父と母の出会い
父と母の出会い
母の父(私の祖父)は、江戸時代その地域の名主の末裔で、母は裕福な家庭に育った。その祖父は郵便局長をしたり、専売事業でも、財を築いた。長男で、教育熱心だった。弟達を弁護士・医者・歯医者・薬剤師にしたことを、自慢にしていた。その当時、都会でもない、農漁村地域でこれほどの職業につかせたことは、確かに、祖父の富と努力の賜物だった。
母は高等女学校を卒業後、教師となった。そして、女学校を卒業後は東京の英文科のある女子大を目指していたが、何故か、尋常高等小学校の教師となり、父と教師仲間で結婚した。母は20歳で、父は26歳だった。後年、母が入院中に妻と私の姉妹に母が話したところによると父は、母を手籠めにして、結婚を迫ったとのこと。その結果、二人は結婚することになったのだ。女性とは、やはり、弱いものなのか?父の将来性を見込んで、結婚したのか?当事者ではないので、分からない。母を理想化しようとは、思わないが、正真正銘の大和なでしこだった。そして、美人だった。
私は、子供のころから、同級生や大人から、「お前のお母さんは美人だ」とよく言われた。その度に、嬉しくて、堪らなかった。母の葬儀でも、お坊さんが読経が終わると、最後に、「貴女のお母さんは本当に心優しい、美しい人だった」と言われた。母は生涯、自慢の母だった。ちょっと、言い過ぎかな!
その当時はあまり感じなかったが、最近、男性化した女性を見るにつけ、日増しに、そう思うようになってきた。
最近の男性化した女性たち
余談だが、最近、男性化した傲慢な女性が増えている。特に例のTMKの世界に。女性活用もよいが、もっと謙虚な女性はいないものか?薄汚さがめにつく。不潔極まりない。もっと、人間らしい女性を磨いて欲しい。権力に阿るとんでもない人達だ。母の世代の大和なでしこを尊敬する私としては、嘆かわしいかぎりだ。
女性の男性化と言えば、私ばかりでなく、多くの人達が経験していると思うが、道を譲っても、「ありがとうございます。」というお礼の言葉も言ってくれないどころか、油断していると、猛獣の如く、突進してくる者もいる。そして、ぶつかっても、「お前が悪いんだ」と言わんばかりに、さっさと、すました顔をして通り過ぎていく。先だって、このような女性に遭遇したので、「失礼じゃないか!謝りなさい。」というと、チョット振り向いて、「すみません」とも言わずに、さっさと、行ってしまった。おそるべし!女性群!老人のTMKや同調者にはヨイショするが、私のような老人には冷たくなっているようだ。これは、男性にも言えそうだ。世相か?老人のやっかみかな?
勿論、しっかりと、お礼をいって頂く女性もいる。この恐るべき女性たちはTMKや、その同調者の女性たちを見習っているのだろうか。電車の中でも、老人や妊婦等に席を譲る気持ち等なく、例のスマフォに興じているようだ。これは、男性にも言えることだ。
老人のいじわるではないが、電車に乗ったとき、ときどき、若い人が座っている前に、ワザと、突っ立てみると、やはり、席を譲らない人の確率が高い。しっかりと譲ってくれる紳士淑女の皆さんもいるが。いじわるして、御免なさい!
世も末かと嘆く元気もなく、デジタル化が進むと、こういう類の人類が増殖していくのかと、諦めの境地にもなるが、一方、本来の大和なでしこも、まだ健在なので、男性化した女性諸君、そういう人たちを、見習って欲しい。礼儀正しい紳士も、まだまだ、健在だ。
父と母の結婚の経緯などー若かりし頃の父と母
話を父と母の話に戻す。父と母の結婚の経緯を、母は流石に息子の私には話さなかった。母はその20日後に他界した。母の死後、妻が私に話してくれた。息子の私だけが知らなかったのだが、姉たちは、母と父のことを、「美女と野獣」と密かに、呼んでいたそうだ。
私が中学1年の時、教職に復帰していた母から英語の生徒として、直接教えてもらった。楽しい思い出として、今でも、当時の母の温もりが伝わってくる。母もまさか、息子を同じ中学校で教えることなど想像もしていなかったのだろう。
父の村長落選(後述)のことがなければ、ありえなかったことだ。母の優しい眼差しが記憶に焼き付いている。母の父は資産家で、県庁所在地の街に、その地域の向学心のある若者のための下宿屋を営んでいた。母もそこから、高等女学校へ通っていた。女学校時代はテニスや卓球やダンスもよくしていたとのこと。
その当時、テニスをしていたスポーツ着姿の母の写真を私の高校時代に見たことがあったが、今、私の手元にない。長女がまだ、4歳の頃、母・私・妻と長女4人で、街のデパートの屋上で、卓球をしたこがあった。私も卓球は上手な方だったが、母に負かされてしまった記憶がある。母が65歳で私が35歳のころだ。
後年、母の通夜の晩に叔父に聞かされたのだが、母は、おとなしいところのある反面、結構、御転婆さんだったとのこと。父(私の祖父)が営んでいた下宿の食事などの準備を手伝っている傍らで、(母はそこから高等女学校へ通っていた。)ダンスをしながら飛び跳ねていたそうだ。
その光景が、目の当たりに、見ているように、生き生きと蘇ってくるのだ。何とも不思議な懐かしさを感じる。「母よ!黄泉の国から帰って来てくれ!」と叫びたいが、そのようなことをいうと、「お前はマザコンだったのか」と言われそうなので、控えめにしよう。父は二枚目ではなかったが、男らしい豪傑タイプの顔をしていた。また、酒豪だった。私といえば下戸で、この方では、親父のDNAを引き継がなかった。
結婚当初数年は幸せそのものだった。しかし子供たちも増え、家族が賑やかになるにつれ、父の浮気性が覚醒し、その分、母の不幸せな生活が始まった。思い返してみれば、その頃の母は子供たちの前では気丈に振舞っていたが、時々、暗い辛そうな顔をしていたように思われた。
時々、4キロ離れた街中にある母の叔父がやっている病院へ、近所の親切な人達によって、担架で運ばれた。担架といっても、当時は、お粗末なもので、戸板に毛布を敷いて、担架がわりにしていた。搬送される度に、一番上の姉に「子供たちをたのむね!お母さんは死ぬかもしれないからね!」と遺言めいたことを、言っていた。母が入院している間、長女で私より9歳年上の姉は私達兄弟の母親役をして、父が留守にしている家族を守った。
しかし、大抵、2・3日で退院してきた。遺言した割に、早めの、退院だった。たぶん、今の私みたいに、不安症のようなものだったのか?林の中での異常な生活(20キロ離れた校長住宅での父と愛人の生活のため、母と子供たちが密林で強いられている生活)が母にとって、精神的に限界のときに、爆発したのだろう。
今の私が母と状況が全く違うが、不安症に悩む身なので、当時の母の気持ちがよく分かる。
母代りをしてくれた、しっかり者の長女の姉のこと
私が小学校2・3年の頃、夜中に腹痛で我慢できなかった時、この姉は、4キロ離れた町で、町医者をしていた母の叔父の所まで、私を背負って、行ってくれた。道すがら、姉と私がこれから、行こうとしている町から帰ってくる父にバッタリ遭った。1週間ぶりに、例の享楽の地であった校長住宅から帰ってきた父は、遊び足らず、町へ遊びにいったのだろう。ヘベレケに酔っていた。父は二人を慰めるどころか、「途中、幽霊がでるから、注意しろよ!」と、冗談とはいえ、また、酔っ払っていたとはいえ、「何という親父だ!」と子供心に思ったものだ。本来なら、姉に代わって、私を、病院へ連れていくべきだったのだ。しかし、今からして、思えば、当時17歳か18歳であった姉も女傑というか、そんな父のことなど、無視して、さっさと、私を背負って、病院へ、連れていってくれたのだ。そして、その夜、帰りもまた4キロの道のりを私を背負って、帰ったのだ。おそらく、家へ帰ったのは、もう朝方だったのだろう。大分疲れていたのだろう。文句一つ言わずに。
また、父や母たちと離れて暮らし、県庁所在地の街中で姉たちと同居しているころ、多分、私が13歳頃、この姉はミシンで私の洋服を作ってくれた。結構、当時としては、洒落た子供服だったのだろう。私は学校で、同級生に「東京のお坊ちゃん」とあだ名を付けられた。このあだ名は羨ましさと、ちょっとした、苛めたい気持ちもあったのだろう。ともあれ、姉は母代りもしていたのだ。この姉は7年前他界した。本当に有難う。また、あの世で、一緒になれたら良いのだが。父と母と三人で黄泉の国で安らかに、過ごしていることだろう。
父の青年期
話は一変して、父は幼少期、父の父(私の祖父)が病弱だったので、貧しい生活をしいられた。私の曽祖父(父の祖父)は網元でそれなりに裕福な生活をしていたらしい。父の母方の従兄には東京帝大から神戸製鋼に入社して同社の重役になった人もいた。父と母の葬儀には、必ず、来て頂いた。心優しい方だった。既に、他界している。
父の父方の従兄も教育関係者が多かった。父の家は貧しかったけど、父も勉強家で、優秀な少年だったので、生活費は父の祖父が生前親しくしていた村の有力者が援助してくれたそうだ。そこで、国費で師範へ進んだ。
父は師範を優秀な成績で卒業した。そして、宮崎のえびの市飯野で小学校の教員になった。
父と伝説の軍人・黒木親慶大将との出会い。そして荒木貞夫陸軍大将との出会い
父が20代前半の昭和初期に、病気で半ば現役を退いていた黒木親慶という宮崎県えび
の市飯野村出身の軍人に傾倒していた。父はその人を黒木大将と呼んでいた。大将は、当時の陸軍の中で、伝説の人と言われた。陸軍士官学校のエリートで荒木貞夫の6歳下の後輩だった。先輩後輩として、お互いに軍人としてというより、深い人間関係でむすばれていた。
荒木貞夫は皇道派の中心的存在で、戦前、第一次近衛・平沼内閣の陸相・文相として、戦時教育統制を推進した。昭和初期の血気盛んな頃、青年将校のカリスマ的存在だった。1936年の二・二六事件の失敗により、一掃された。
その後、陸軍省・参謀本部などの幕僚将校を主体とし、財閥・官僚と結んだ統制派が主導権を握った。この統制派の東条英機らによって、太平洋戦争へとばく進することになったのだ。この東条等の統制派というところが肝心なところだ。統制派は腐った財閥・官僚と密接に関係があった。前述のTMKの関係を想起して欲しい。このTMKが常に、最終的に、世を乱しているのだ。いくらか、救われるのは、父の尊敬した黒木大将が腐敗した財閥や官僚を糾弾した皇道派だったことだ。
荒木大将は、敗戦後、A級戦犯として、終身禁固刑に処せられたが、1955年に巣鴨プリズン(現在の池袋のサンシャインあたりにあった。)から、仮釈放された。
釈放後は、黒木大将絡みで父との交流があり、私の家にその書簡が何通か保存されている。黒木大将は1934年(昭和9年)に病死していた。51歳だった。漢文調の名文だ。荒木大将は父よりはるかに年上で、父の親世代の人で、父との年齢差は28歳だった。また、黒木大将と父の年齢差は22歳だった。
その数年後テレビの映像で、自宅で、刀剣をかざして、観賞している荒木大将の姿を見た。何を考えていたのだろうか。私も若くて、理解できる年齢ではなかった。荒木大将は、1966年に89歳で波乱の人生を終えた。
黒木親慶大将の足跡
黒木大将はロシアの南下政策(共産革命の赤化政策)を食い止めるため、ソ満の国境地帯で奔走した人物で、生涯、独身を貫いた。世にいうシベリア出兵だ。(1918〜1922)ロシア革命干渉戦争だ。又、このソ満の国境に近いハルビンは日露中が複雑に交錯した都市だった。
尼港事件
余談だが、このシベリア出兵中の1920年3〜5月、ロシアの獰猛な共産パルチザンによって、アムール川河口にある尼港・ロシア名ニコラエフスク港で悪名高い極悪非道で凄惨な事件が起きた。日本守備隊および邦人の居留民700名が惨殺された。
住人は総人口のおよそ半分の6,000名が虐殺された。このパルチザンは帝政ロシア時代に、シベリアの流刑地で収容されていた荒くれ者で構成され、革命後に野に放たれた者たちだった。
革命とは無縁のやくざ者たちで、革命政府によって、雇われた無法者達だった。尼港事件といわれた。女性は強姦され、惨殺された。幼い子供たちも惨殺された。男達は生きながらにして、耳や鼻を切り取られ、目を刳り貫かれた。また両足をそれぞれの2頭の馬に引かせて、股裂きされた。詳細は省くが、表現し難いほどに悍ましい事件だったとのこと。
その後の悍ましい戦争・事件など
同じような事件はロシア人だけではない。アメリカによる広島・長崎への原爆投下・沖縄住民への執拗な攻撃。近隣諸国での日本人による惨殺事件(戦争)を含め、世界の何処でも起きていたことだ。特にナチスによるユダヤ人大虐殺は有名だ。
また、ソビエト時代のスターリン、アフリカ・ウガンダの虐殺。1970年代後半にカンボジアで、ポルポト政権による大量虐殺があった。全人口800万の内100万以上の人々が過激な原始共産主義者ポルポトの犠牲となったのだ。21世紀の現代でも、凄惨な戦争は、後を絶たない。枚挙に遑がない。日本帝國はユダヤ人を大量虐殺したナチスのドイツ・ムソリニー率いるイタリアと1940年三国同盟を結び、ファッショ化したことを忘れてはならない。1933年国際連盟を脱退したときの主席全権の松岡洋右が後年、そのことを、後悔していたというが、時すでに遅し第二次戦争への道を驀進したのだ。同氏は戦後A級戦犯として、裁判中病没した。
1945年8月8日にソ連軍が日ソ中立条約を侵して、対日参戦した際に、旧満洲から、先ず、最初に逃げたのは日本帝國軍人と軍属の家族だった。多くの民衆が取り残されて、逃げ遅れて、犠牲者が多くでた。特に女性と子供はいつも、犠牲になるのだ。この満洲の撤退の際の軍幹部の動きに注目だ。彼等はすでにソ連軍の侵攻を事前に知りながら、先に、遁走したのだ。例のTMKの関係を想起して欲しい。ここでも、この関係は証明されている。戦争とは、このようなものだ。
若者よ!過去から学んで欲しい
特に、これから戦争に駆り立てられるであろう20代30代の若い人に、過去から学んで欲しい。否、学ぶ時間はあまり残されていない。全世界は大袈裟でなく、第三次世界大戦の気配すら感じる。特に、ウクライナの東部で、銃撃戦が、激しくなっている。気になるところだ。実質はアメリカとロシアの戦いなのだ。新冷戦時代の幕開けか?拡大しなければよいが。
嵐の前の静けさの感がある。これは私だけではないだろう。普通の常識人であれば、誰でも、そのきな臭さに気づいているはずだ。
靖国神社の御魂祭に集った6割の若者が、昭和⒛年8月6・8月9日・8月15日がどんな日であったのか、また、どこの国と戦ったのか分からないという。頼りない人達だ。これで日本は大丈夫かと、不安になる。だからといって、アメリカと第三国との戦争に日本の自衛隊が参戦しなければという理屈とは、別問題だ。憲法(9条)をいとも簡単に踏みにじってはいけない。
再び黒木親慶大将のことー生涯軍人として独身を貫いた
余談が長すぎたが本筋に戻す。黒木大将は、「軍人は、しばしば死に直面する職業で、妻子を持つべきではないと。」父に話していそうだ。ラスト侍だったのか。ただ、大将も人の子、多少は、女好きであったとのこと。否、それ以上だったかもしれない。大将の持論の是非は別として、父は黒木大将を西郷さんの次に尊敬していた。
当然大将も、えびの市は旧薩摩藩だったこともあって、西郷さんを尊敬していた。黒木大将は1934年(昭和9年)に慶応病院で51歳の生涯をとじた。葬儀は東京の築地本願寺と故郷のえびの市飯野村で盛大におこなわれた。当時の飯野村での葬儀の写真が、我が家に残っている。
昭和10年、荒木大将や父達の呼び掛けにより、「黒木親慶君追悼伝記」が出版された。同書には平沼騏一郎(昭和14年に総理に就任)や当然、荒木大将・赤尾敏等当時の右翼の錚々(そうそう)たる大物が登載された。また、アタマン・セミヨノフ将軍も登載した。同将軍については、後述する。当然、私の父も登載した。父は、荒木大将の次に多い分量で、個人を偲んだ。他の登載者は儀礼的な内容のものが多かったが、父は黒木大将に対する思いが文面に満ち満ちていた。
黒木親慶大将と父は西郷さんを敬愛してやまなかった
その中の一文に黒木大将や父たちが、いかに、西郷さんを敬愛してやまなかったのか。また、当時の世相が良く分かる個所があり、興味深い。その部分を紹介する。(日本国中おしなべて皆長い物には捲かれ年長者や地位あり金銭ある者の前では頭があがらぬ。就中之等の長者に媚びる為には顔形さえ気にして、垢のついたものはいけないの木綿物ではみすぼらしいのといって、頭にも何かコテコテと付けて鍋蓋を被った様な態をするかと思えば、通りすがっても何かフンとする様なものをつけてゐる、着物もベラベラするもの許り着てゐる、これでどうして天下の大事が托されよう。西郷先生が謂った「命もいらぬ名もいらぬ、官位も金もいらぬ人は始末に困るが、この始末に困る人でなければ困難を共にし、国家の大事を談ずることが出来ぬ」と。
ここまでは黒木大将が日頃、私の父や皇道派の青年将校・郷里えびの市飯野部落の若者達に教示していたことだ。これからさきは、父の黒木大将に対する思いの丈を大将を代弁して、父は、当時の世相に対する不満をもらしている。それは(今の若いものにこれだけの定規で行ける男があるか、皆悉く国家の大事を托することの出来ぬ者ばかりである。徒に天下国家と強がりを云う奴、徒に治まりかえって自己の利益以外に手をださない奴、今の若い奴はこの二種で固められてゐるのではなかろうか。下腹に真に力の入った真実に捨身になり得る若者はとんと見当たらぬ、世が浮薄になれば若者も華美に流れる、政界にしてもまた、寂寥を感ずる。昭和に大西郷を活かせ!)と。
これが父の当時の信条であり、黒木大将から授けられた遺訓であった。私はいくつかの部分で、黒木大将と父の信条には感服する。特に、下線を施した部分はどのような時代にも、通用する。つまり、天下国家と強がりを云う輩のなんと、多いことよ。最近の為政者は男女問わず威勢のよいことを平気でいう傾向にある。
西郷さんみたいに、自らが先頭に立って命をかけて、敵陣に突っ込んで戦う覚悟がなければ、そういう発言はしてはいけない。若者を戦場に駆りたてる前に、先陣を切って戦いなさい。
最近、馬鹿な屁理屈やさんがいて、近代戦争はミサイルや無人機などの空中線だから、つまり地上戦はないから、頭脳とハイテクの戦争だと。女性でもできると。戦争は人命を落とす悲惨な戦いなのだ。負けたら、三島由紀夫ではないが、腹を掻っ切る覚悟がなければならない。
三島程の勇気のある人間はいないので、せめて拳銃で自殺するぐらいの覚悟があるのかね!なければ、隣国を騙してでも、仲良くすべきだ。
TMK自身も自殺や腹を掻っ切るなどできるわけもなく、勇気もない。敵になる側もそうだ。犠牲になるのは、何時でも、敵も、見方も、TMK以外の大多数の民衆なのだ。敵と味方のTMKはそれぞれ、戦う意味を正義の戦いに仕立て上げ、TMKが挙って喧伝しまくる。そして、一般大衆が戦争に駆り出されるのだ。これが古代から現代を通して全ての醜い戦争の公式なのだ。
なんといっても、人道的に、最も許されないのは、このことを、敵のTMKも味方のTMKも十分に気付いていることだ。そして、卑劣なのは、彼等は何時も、お互いに、戦場から、はるか離れた安全地帯である後方にいることだ。彼等の言い分はただ一つ。戦争の指揮官だからと。私が言っているのは、そういう戦術的な話ではない。TMK自身がいざという時に、死を覚悟して、責任をとれるのかということだ。
因みに、昭和天皇はマッカーサーとの戦後処理について、自らの命を賭して、交渉に臨んだとのこと。やはり、昭和天皇はそれなりの覚悟を持って、責任を果たそうとしたのだ。
TMKの皆さん!天皇を濫りに利用しないことだ。
昭和天皇と西郷さんは、どこか、似たところがある。立場も時代背景も当然ちがうのだが。両者とも、基本的に戦争を嫌った。陛下の場合は、軍の誤った判断により、西郷さんの場合は鹿児島の私学校の生徒達による早まった行動により。しかし、いったん、決心すると、命を日本のために捧げた。昭和天皇も西郷さんも潔い。TMKの皆さん!そのような覚悟がありますか?自ら命を捧げる覚悟がありますか?
最近、後方で強がりをいう二世三世の未熟な男女のTMKさん!
昭和天皇や西郷さん達の死を覚悟した行動がとれますか?
特に最近、後方で強がりをいう男性諸君と、彼等をヨイショしている女性政治屋さん・女性評論家・女性学者諸君!ややこしい理屈は後でよい、諸君は敵前逃亡する連中だから、ジャンヌダルクとまではいわないが、戦場にいって、ナイチンゲールぐらいになる覚悟で行っておいで!
その覚悟がなければ、後方で握り飯をつくることに専念しなさい!君たちより立派な大和撫子は、昔ほどはでないが、ちゃんと存在している。その後に続きなさい。
女性活用と何方か、人気取りで云っている御仁がいるが、敢えて、そんなことをいう必要はない。実力のある人が男女問わず、やればよい。現在でも、女性の社会進出が遅れているのは、長い間、日本人の女性に対する社会的意識が低かったからだ。日本はこれまで真に実力のある女性を軽視してきたのだ。政治家・企業の幹部について、男女平等のランクは世界で、なんと、104位だそうだ。北欧が上位4位を占め、ルワンダは7位だった。民主主義が、まだまだ、充分に根付いていない事の証左だ。現在も進行形だ。
強い者に阿る女性諸君。ちょっと、言動を控えなさい。もっと、良識のある自分独自の意見をだしなさい。誰かの顔を窺いながらものをいわないことだ。国民を向いて話しなさい。
みっともない。それは、政治を預かる者として、民主主義の姿勢であり、鉄則なのだ。このような男性の権力者に阿る男性化した女性政治屋さん達を女性活用などと言って登用している御仁の資質を疑う。人心をまどわすポーズはやめなさい。予想に違わずというか、案の定、この女性政治屋さん達2人が平成26年10月20日付で内閣改造から、1月半で、政治資金規制法違反等で閣僚を辞任に追い込まれた。辞任の弁も言い訳がましい発言だった。その資質を問われているようだ。もう直ぐにでも、政治家もお止めなさい。
また、代わりに、閣僚になった大臣も問題があるらしい。その他の女性大臣も良からぬ人々との関係が噂になっているようだ。また他の大臣も問題ありと。どうなっているの!日本の大臣諸君よ!しかし、これは、私が言うところのTMKの理屈からすれば、当然の帰結なのだ。でも、放置できない。野党の諸君!徹底的に追及してほしい。重要案件の審議
が進まないので、もういい加減に大臣の責任追及は終わりにしようという政権側(K)が言っているが、それは例の典型的なTMKの言うことだ。手綱を緩めてはいけない。
犬養毅と緒方貞子さんのこと
国連高等弁務官の緒方貞子さんみたいな先輩を見習いなさい。国際政治学者ではあるが、難民キャンプ等にいって、現場主義、実践主義で難民問題を勇敢に解決したお方だ。
緒方貞子さんといえば、犬養毅の末裔だ。同氏は緒方貞子さんの曾祖父になる人だ。1932年5・15事件で暗殺された。享年77才だった。その当時としては、老齢の政治家だった。政友会総裁で内閣総理大臣だった。軍の政治への関与を嫌った政党人だった。
死の直前に「話せば分かる。」という文句は、最後まで言論で説得しようとした政治姿勢を貫いた人として立派だった。たまたま、日本に滞在していた喜劇王チャーリー・チヤプリンから「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで、哀悼す。」との弔電を送ったそうだ。TMKの例外的存在の人と考える、右翼の巨頭・頭山満と犬養は世界的なアジア主義者として有名だ。アジア主義についての説明は、ここでは、省くが、その評価となると、当時と現在とでは、それぞれ、違ったものになるだろう。現代からみると、犬養や頭山のアジア主義は時代的に限界があったのだ。
再び黒木親慶大将と父のこと
父の話にもどそう。しかもこの軍国主義ムードの高まりの中で、よくぞ、これ程のことを言ってくれたものだと、感激したものだ。もっとも基本的に体制側にいたこともあるが。
余談だが、前述の黒木大将の文章の件に「長者に媚びるため・・・着物もベラベラするもの許り着ている。」と。わずか、3行の文章だけど、実に、興味深く、面白い。所謂、バンカラというやつだ。特に旧制高等学校で流行った弊衣破帽のスタイルだ。ぼろの衣服に破れた帽子。弊衣短袴という言葉もある。破れた着物に丈の短い袴を纏ったことだ。さらに高下駄をはいていた。母の話によると、父は母と結婚する前から、その風体は、ワザと、破れズボンをはき、汚れたタオルを腰にぶら下げていたそうだ。さすが、校長になってからは、その風体はやめていたのだろう。黒木大将や父達の時代には、その風体は真っ盛りの頃だ。このバンカラの風体は、一説には、西郷さんがその始まりではないかと。まあ、どっちでもよいけど、西郷さんなら十分ありうることかと、納得!
二・二六事件のこと
そして、腐敗した財閥・官僚と結んだ統制派の台頭を許すことになり、総力戦体制へ拍車がかかった。結果的に戦争への道へ突き進んだのだ。
1936年の二・二六事件の失敗により、この皇道派は一掃されたのだ。やはり、皇道派もその責任は重い。チョット救われるのは、荒木大将や黒木大将等の皇道派は、官僚や政界・財界の腐敗を糺したことだ。
そして、黒木大将や父達が確信を持って言い切ったように、「昭和に大西郷を活かせ!」という遺訓はこの平成の世になっても、現代的意義がある。全く陳腐なものではない。ただ、戦後の学生運動の指導者のように、エリート意識が強く、上から目線であった。西郷さんだけは、例外だ。エリート意識のない根っからの庶民派だった。この戦前の皇道派と戦後の学生運動の指導者の両者の違いは、右か左かの違いと天皇の位置づけだった。
天皇のこと
天皇といえば、ある意味、気の毒な存在だと思う。平安時代の藤原氏・末期の平家から、江戸時代の徳川幕府等の武家社会の頭領たちにより、また、明治以降は例のTMKによって、思うように、利用された観がある。またこれほど長くつづいた皇室はない。やはり、日本独自のもので、日本民族は天皇家を「象徴」として、末永く、敬っていくべきだ。決して、利用してはいけない。個人的な好き嫌いの問題ではない。




