行きたい一心で、自分の唄に対する自信もてつだって、わが身の歳など忘れて、ライブに挑んだ。カンナの店の常連仲間にも呼びかけて、「さくら」でも良いからライブの現場に来てくれるように、さそった。7・8人はきてくれた。
それでも、結果は惨憺たるものだった。ほとんど、無視されっぱなしのライブとなった。当然といえば当然だが、初老のなんの取り柄もない男が、いまどき、ほとんど、歌われない童謡・懐メロ等いかにも地味なこの唄には、ほとんど、目もくれなかった。それは、当初から多少想像していたので、ピエロに扮装して気を引こうと、試みたのだが、やはり、結果は無残に終わった。老醜丸出しで恥をさらけ出すばかりだった。その内、常連仲間の誰も来なくなり、路上ライブは自然消滅した。
やがて、私はカンナの店に通うために、カンナの店で知り合った年上の資産家の老女・
菊と付き合うことにした。既に夫に先立たれ、気ままにくらしていた。老女との接点は懐メロだけだった。それも心のない、決して上手いとはいえないレベルの唄で、金持ち特有の傲慢な性格が歌い方に表れていた。私は彼女の横柄な性格に耐え、自分にたいする気前よさを優先させた。
二人は何時も、一緒だった。カンナの店に入る前に祇園商店街の辺りで、夕食をすませた。菊さんは飲食する直前に飲食代金を、私のズボンのポケットに押し込んでいた。そして、その中から、二人分の飲食代を払っていた。男としてのプライドを傷つけない心遣いだった。やはり、菊さんに感謝しなければと思った。カンナの店で楽しんだあとは、二人で喫茶店に入り、帰り際に、彼女の手をしっかりと握り、軽く、抱擁して、別れた。これらの飲食代は、全て、菊さんが払った。また、何がしかのお小遣いも貰った。
二人の間はこの程度で、お互いに満足していた。特に菊さんには家族があったので、深入りはしなかった。私もそれを、切に切に、かつ密かに、ねがった。私としては、菊さんを年上の姉のように、慕った。先だって、菊さんと同じぐらいの歳の姉を亡くしていたので、彼女は姉のような存在だった。ただ、ときどき、菊さんは、大胆にも、一線を越える誘いを提案することもあったが、私は用事に託けて、うまく、逃げていた。6畳1間のおんぼろアパートに帰宅しても、しばらくは部屋の中央に大の字になって身体を休めた。
天井の一点を見つめていると、天井板の木目がトンマな豚の顔に見えた。何処かで、出逢った顔だと思いつつ、一瞬、さっき別れたばかりの菊さんの顔に相違ないと確信すると同時に、思わず苦笑いしたものだ。しばらくして、私が小学校一年生の時に学芸会で独唱した歌を口ずさんでいた。「父さま母さまいつ帰る。春夏秋冬なったけど、私の父さま何時帰る」と恰も、私が60年前に、タイムスリップして、歌っていた。たぶん、戦争孤児の唄ではなかったのかと思う。定かでない。すると、百恵と摩子のことが脳裏をよぎった。
うつらうつらしていると、怪しげな色香を漂わせている女がちゃぶ台の前に、俯いて、じっと正座していた。紛れもなく百恵だ。私が「しばらくだね!元気だった。今、どうしている?」「再婚しよう」というと、「あなたとは再婚する気は全くありません。」ときっぱりと、正面を向いて、かつ、怒りをむき出しに、拒否されてしまった。
私が「お前さんはもういい人がいるのか」と尋ねると、また、俯いて、押し黙ってしまった。しばらくすると、私を憐れむような、寂しい表情になった。私はそんなはずはないと、もがいているところで、夢から目が覚めた。外は白々として、路地の電柱でスズメが、チュンチュン鳴いていた。夜が明けるところだった。しばらくして、ようやく、深い眠りについた。




