7・言葉よりも
訓練を終えて部屋に戻る。
いつも通りの業務後。
ウィオルが部屋に戻ると、部屋の明かりがついていなかった。
彼女が来てからはこの部屋の電気が消えることなどほとんどなかったのだが。
出掛けたのだろうかと考え、すぐに打ち消す。
記憶のない彼女に行くところなどないはずだ。
「……リサ?」
部屋の中に声をかける。電気だけではなく暖房もついていなかった。吐いた息が白く凍える。
果たして、彼女は部屋の中にいた。
初めて会った時と同じ、白くて薄い服が、薄暗い中に浮き上がって見えた。
窓辺に立ち尽くしていた彼女が振り返る。
何処か虚ろな眼差しがウィオルを捉えた。
「ウィオルさん、私。リサじゃないよ」
意味がわからず瞬き、それが彼の呼び掛けに対する返事だと気がついた。
「記憶が戻ったのか……?」
「そう。だからもう大丈夫。今までのお礼が言いたくて待ってた」
淡々と答えた彼女は、小さく頭を下げた。
ちらりとも揺れない表情のまま、ただウィオルを見つめる。記憶が戻らなかった時の、不安げな瞳はそこにはない。あるのは、暗く沈んだ眼差しだけだ。
今朝、様子がおかしかったのは、記憶が戻ったからなのだと得心する。
「それはいい。やりたくてやったことだ。……それより」
「さよならウィオルさん。助けてくれてありがと」
被せるように彼女が言う。
さよなら、と突きつけられた言葉が二人の間に沈黙を落とした。
拾ったもの、拾われたもの。それだけの二人にそれ以上の言葉などありはしない。
知らず、冷えていた指先を握りこむ。
何も話す気はないと、彼女の静かな拒絶を感じながらも、ウィオルは口を開いた。
「行く場所は」
「……」
薄い服一枚で、何処に行くというのか。
何もなく、雪山に倒れているはずなどないのに。
もし、ここでウィオルが衣食住の何を差し出しても、彼女は受け取らないだろうという気がした。
そして今、ウィオルが挨拶を返さねば、彼女が去れぬだろうということも、何となくわかった。
律儀なのだ、黙っていなくなれないほどには。
細く白い息を吐いて、ウィオルは微かに笑った。
彼が衛士になったのは、深い理由があったわけではない。身寄りがなくても衣食住の保障があるから選んだ仕事。
惜しいかと言われれば、案外そうでもない。
ちらりと後輩達の顔が脳裏を過った。心の中で謝っておくことにする。
「バフ肉の香草巻き」
おもむろに口を開いたウィオルを彼女が怪訝そうに見つめる。
それをまっすぐに見返しながら、ウィオルは言葉を継いだ。
「俺の育った町の名産だ。生魚で作るから、鮮魚の採れる港町でしか食べられない。……旨い店を知ってる」
彼女は初めぽかんとした。
意味がわからないというふうに何度も瞬き、言葉の意味を咀嚼する。
そして不意に目を見開いた。
夜空色の瞳を丸くして、血の気のない顔に信じられないという表情を浮かべる。
何か言いたげに開かれた口許は、震えるばかりで言葉を紡がない。
「魚は嫌いか」
問いに彼女はくしゃりと顔を歪めた。
首を振る。何度も。
彼女に何があったのかは知らない。
どうせこのまま一人きりの人生だ、誰かのために使ってみるのも良かろう。
自分の出した結論が、すとんと胸のうちに収まった。
満足してウィオルは笑う。
彼女の頬を一筋だけ伝った涙が、言葉より雄弁に答えを語った。