私の故郷・南九州(幼児期)・父との奇妙な密林での別居生活
私の故郷・南九州(幼少期)・父との奇妙な密林での別居生活
私の生まれ育ったふるさとは南九州の山村だ。美しい自然に恵まれた温暖なところだ。私は幼少期をこの地で過ごした。私の父がこの地で戦前から、青年学校や中学校の校長をしていた。終戦直前の昭和20年の夏、この山村を米軍の艦砲射撃に遭い、母は命からがら、逃げ回ったと、戦後数年経って、母から聞かされた記憶がある。米軍の爆撃を受けたのは都会ばかりではなかった。
父の赴任地は2年から3年周期で変わった。最短は1年のこともあり、友達に恵まれない幼少期を過ごした。そのせいか、その後の人生を私はデラシネ人生(根無し草人生)と思っている。父は校庭内に、当時としては、そこそこに立派な校長住宅が提供されていたにもかかわらず、母と我々子供たちを校長住宅から20キロ離れた密林のなかへ追いやり、粗末な家に住まわせた。自分一人で校長住宅での気ままな生活を謳歌していた。
土曜の夕方に校長住宅から我々家族のすむ原始林の中のあばら家同然の掘立小屋に馬で、帰ってきた。そして、月曜の朝早く、校長住宅に颯爽と舞い戻った。馬上の人となった父の後姿を見送った私は、父は勇敢で立派な人なんだと思っていた。幼いこともあり、父のこのような生活スタイルに格別、疑問を抱くこともなく、自由奔放に森の中の生活を満喫していた。
父は立派な校長住宅で部下の女教師と不倫生活・母と我々子供達は密林の中で生活
この奇妙な我が家の生活スタイルは、私が成人してから母から実態を聞かされた。父は戦後間もない頃、青年学校や中学校の校長をしていた。その中学校には当時としては立派な校長住宅が校舎の近くに提供されていた。父には恋仲の教師がいた。
母よりはるかに、若い女性教師で部下だった。我が家に当時の写真が残っている。教職員だけ映ったもので、父は前列の中央に、如何にも、この学校の中心にいて、全教職員をしきっているといわんばかりの態で、例の女性教師は、二列目の一番右端に控えめに、しおらしく、すずしい顔で、立っていた。
当時としては、ハイカラな感じの人で髪はパーマでカールしていた。可愛いというより、知的で、顔立ちの整った美人だった。父が惚れるのも、当然かと、妙に、納得した記憶がある。この女性教師との関係は5年ぐらい続いた。その為だけに、我々家族はこの中学校から20キロ離れた林の中で生活することになったのだ。
父と別居生活の母は恋仲の女教師を意識しながら、私達は、まだ子供だったので、母一人で、悩んでいたのだろう。ただ一番上の姉は17・8歳だったので、多少は相談相手になっていたかも知れない。そのことを母や姉から聞いたことがなかったので、分からない。
不慣れな手つきで、鍬を持って、畑仕事をしていた様子を思い出す。お嬢さん育ちの母は、7人の子供を育てながら、どれ程、喘ぎ、苦しみながら、その日を、送っていたのだろうと思うと、遠い昔のこととはいえ、それが何時の頃だったのか、忘れてしまったが、母にそのことを、聞かされた時は、父に怒りを覚えたものだ。
ただ、この頃、嬉しかった思い出があった。父が自ら工作した、手の込んだオモチャの木製の舟を作ってもらったことだ。時間をかけて、丁寧に作られていた。近くの小川に浮かべて、大事にして、遊んだ。
また、私はようやく4番目に生まれた長男だったので、まだ3・4歳の頃、父は行く先々で「これが私の長男だ」と自慢していた。まだ男性社会が今より、強い時代だったので、自慢されると、子供心に結構嬉しい思いをした記憶がある。そのためか、幼児の頃から、甘ちゃんでプライドばかり高い子供に育った。このことで、その後の人生で、余計に悩むことも多くなったのだ。
密林生活のおかげで、私を含めた子供たちは、父の中学校のある町ではなく、近くの別の町にある小中学校へ通った。近くといっても、その密林の家から片道4キロ離れた町だった。そこには母方の父(私の祖父)とその一族が住んでいた。つまり往復8キロの石ころだらけのガラクタ道を歩いて、裸足で通学したのだ。戦後間もない頃で、物資が不足していたので靴などない時代だった。冬は手足が何時も、アカギレし、村道は石ころだらけのデコボコ道で、先の尖った小石が足裏に突き刺さったりして、痛い思いをした。5年間通った。お陰で、脚力はいまでも、年の割に強い。
また、更に、奥深い森の一軒家に家族そろって、引っ越したときの様子が私の脳裏に焼き付いていて、その時の記憶が未だに残像として、残っている。戦争が終わったばかりの頃だ。人里離れた寂しげな村道から、直角に、ゆるやかな勾配のある狭い坂道に分け入り、しばらくすると小高い丘の麓に我が家があった。
この家もまた、みすぼらしい掘っ立て小屋だった。安普請だった。村道から我が家へ通じる道は獣道といってもいいほどのお粗末な小道で、左手に小川が流れ、せせらぎの音を聞くことができた。せせらぎの音や密林の木洩れ日も、癒してくれるというよりも、これから先のみすぼらしい掘っ立て小屋での生活のほうが不安に思われた。
小川の両側は椎木・樫・ヤマモモ・シダなどの密林で覆われていた。その大木の樹上に大谷渡が我が物顔に繁茂していた。父は獣道の先頭にたって、大声で、「家はもうすぐだ、頑張れ!」とけたたましく、号令をかけて、新居(掘っ立て小屋)を目指して、突き進んでいったのだろう。
母はおそらく、最後尾にいて、まだ一歳にもならない私の妹を背中に背負って、幼い子供たちが無事獣道を山蛭などに刺されないか、気遣いながら疲れた足を引き摺って歩いていたのだろう。父のみが一人、周6日間の恋仲の女教師との甘い生活を頭の片隅にあたためながら、張り切って掘っ立て小屋を目指して、歩いていったのだ。
ここから数キロ離れた中学校の敷地内の校長住宅が二人の享楽の地だったから。その掘っ立て小屋がどこにあったのか、どのように生活していたのか、全く記憶にない。
終戦直後のどさくさのなかで、一家を支えた父にも言い分があったかもしれない。それにしても、父は、戦前の軍国主義教育を高らかに、掲げ、終戦と同時に民主主義教育に転身していった多くの人々の一人であったことは事実だが。
今更、父を責める気にもなれない
今更、父を責める気にもなれない。何故なら、ほとんどの新聞メディアが、こぞって、戦争を喧伝したのだ。あの漱石を生んだ朝日新聞ですら。
朝日新聞社も時代の流れに抗しきれず、大きなウネリの中に埋没してしまったのだろう。それは、戦前のあの素晴らしい懐メロを歌った歌手さん達も同じ状況だったのだろう。無理矢理、軍歌を歌わされたのだ。ここが大事なことなのだ。平常時に如何に、このTMKの人達の行動を監視できるのかにかかっているのだ。繰り返しになるが、前述したように、Tとは、経済的特権階級で、Mとは、メディアで、Tとは国家権力のことだ。略して、TMKと称する。近代憲法はK(国家権力)の国民への人権侵害を守ることから、誕生したはずだが、憲法の精神を理解できないでいる稚拙な人達・凄惨な戦争を肌で体験していない人々・TMKを皆で監視しなければ、再び、同じ轍を踏むことになる。
日本人はどのようにして、戦争へ驀進することになったのか
戦前TMKが、どのようにして戦争へ突き進んでいったかという好例があった。
Eテレ「知の巨人・思想の科学と鶴見俊輔」で放送されたものだ。昭和15年近衛文麿と大政翼賛会を立ち上げ、政友会でも活躍した有馬頼寧の転向に関するするものだった。
有馬は当初、トルストイに影響されて華族制度に反対していた。そして、農民組合運動に尽力していた。ところが昭和2年に父の死により、伯爵を継いだ。(右へ転向したのだ。)
満洲事変・日中戦争・太平洋戦争そして終戦。その直後に巣鴨に収容された。時事通信に勤めていた石井紀子さんが、昭和31年に、既に釈放されていた有馬に対し、聞き取り取材をした。その当時の有馬の弁明に注目だ。有馬曰く。「私は満州事変から太平洋戦争へと何となく来てしまった。あまり意識していなかった。」更に、「もろもろの心柳に任すべし!」という心境だったと。なんという無責任な人達が戦争を遂行していったのかと。聞き取り取材した石井紀子さんは呆れ果てたと。私も全く同感だ。
また、思想の科学(昭和21年5月創刊)を主宰した哲学者の鶴見俊輔さんは次のようにこの大戦を述懐されていた。
「真理は間違いから逆算される。間違いの記憶は自分の中にはっきりある。今も、こういう間違いがある。間違いの道がこうあって、それがゆっくり考えていけば、それがある方向を指している。それが真理の方向だ。だから真理は方向感覚と考える。その場合には、間違いの記憶をぎゅっと持っていることが必要なのだ。これは消極的能力なので、積極的な能力ではない。負けたことは忘れない。失敗したことは忘れない。原爆をうたれた我らという考え方を強く持つ。そこからやる。戦中の記憶を保ち続ける。そこから、未来だと思う。1960年5・15の新安保の強行採決。6・15の学生の国会突入。大東亜戦争のときの大臣がもう一遍出てきて、総理大臣(安倍総理の祖父の岸信介のこと。1941年東条内閣の商工相。A級戦犯容疑で逮捕される。巣鴨に収監される。)になって、新安保を強行採決やったのだ。人民の記憶が一部活性化して、百万人の抗議デモが起こった。百万人というのは、日本の歴史の中では、前例がなかった。あれだけの運動が起きたのだから、記憶が動いたのだ。」以上だ。今だからこそ、過去から、学ばなければならない。
再度TMKとSYについてーSYの方法も初級から上級まで
(大根役者からハイレベルの役者まで)
ここでも、大事なことなので、繰り返すが、このTMK達の、国民大衆を誑かす手法は、先ず、それはそうだ(S)と言いながら、しばらく、国民大衆の様子を窺いながら、巧妙に、やはり(Y)そうしなければ駄目だ。それが、最上の策だと当初予定しているシナリオ通りに、もっともらしく結論付けるのだ。私はこれをSYの手法とよんでいる。TMKが国民大衆を誑かす手法がSYなのだ。SYを演じるレベルもその当事者(役者)によって、大根役者レベルから巧妙に仕組まれたハイレベルの役者もいる。何れにしても、油断も隙も無い、抜け目のない連中なので、しっかり、監視しなければならない。大事なことなので、もう一度繰り返す。例えば「エンロン」という映画にでてくる、大根役者はアメリカ版TMKのヨイシヨ組の能天気な俳優で、カリフォルニア州知事に担がれたシュワルツネッガーでハイレベルな役者はアメリカ元大統領のブッシュ(息子の方)とエンロンのCEO達だった。逮捕されたのは、エンロンのCEO達だった。詳しくは省略する。「エンロン」という映画を是非、観て欲しい。隠れた日本版エンロンもありそうだ。勉強不足で、指摘できないが。もう既に、誰か書いているのかも知れない。教えてください。
日本版の大根役者と言えば、皆さんお気付きでしょう!あの原子力規制委員会の皆さん、よくも、あれだけ、大根役者をそろえてものだ。呆れるばかりだ。もうこれ以上言うまい。
ただし、彼等に付き合っていられないではすまされない。もっと、厳しく、逆に、彼等を粘り強く、監視しよう。ネット上で拡散しよう。もう既に、心ある人々によって、やられているが。特に、原発事故と闘い、復興に励んでいる福島の人々と原発再稼働に反対している鹿児島の人達へ、「頑張ってください」とエールを送りたい。
戦後の日本と我が家
黒木親慶大将(後述)を尊敬していた父ではあったが、戦後しばらくして「先ずもって、いつの時代でも、権力を行使する者と、メディアには、要注意だ。」と父の口癖だった。
また、その数年後、「教員も信じてはいけない」と追加された。
私も、このようなキナ臭い時代だからこそ、この言葉を繰り返し繰り返し咀嚼している。父の末弟があの戦艦大和で戦死したのだ。1945年4月7日14時23分、屋久島沖の西方約100キロの海底に沈没したのだ。
米軍魚雷攻撃と戦闘機の機銃掃射やロケット弾攻撃を受けたのだ。今でも、まだ、この深海に沈没したままだ。多数の英霊たちが、ここで、70年間も、無言で眠っているのだ。祖母にとっては最愛の息子であり、父にとっては、愛すべき弟だったのだ。
音楽好きだった。よく、古賀メロディーの「影を慕いて」をギターで弾き語りしていたそうだ。しばらくして、郷里に白木の箱が届いた。箱のなかに、遺骨はなかった。家族全員、特に母(私の祖母)は悲しみに沈んだ。
祖母は、その2年後に他界した。おそらく、この古賀メロディーを愛した叔父は、今わの際に、多くの若者と同様に「お母さん!サヨウナラ!」と叫んで太平洋の海原に沈んでいったに違いない。無念というしかない。沖縄戦では、米軍が1945年4月に沖縄本島に上陸、6月23日に終結。
住民10数万の犠牲をはらった。過酷な戦いだった。米軍はもっと、短期決戦を予定していたが、沖縄住民の執拗な抵抗にあい、長期化したのだ。
因みに日本全土では、民間人90万人の犠牲者をだした。軍人は200万人といわれる。(諸説あり)
米軍の占領政策
戦後米軍は沖縄戦での沖縄住民の抵抗線を教訓に、早く、広島・長崎、沖縄や東京をはじめ、多くの一般市民の死亡者をだした市街地などの、米軍による凄惨な戦いの憎悪の念を効率よく払拭するために、いろいろな手をうった。例えば、米軍キャンプからのジャズを発信した。
また食料も放出した。小中校でのダッシュ粉乳の提供。巷でチューインガムをばら撒いた。所謂「give meチューインガム」だ。特に気になるのが、米軍の駐留軍が巷にジャズを流した。それに能天気な芸能人がすかさず、飛びついたことだ。ジャズがよくないと云っているのではない。ジャズは戦前からあり、ディクミネさんのような素晴らしいジャズシンガーがいたのだ。
ジャズは日本を米軍が統治するのに効率のよいカンフル剤となった。ニューオーリンズの奴隷として虐げられた黒人の間で歌われたことなど、お構いなしに、歌われた。
勿論、本物の日本人のジャズシンガーも戦後もいたのだ。
終戦をさかいにして、急速にアメリカの思惑道理、アメリカナイズしたことだ。同時に日本的なものを、軽んずる傾向にはしったことだ。
私の好きな音楽のジャンル
音楽といえば、私は正式に勉強したことがないので、一丁前に、話せないが、土の匂いのする音楽には惹かれる。ポルトガルのFADO、特にアマリア・ロドリゲスは素晴らしい。女優でもあったが、FADOの女王といわれた。リスボンの東北地方で子供時代を送り、貧しい生活を体験したそうだ。「暗いはしけ」はよく聞いている。私はポルトガルに行ったことはないが、なにか郷愁をそそる歌だ。我々の母親世代の人だ。
また、インディオのフォルクローレも魅力的だ。吟遊詩人・ギタ-奏者・歌手でもあり、作家でもあったアルゼンチンの至宝と言われたアタウアルパ・ユパンキはたまらなく好きだ。反骨精神に富んだバスクの血を母から受け継いでおり、1933年に革命運動に参加するも、発覚して追われる身となったこともあったとか。ユパンキの歌で特に好きなのは「さすらい人」「牛追い」だ。私自身、デラシネ人生(根なし草)を送っているので、身体の芯まで沁みてくるような歌だ。ロドリゲスと同様、父や母親世代の人達だ。二人とも、実に、味のアル顔をしていた。勿論、郷愁にかられるいい声をしていた。
ロシア民謡等は学生時代、歌声喫茶でよく歌ったものだ。「郵便馬車の御者だった頃」「黒い瞳」「バルカンの星の下に」「コサックの子守歌」等。西武新宿の前にあった「ともしび」で歌ったが、最近、靖国通りに移っているようだ。
私が30歳のころ、母が久しぶりに新婚ホヤホヤの私の家に、実家から、遊びに来ていた時、母と一緒に、カセットテープで中国の胡弓を聞いたことがある。曲名は忘れたが、中国の若い美人の奏者だった。(カセットテープのカバーにその歌手の写真があった。)母は感動していた。私も、母と久しぶりにあった事もあって、胡弓を通して、親子の絆の深さを感じたものだ。父は田端義夫の昭和13年のデビュー曲「島の船頭」をよく歌っていた。懐かしさが込み上げてくる。朝鮮系の歌では、アリランや菅原都々子さんの「片割れ月」が好きだ。感情をこめて、身体全身で歌える唄だ。
日本の音楽では、明治から大正・昭和初期の懐メロ・童謡とラジオ歌謡などが好きだ。齢の割に、ふるい音楽、特に、父や母親世代のものがよいのだ。また日本の浮世絵等がヨーロッパに影響を与えたように、逆に、日本へ影響与えたものも、多い。タンゴのように外国の音楽が、日本の音楽とうまく融合することによって、素晴らしい音楽が生まれたのだ。
戦前の懐メロに多い。例えばディクミネの歌う「黒い瞳」とか松島詩子の歌う「マロニエの木蔭」等はコンチネンタル風のタンゴだ。川原喜久恵の歌う「月の浜辺」はジプシー音階を用いたエキゾチックなメロディーで作曲され、古賀メロディーの傑作だ。
また、松島詩子さんが歌った「夕べ仄かに」は歌曲的フィーリングの古賀メロディーで、当時の女学生に好まれた曲だ。松井須磨子さんが大正6年に歌った「さすらいの唄」などは、大陸ものといわれ、スケールの大きい歌だ。私はカラオケ喫茶へ行ったら、先ず、この歌から歌うことにしている。作詞は北原白秋で作曲は中山晋平だ。トルストイの「贖罪」を島村抱月が戯曲化した「生ける屍」の劇中歌だ。後に森繁久弥さんによって、例の森繁節で朗々と歌われた。島村抱月は早稲田大学の教授で、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、「早稲田文学」を主宰した。その後、松井須磨子と芸術座を組織して、西洋近代劇を紹介した。
松井須磨子との不倫騒動は有名だ。そのため、早稲田の教授職を解かれた。抱月が大正7年に病死した後、須磨子は大正9年に抱月の後を追って自殺した。濃密な不倫関係に在ったのだ。羨ましきかな!大正ロマン!ロシア革命に影響された大正デモクラシーが吹き荒れる中、所謂、大正ロマンの絶頂期だった。
カラオケ喫茶などで、この「さすらいの唄」を歌った人を見たこも聞いたこともない。懐メロ専門のカラオケ喫茶でも、この唄を歌えるように、私は特注でこの歌のDVDを作成してもらった。他に、啄木の「春まだ浅き」や松山時夫が歌う「片瀬波」などが収録されているが、誰も歌わない。残念だ。嘆かわしいことよ!本音を言うと、懐メロ専門のカラオケ喫茶では、これ等の唄で、ちょっぴり、優越感を味わっている。また、戦後間もない頃に歌われた春日八郎・三橋美智也・初期の美空ひばりも素晴らしい。
名曲を挙げれば、枚挙に遑がない。明治の末期から大正・昭和の初期までに、日本独自の名曲(童謡も含めて)のピークだった。もっとも、私の独断と偏見だ。童謡は特に大正期の「赤い鳥」で作曲家の成田為三、草川信、弘田龍太郎、本居長世、岡野貞一、山田耕筰、河村光陽、中山晋平。作詞家では詩人の北原白秋、三木露風、高野辰之、西条八十、野口雨情等錚々(そうそう)たる人材を輩出した。その後にこの時代ほどの名曲がない。
最近は、カラオケスナック喫茶にいっても、私と同じ世代、いや、年輩の人達も殆どこのような唄を歌わない。歌いやすいだけの、低俗な歌が多い。嘆かわしいことだ。また音楽関係者の質の低下も影響しているのか?また、最近の小中学校の音楽の教科書にはこの頃の童謡があまり見当たらないという。文科省の官僚もこの頃の名曲に興味がないのか。
「ずいずいずっころばし」というわらべ歌は甘ちゃんの塊みたいな
徳川三代将軍家光を痛烈に批判した歌だった
因みに、「ずいずいずっころばし」というわらべ歌があるが、この歌は徳川三代将軍家光の1633年から大政奉還の1867年まで実に、234年もの長き間歌われ、家光の「お茶壺道中」を痛烈に批判した歌だそうだ。詳細は省くが、甘ちゃんの塊みたいな三代将軍家光がわざわざ、京都の宇治から江戸まで、新茶一年分を入れた茶壺を、実に、ものものしい行列で運ばせたとのこと。この行列を横切った、幼い子供を打ち首にし、その両親も同様、打ち首になったそうだ。道中、先頭の槍の先に、三つの生首を曝して歩くという実に、残酷極まりない事件がおきたそうだ。当時の時代背景からして、当然、将軍家批判は不可能だ。そこで生まれたのがこの歌だったそうだ。この歌には、時の将軍家に分からないように、痛烈な批判を込めて、歌われたそうだ。徳川幕府が三代目の家光で不動のものとなり、残酷を極めた例だ。所謂、TMKの露骨に現れた例だ。
野口雨情の「こがね虫」も他人の事など一切考えない無能で役ただずの
ボンボン役人と政治屋さんを批判した歌
野口雨情の「こがね虫」も他人の事など一切考えない無能で役立たずのボンボン官僚と政治屋さんを痛烈に批判した歌だそうだ。本当の意味は、こうだ。
(お役人どもは金持ちだ。私腹を肥やして蔵たてた。政府の予算を自分達の都合よいように、巻き上げた。てめぇの部下や手下を、賄賂を使って増やしている。)雨情の反骨精神の表れた歌だったのだ。
その後、昭和に入って、軍靴の時代へと驀進
その後昭和に入って、1932年の5・15事件で、この堕落した財閥と政治屋さんたちへ刃がむけられた。ただ犬養毅首相がその標的になったのは残念だ。立派な言論人だったと思う。
ともあれ、軍靴の時代へ驀進することになる。青年将校達による1936年の2・26事件へと発展していったのは、歴史が示すとおりだ。青年将校の部下達の生家は姉妹たちが吉原に売られたりして、家族を助けなければならなった程、貧しい農家出身者が多かったとのこと。結果は、青年将校達は銃殺刑に処せられたのだ。無念の思いであったろう。何といっても天皇陛下を崇拝していたのだ。なんと酷い悲しむべきことよ!例のTMKの犠牲者だったのだ。一説には、重症を負った侍従長の鈴木貫太郎の夫人の影響があったとのこと。夫人は昭和天皇の乳母を務めた方で、鈴木貫太郎は昭和天皇にとって、父親のような方だったとのこと。その結果、天皇が強い怒りを覚えたのだと。




