父が村長選挙で落選。その後の我が家
父が村長選挙で落選。その後の我が家
父が校長していた頃の地方からすれば、何と、時代から取り残された、大袈裟にいえば、文明社会からも見放された島だった。映画を見るように私に勧めた父の真意が、今になって、分かるようになった。私達子供はまだ小さく、しかも、選挙に要した費用は借金として残った。生活が大変だったのだ。母まで教員に復職して、私達7人の子供を育てなければならなかったのだ。しかも小学6年生の私と中学生の姉、高校生の姉、洋裁学校へ通っていた長女の姉・4人は県庁所在地の街で、生活することになった。妹2名と弟と3人は両親と5人でその島で生活することになったのだ。一番、子供たちに生活費や教育費が掛る時に。父は選挙に落ち、その借金の返済だけでも、大変だったのだ。実際、その島に夏・冬の休みに帰省していたので、生活の様子は体験していたのだが、私は帰省するたびに、父達は、どえらい僻地に来たものだと思っていた。借金は10年がかりで、完済した。その間に私の大学に必要な授業料や生活費の一部を仕送りしてもらった。残りの生活費はアルバイトで補った。
とはいえ、家族で海へ釣りにいったり、貝を採ったりして、結構、楽しいこともあった。父も暇があれば、釣りを楽しんでいたようだ。ただ、それしか楽しみのない島だったこともあるが。
また、この島の人々は、以前父が校長をしていた地域からすれば、はるかに、素朴で穢れのない人達だった。子供から大人まで、粗末な衣服を纏っていた。その貧しさはそれまでに、私が体験したどの地域よりも、貧しい所だった。当然、現在は様変わりしていると思う。離島振興法という法律もできているのだから。時間と金があったら、是非、訪れてみたい。だが、現状では、無理というものだ。
父と母が、竹島に赴任した当時は、末の妹はまだ5歳で、小学校に入学する前の年齢だった。母は小学校の教師で彼女の面倒を見る時間がなかった。母から後で聞いた話だが、(私は県庁所在地の学校に通っていため、離れ離れの生活をしていたので、母たちの島での生活の様子を見ていないのだ。)妹は一人で、校庭で遊んでいたとのこと。寂しくなると、母が授業している教室の廊下でその様子を見ていたそうだ。母も辛い思いをしたのだろう。 多分、その廊下と教室を隔てていた壁は妹の背丈ぐらいはあったのではないだろうか。背伸びして、母をじっと、見つめていたのではないだろうか。母も授業しながら、廊下で母を見つめている幼い妹を気にしながら、授業をしていたのだろう。
黒島では、母と父は別々の学校で勤務するようになった。妹は母と一緒だった。父も母たちも、6畳一間のみすぼらしい教員住宅にいた。多分、民家を借りていたのだろう。以前の校長住宅からすれば、雲泥の差だった。
我が家が一番幸せだったとき(昭和26年・私は小学4年生)
私が小学校四年生の時に住んでいた校長住宅は七部屋ぐらいあった。父はこの地域で中心街の中学校長をしていた。父も家族全員で住んでいた。この校長住宅は元病院の院長された方が住んでいた所で、立派な邸宅だった。周囲の人々はこの邸宅を「御殿」とよんでいた。広い庭と池があった。庭木も手入れが行き届いていた。暖かい春の陽光を浴びて、紅紫色のモクレンの花が咲いていた。いい香りが家の中まで漂ってきた。今でも、鮮明に覚えている。
幸せそのものだった。多分、その頃は父も前述の愛人とは、別れていたのだろう。母も、あの密林での農作業から解放され、六年振りに、父と家族全員が一緒に暮らせたので、幸せそうだった。若くて(40歳)、美しい母だった。生き生きとしていた母の姿が思い出される。母は上品な和服に白いエプロン姿で忙しそうに、家事に精出していた。そして、姉たちも母を手伝っていた。
和やかな家庭だった。本当に私達齊藤家(私の本名)の歴史の中で、一番幸せな時だった。ただ、父と私達が小学校時代に一緒に暮らせたのは、この一年だけだった。前述したように、次の年に村長選挙に出るため、家族全員、郷里へ帰ることになったのだ。そして、村長選挙に落選。これが、齊藤家の不幸のはじまりだった。僅か一年という束の間の幸せから、一転して、暗い、辛い生活へ転落してしまったのだ。
話は逸れまくったが、黒島での父は現在の私と同様、一人暮らしだった。因みに、現在、私も6畳一間だ。父は随分、寂しい思いをしたのだろう。
私の妹夫婦のこと
妹は私と同じ大学の文学部を卒業し、同大学の職員となった。そして職場結婚した。退職後は、私の代わりに、郷里に帰り、夫と二人で実家を守ってくれている。老人ホームにいる弟の面倒も見てくれている。父や母たち・先祖の墓も守ってくれている。感謝しなければ。妹よ!ありがとう。残念ながら、2011年5月に最愛の夫を病気で亡くした。本当に仲の良い夫婦だった。誰からも、好かれる人だった。カメラが趣味だった。ご冥福を祈ります。仲の良い二人だったから、将来、黄泉の国でも、きっと一緒に寄り添って、過ごすのだろう。
因みに、この妹は文才にたけているので、何か素晴らしい作品を残しているに違いない。夫が健在だった頃に、郷土の役場の嘱託で、郷土史の編纂に夫婦で携わったとのこと。
私の弟のこと
今から半世紀まえの話だ。私より3歳年下の弟は、時々夏休み期間中、逆に、私が生活していた市街地に黒島から私に会いに独りで、来ていた。私が高校一年生で、弟が中学校一年生だった時の夏休みだった。
今でも忘れられないのは、夏休みの最後の日、つまり、8月31日に弟が島にかえるため、港まで送ろうとタクシーを手配したけれど、弟は頑として、車に乗ろうとしないのだ。船の出航時間は迫っている。弟を港までいって、乗船させないと、二学期の登校に間に合わない。焦りから、弟を無理矢理に車に押し込んで、港まで連れていった。
いつもは、遠く離れて生活していたので、久しぶりの夏休みを一日でも多く、兄である私と一緒に過ごしたかったのだ。弟は私と別れるのが辛かったのだ。大泣きに泣いて、乗船した。1日や2日遅れても良かったのだ。父や母も多分、許してくれたはずだったのだ。融通の利かなかった自分を悔いている。兄思いの弟だ。おとなしくて、口数の少ない子供だった。
高校を卒業した頃から、精神病に苦しめられ、ほとんど、精神病院での入院生活を余儀なくされた。現在は認知症もあり、実家に近い老人ホームにいる。入院中に、弟は、俳句や油絵を趣味にして、心のよりどころにしていた。印象深かったのは、油絵で、夕暮れ時、はるか海のかなたに夕日が沈んでいく風景だった。幻想的で、不思議な絵だった。今、実家に飾られている。
不幸な人生を送っている弟に何かしたいと思っても、現状では何もできない。母も死に際まで、弟のことを、一番気にしていた。母の死後、弟は精神病院で母の事ばかり、涙を流しながら、話していたそうだ。そのことを、病院へ見舞いに行く度に担当の医師に聞かされた。御免なさい弟よ!前述の妹がこの3歳年上の弟の世話をしている。妹よ!ありがとう!
私の双子の妹のこと
また、私は双子で、その人を妹と呼ぶべきか、姉と呼ぶべきか結構、子供の頃、悩んだものだ。一説には、先に、生まれたものが妹とのことだ。この理屈が今でも、良く分からない。まあ、大したことでもないと理解していたので、妹ということにする。彼女は我が家で、一番逞しい存在だと思っている。というのは、私は4番目に生まれて、長男として、甘ちゃんになった。その陰に隠れて、彼女は逞しく育ったように思う。
そのことについて、この年になるまで、彼女に聞いたことがない。私が思う程、あまり気にしていないのか。彼女は現在、三重県に住んでいる。夫は大手の企業を定年退職した。息子(私の甥)は私と同じ大学の文学部・つまり私の末の妹と同じ大学、おなじ学部を卒業して、東京で就職している。彼女の末の女の子(私の姪)は三重県の大学の建築家を卒業して一級建築士になって、同じ一級建築士の男性と結婚し一級建築士事務所を二人で、経営している。
私のすぐ上の姉のこと
私のすぐ上の姉は、名古屋市の短大を卒業して、大手の企業に就職していたが、精神病になり、弟と同じように、病院生活が長い。学生時代は熱心なクリスチャンだった。何か、私達家族の知らないところで、姉に耐え難いことが、あったのだろうか?この二人の姉弟のことで、私の家はそういう血筋なのかと悩んだこともあったが、専門医の意見では、そのようなことはないとのこと。環境によるとのことだった。今は、それを信じている。
私は生涯で、父とは7年、母とは12年だけ同居
私が大学進学のため、上京するまで、つまり18歳までに、父とは7年だけしか同居していない。母とは、12年間、同居した。しかも2歳ごろまでは、記憶の世界ではないので、実質、父とは5年、母とは10年ということになる。それでも、谷あり、山ありの生活だったが、父母との生活は幸せな充実した人生だった。
黄泉の国へ逝ってしまった父・母・姉に涙がでるほど感謝
父よ!母よ!そして姉よ!ありがとうございました。黄泉の国へ逝ってしまった父・母そして姉に涙がでるほど、感謝しています。
姉が亡くなって、しばらくして、不思議な夢をみた。空気の澄み切った秋だった。遠くの地平線が見える砂浜に父を真ん中にして、母父姉が並んで、今昇ろうとしている陽光を浴びて、水平線を静かに、黙って見ていた。実に幸せそうな様子で、朝日の輝きが神々(こうごう)しく、3人を照らしていた。たぶん、私はその後ろにいて、黙して、語らず、やはり、静かに、三人を見ていた。私も安らいでいた。至福の時よ!しばし、止まってくれと、祈りたい気がしたが、直ぐに、目が覚めた。余韻が残って、何度も何度も、その光景を思い浮かべていた。懐かしくもあり、寂しくもあった。久しぶりに、眠れない夜になった。夢は目が覚めると、殆ど、その直後に忘れてしまうものだが、この夢はいつまでも鮮明に私の記憶に刻まれている。
再び有吉佐和子さんのこと
有吉佐和子さんの話に戻そう。名古屋市から10年して、父と母が父の実家に、移り住んでいる時に、有吉佐和子さんが父を訪ねてきた。1960年代末頃だったのではと思う。定かでないない。女史は島巡りが好きで、雑誌にも連載していたようで、そのついでに、私の実家を訪ねたのか。
女史も父も酒豪で、二人して、縁側に座って、一升瓶を飲み乾したそうだ。父は年老いていたので、ほとんど、女史が飲み乾したのだろうと思う。女史と父がどんな話をしたのか、聞いていない。聞いておけば、よかったと、悔やまれるが、父と同女史の年の差は28歳で、丁度、私の一番上の姉と同じ年で、親子ほどだったので、普通の会話で弾んだのだろう。
また、父が経験しことなど、今更その時代の話しをしても、どれほど、女史が興味を示してくれるか、父の方でも、躊躇して、話さなかったのか。ただ、林芙美子の「浮き雲」は父や屋久島の人達はよく知っていたので、その話で盛り上がったのかも知れない。
また、女史が屋久島へいって、初めてシドッチの事を知ったと、女史の本にしるされている。父は宮崎での友人のイタリア宣教師と協力して、町役場に働きかけて、シドッチの顕彰碑を建てた当事者だったので、父から見聞したものだったのだろう。同女史の本には、そのような記述はないが。
イタリア人宣教師・シドッチについては、日本史の教科書にも出てくるので、ここでは省く。ただ、江戸中期に屋久島に上陸し、捕らえられ、江戸へ送られた。新井白石に「西洋紀聞」「采覧異言」を書かせた人だ。江戸へ行って5年後に病死した。
因みに、林芙美子の「浮雲」に出てくる、主人公の男女が濃密な不倫生活を送り、最愛の女性が亡くなった所が屋久島だった。同女史は、たぶん、そのことにも興味があって、同島を訪ねたのだろうか。
林芙美子さんと有吉佐和子さんの共通点
林芙美子は父と同世代の人で、同女史とは親子ほどの年の差があるが、この二人の作家はどこか似ているようだ。二人とも、酒豪で、女傑というべきか。二人とも社会派の作家だった。死亡年齢も二人は、50歳前後だ。
同女史はその頃、日本の島々に興味があり、離島からの視点で、連載物を書いていたそうだ。その一環でもあったのか。
女史は、因習にとらわれた女性や現代の社会問題を描き話題になった。作品に「紀の川」、「恍惚の人」、「複合汚染」などがある。1984年に53才で亡くなられた。今年(2014年)でちょうど歿後30年になるのだ。林芙美子同様、同女史も歴史に刻まれる女流作家となった。
因みに、同女史が訪れた私の実家は、明治18年(1883年)に私の曽祖父によって、建てられた。屋久杉とタブの木で造られている。今風に言えば、典型的な古民家ということになる。大学の建築専門の先生によれば、あと100年は住めるとのこと。
父の友人・イタリア人宣教師のこと
前述のイタリアの宣教師の方はその後、シドッチの上陸地ということもあって、屋久島へ移住し、当地に教会を建てて、布教活動に勤めた。父の死後は妹夫婦との親交が厚かった。数年して、惜しくも病死した。人懐っこい少年のような方だった。カソリックの神父さんだったので、独身だった。何歳だったのか、覚えていないが、多分六十代後半だったのか。イタリアから、お姉さんが遺骨を受け取りに来られた。このお姉さんもよくできた方だった。私の長女は、三才か四歳の頃、家族で、帰省した折に、この宣教師の方に可愛がって頂いた。よき思い出の一つだった。
1877年の西南戦争から17年後の1894年の日清戦争から1945年の太平洋戦争までの
50年間、何と波乱に富んだ怒濤の時代だったことか!
それにしても、ロシア革命、セミヨノフ将軍、黒木大将、監督の父・黒木寅男さん・黒木和男監督・林芙美子女史・有吉佐和子女史・私の父・母、シベリア・満豪から・宮崎県えびの市飯野村・父母の九州の農漁村・竹島・黒島と、歴史を振り返ると、20世紀は、長閑な現在の日本からは、想像を絶する時代だったのだ。西郷さん達の国内最大で最後の内戦・西南戦争(1877年)から17年後の1894年の日清戦争から日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・日中戦争・1945年の太平洋戦争終結まで、およそ50年間で。その間、1923年9月の関東大震災と、目まぐるしく、波乱に富んだ怒濤の時代だった。
千変万化の様相を呈した波乱万丈の世紀に、数奇な人生を翻弄した人々、翻弄された人々が走馬灯のごとく、去って逝った。そう遠くない日に、私も確実にあの世とやらのお世話になるのだ。
人の一生は果てしない宇宙空間からすれば、一点にもならない位、小さな存在だ
戦争などやっている暇はない。100年経てば、現在生存している人々全て土くれとなるのだ
人の一生は果てしない宇宙空間からみれば、一点にもならない位、小さな存在だが、皆、それぞれに、必死に生きて、土くれとなるのだ。そして終わりのない歴史が綴られていくのだ。一点にもならない瞬間しか生きられない我々人類に、戦争などやっている暇などないのだ。といっても、寿命が80歳90歳となり、その間、せいぜい、楽しく、のんびりと、生きたいものだ。TMKの皆さん!我々人類が経験した愚かな戦争は、ほとんど、あなた方の都合で引き起こされているのだ。そして、利益にも預からない多くの民衆がTMKさん!貴方たちの犠牲となり、無意味で、無残な死をとげるのだ。たまったもんじゃない。たまには、オッチョコチョイの能天気なTMKさんでない人達がTMKに誑かせされ、騙され、利用されて、意味のない戦争を引き起こすこともあったが。
TMK帝国主義を改革するには
このTMKの体質を大改革するには世界の取り敢えず日本の多くの人々の目から、巧みに見えにくくしているシステムと法律(実際は単純なのだが)を明確にして、明治維新をなしとげた私利私欲を捨てた大西郷や坂本龍馬達に影響された明治の人達のような多数の人材の輩出と民衆運動が必然的に自然の流れとして、不可欠の時代になってきた。ネット上での有効利用の到来だ。
また、前述したが、イスラム圏も含めた全世界の大学等の研究機関でもよいし、国連等で実践的な平和学ともいうべき、専門分野を大々的に設けるべきだ。世界の平和を本気になって、実現すべきだ。単なる学問にしてはならない。研究機関の研究者の単なる食い扶持のための機関であってはならない。そのために、TMKのみなさん。皆さんの財産をこの研究機関に寄付しなさい。貴方達のためにもなるのだから。
尚、ソ連はわずか74年間で崩壊し、マルクス主義は陳腐になったと、あっさり、忘れ去られた観があったが、資本主義社会の旗手であるはずの先進国・アメリカ・日本・EU等に社会的格差の問題やマネーゲーム等を許す社会システムへの疑問など、従来の資本主義社会的秩序に限界の兆しがみえてきた。
マルクス主義の評価
書店にいくと、マルクスを見直す書物もふえている。NHK第2放送でもマルクス主義を学ぶ講座があった。戦前だったら、特高に捕まるところだ。マルクス主義の良いところを見直す時が来ている。世の流れが少しずつ、変わりつつあるようだ。
ソ連の74年間、ある意味、社会主義国家として、実験的な国家だったが、なんといっても、スターリンによる恐怖政治と偽りの政治がマルクス主義を曲解せしめ、歴史に悍しい汚点を残した。そして、社会主義国家であるにも拘わらず、格差社会となり、労働者の労働意欲の欠如をきたし、貧しい国にしてしまったことだ。マルクス主義が悪かったのではなく、その適用を間違えたのだ。日本でもこの頃、大学において、マルクス主義を大いに利用した学者もいた。特に、国立大学や有名私立大学ではマルクス主義を利用して、大学教授になり、中には、学長や総長になった人達もいた。警戒すべきは旧ソ連のように、民主主義・自由主義を平気で犯してしまうような勢力の出現を許してはならないことだ。因みに、私は共産主義者ではない。そして、マルクス主義がどの程度正しいのか、私の能力では分からない。しかし、感性的に言うと(専門家の方に怒られそうだが、感性の段階から入っていくのがマルクス主義の入り口だ。)マルクスは偉大な研究者であり、革命家であったと思う。ユダヤ人ということも関係しているのだろうか?皆の英知を結集して、マルクス主義の良いところを学ぶべきか?
過去から学び、人類の未来を模索する
新自由主義経済を脱し、社会主義を乗り越えた新しい社会システムの構築?
前述したが、大事なことなので、何度も繰り返す。
新自由主義経済の弊害を除去した新しい形の資本主義や、過去のマルクス主義を悪用した社会主義社会を昇華した第三の社会制度がないものか。専門家の皆さん、研究してください。お願いします。そして、出来るだけ、解かりやすい表現で、書いて欲しい。難解な言葉では、一般大衆には、伝わりにくい。自己満足になってはいけないと思う。
人類に貢献したいという尊い心だけでなく、やはり、人間はニンジンをぶら下げておかないと、経営意欲も、労働意欲もわかないものなのか?それはそれでよい。それに見合った社会システムにすればよい。
ただし、何度も言う。TMKの皆さん、自分の正当な報酬以上の余分な収奪をしないことだ。従来のTMKのSY方式では、新しい社会制度は生まれない。大変革が必要なのだ。
国民大衆にもTMKの皆さんにもその覚悟がなければ、実現は出来ない。
ただし、肝要なことは、マルクス主義で、多くの人命が、革命や戦争で失われた過去があった。過去から、大いに、学ぶべきだ。そして、大事なことは前述したように、天皇の象徴性を最大限に尊重すべきである。荒木大将・黒木大将や父達が経験した軍国主義国家になってはならない。間違えても、再び、歴史に逆行するような状況にならないことだ。




