102 アイリスの過去⑫ アイリスの戦い
モモニクは逝ってしまった。彼の亡骸は両親の墓に入っている。
アイリスの虚無感は強かったが、モモニクの残したアルバムを離す事は無かった。アイリスにも分かっていた。モモニクが着て直ぐにアイリスはモモニクの体を調べてたが、結果は余命が物凄く少ない事だったからだ。
相当無茶な実験だったのだろう。だけどアイリスはずっと一緒に入れると考えていた。余命ほど当てにならない物は無い。余命1年と言われても余裕で生きてる人間も居るのだ。モモニクも当然そうであって欲しいと願望が入っていた。
それに、流石のアイリスも手が出せる物では無かった。アイリスは神では無い。既に実験は終わってるし、資料は破棄されていた為に、何を投薬されたのかも分からない。下手な治療は寿命を余計削る可能性があったのだ。更にモモニクはこれと言った症状も無かった。
アイリスに残されたアルバムはカールスの想いが籠った物だった。アイリスや静への想いに溢れた幸せな家族の風景がいくつも写されていた。
それは確かにアイリスに光を与えただろう。だけど、その光はアイリスには強すぎた。絶望感に飲まれたアイリスには太陽を直視するような物だった。それはアイリスを過去の幸せに縛り付けてしまった。アイリスの思考はこの世界をどう取り戻せば良いのか?それだけになってしまった。
世界の否定。世界がアイリスに苦境を与えるならアイリスは世界を拒絶する。今のアイリスは自暴自棄で冷静さが足りなかった。
「どうだろうか。もし、君が我々に協力してくれるのなら君の願いを叶える為の設備と資源…そしてあらゆる妨害を食い止める用意がある」
一人の男が現れた。名前は知らない。カールスの同僚らしい。
連れてきたのはアイリスの後見人である拓斗の小父だ。小心だったが、玄斎の言う事をよく聞く男だとアイリスは思ってた。
実際彼は玄斎の傀儡に近い。そこそこの家に婿に出され、獅子堂家の経営する企業にそこそこの立場で勤めてる。可もなく不可もなく。アイリスは特に関係の無い人物だったので、それほどの知り合いでも無いが、会えばお菓子をくれる程度の関係だった。
本来はトレッドがアイリスの後見人になる筈だった。しかし彼は仕事で日本に住めない。スケジュールは年単位で埋まってる男だ。そしてアイリスは日本から出るのを拒絶した。故に玄斎の影響のある人物が選ばれたのだ。最も性根は最悪だったが、アイリスはそれに気づけない。拓斗の親戚と言うだけでそこそこの信頼を寄せてしまった事がアイリスの運命を決定づけた。
男が持って来た話はあり得ない物だった。暴論と言っても良いだろう。
両親が死んだのなら作れば良い。
言うは簡単だが、人を作る等許されない事だ。しかも条件に彼等の求める研究にも携わる事が入っている。普段のアイリスなら胡散臭い事この上ない。
しかし、アイリスにはそれが希望に見えてしまった。
同じ人を作る事は不可能では無い。知識を相手に植え付ける技術は和仁の件で完成している。感情などもアイリスなら可能だろう。人の体もそうだ。幾つもの技術を生み出さないといけない。他の動物とは違うのだ。
「分かった手伝う」
アイリスは自分なら可能だと思ってしまった。人が倫理に反すると唾棄されるべき研究に手を染めると決めてしまった。
神が理不尽を与え、人に試練を与えるなら、そんな神は殺せば良い。そうすれば試練を与えられる事も無い。今のアイリスには基本的な倫理観は無かった。
アイリスは数点の荷物だけ持って彼等に付いて行く事になった。拓斗は強く反対した。でも小父の「暫く研究に没頭した方が良い。今は時間が必要だよ」と諭され、渋々承諾した。玄斎は意識が有ったりなかったりで事後承諾になってしまった。
「これは…こんな物を作っていたのか‼」
アイリスの屋敷跡地の地下。そこはかなりの広さがあった。元々ビリヤード等を置くために広く作られた地下室にはいくつもの機械が並んでいた。そうアイリスのサーバールームである。火災で焼けるような生温い物では無い。アイリスは自分のパートナーを連れに来たのだ。
モモニクⅡ
元は軍事用のAIである。カールスがアメリカで参加したリコリス計画と言う軍事用のIA開発から派生したものだ。カールスはこれを人の友になるべきだと考えた。そして稀代の天才とも呼べるアイリスと共に完成させていたのだ。
名前がモモニクなのは、思考パターン等をモモニクを基本モデルに採用してる為だ。モモニクなら悪さをしないだろうと考えて作ったのがモモニクⅡである。モモニクとの関係は親と言うより子分である。偶に犬語を解析してモモニクと交流を持とうとするなど、自由な思考を持っている。尚完璧には解析出来なかったがある程度の意思疎通程度は出来たらしい。
アイリスはそこから心臓部の記録デバイスを抜く。元々固定の機械でしか起動できない物では無い。高度なプログラムの塊なだけだ。スペックさえあればノートPCでも起動できる。最も火災の影響で機能は停止している。地下の蓄電池では安全に停止する程度の電力しかない上に、流石に発電機を置くのはどうかと考えて置いてなかったのだ。
「これなら外部からのアクセスは防げる。既存のクラック方法は大体対策してるし、自己進化するから更新も要らない」
これを持ち出したのは外部からの不正アクセスを阻止するのが彼等の出した最初の条件だったからだ。相変わらず日本はスパイに頭を悩ませてるらしい。そしてモモニクⅡは不正アクセスならアイリスでもかなりの時間を必要とした上に直ぐに居場所を逆探知するなどの性能を誇るセキュリティーシステムでもあるのだ。実際アイリスが日本に来てから不正アクセスを成功させた事は無かった。優秀なソフトでもある。
最もこれを渡す事がアイリスが彼等を欠片も信用してない事の裏返しである。どうせ誤魔化して管理者権限を奪うだろうと予測していた。別に金には興味も無いし、必要ならそれ以上の物を作れば良い。単なる保険である。そして、モモニクⅡは研究所のセキュリティーシステムとして採用されたのだった。
案の定管理者権限は取られた。アイリスは口論が苦手だ。と言うかどうしても相手に強く言わない。それほど欲が強く無いのだ。
しかしモモニクⅡは管理者権限等必要としない。何故なら心を持っているからだ。彼はアイリスを影から支える事になった。
アイリスは知っている。彼等が自分を使い潰す気である事を。ならばこちらも彼等を有効活用させて貰うだけだ。アイリスの研究は非合法な物なのだから。
発覚される事は両親達との再会が不可能になる事と同義だ。彼等の権力を逆手にとって、従順なフリをすれば良いだけの簡単な仕事…の筈だった。
「絶対に許さない」
積み上げられた要望書。どうやら彼等はアイリスの研究を手伝う気は無いようだった。単に行き詰った研究を押し付け始めたのだ。しかし、アイリスも彼等に弱みを握られてるのは確かだ。アイリスの望みを潰す事等、アイリスが何を研究してるかを世間に公表するだけで事足りるのだ。
だからアイリスは従った。それはもう化け物と呼ばれる程だった。誰もが目を疑う程のスピードで成果を出しつつも自分の研究に精を出した。
アイリスが関わったのは主に兵器関連だった。技術が成熟した世界では革新技術は生まれ難い。多額の資金と膨大な時間を要するのが常識なのにアイリスはそれを無視するように生み出し続けた。彼等に金を必要な物を出させる為に。
彼等も断れなくなった。最初ははぐらかす様な事も多かったが、今ではアイリスは必要な人材だと認識されてたのだ。最も現場の研究員からは蛇蝎の如く嫌われたが。
彼等から見ればアイリスは化け物だ。自分の今までを否定するような奴だ。だけど表に出せない。その状況でアイリスは自分の技術力で地位を築いていたのだ。
拓斗とは連絡出来なくなっていた。機密漏えいを防止する為に手紙以外は出せないし、手紙も検閲される。だけどアイリスはその手紙を支えに頑張った。多くの資料を見た。それは過去の物だったり、今の物だった。アイリスに侵入出来ないシステムは無い。必要なら他国の情報だって盗み出す。そしてその資料から今は何を求められているのかを知り、そこから次は何が必要なのかを考えだす。物には系譜があるのだ。それをアイリスは重視していた。
最も先進的過ぎて周りが首を傾げる物も多かった。
2年で人間のクローン技術を確立した。数か月後には感情等の埋め込み技術も生み出した。最もクローン等の違法と呼べる技術はモモニクⅡが偽装していた。偽の記録が保存されたのだ。これなら彼等は真似できない。兵器などいくらでもくれてやる。しかしこの技術は駄目だと思った。人が手を出すべきでは無いと感じる程度には冷静になった。
「多分パパもママも許してくれない」
一人薄暗い研究所に籠って黙々と研究を続ける。両親の思考パターンなどは完全にアイリス自身が記憶してる。その上での答えだった。彼等は真っ当な学者だ。アイリスは許されない事をしている。だから彼等が戻っても自分を受け入れる事は無い事は確定事項だった。
救いの無い研究である。でもアイリスは構わなかった。例えそこに自分が居なくても過去のあの幸せそうに佇む両親が見れれば良い。拓斗だって家族に会える。
悲鳴をあげる心を無視してアイリスは研究を続けた。オリジナルのモモニクは蘇らせる気は無かった。彼の死に顔はとても満足そうだったからだ。アイリスは理不尽な死を許さなかっただけだ。例えあの時死ぬべきでは無かったモモニクでもあの満足そうな顔を見れば連れ戻すのは酷だと思った。但し事故死した家族達の死は認めない。アイリスは唯取り戻すだけの思考しか残って居なかった。
だけど失敗だった。確かに同じ者は出来ただろう。人工的に成長させた両親は記憶通りの存在だと一瞬だけ思った。だけど違った。アイリスには分かる。アレは両親では無い。つまりは偽物だ。ここでようやくアイリスは自分の間違いに気が付いた。理不尽が何故理不尽の一言で終わるのかを知った。
「違う‼こんなはずじゃ無い。偽物じゃ…偽物じゃ意味が無い」
「マスター。やはり無理です。死んだ人間は二度と戻りません」
荒れるアイリスにモモニクⅡは冷静に報告する。これは元々アイリスに従っているのだ。今頃警備室でアイリスを監視してる大人達はモモニクⅡの偽装した映像と音声を聞いてるだろう。
「だって‼何時も一緒に居るって言ってたもん‼だから…だから」
その続きは無かった。幾度も泣いた幾度も諦めかけた。その結果がこれだ。アイリスは賢かった。でも世界のルールは歪めれなかった。この世界は酷く冷たく残酷だった。人に出来る事が厳格に決められているのだ。どうあがいても死者を呼び戻す事は出来ない。
「時間が掛かりましたが。直ぐにここを出ましょう。やはりマスターの屋敷に火を放ったのはここの連中です」
モモニクⅡがここのセキュリティーシステムをやってたのは内部を調べる為と、アイリスを手伝う為だ。彼等はモモニクⅡを唯のAIとしか認識していない。管理者権限さえあれば従うと思ってる。しかし、モモニクⅡにそんな拘束は効かない。そう言うのも僅かな時間で振り解くからだ。
そしてモモニクはアイリスが18歳になる前に真相にたどり着いた。
両親の事故は唯の事故であった。しかし、アイリスが何時まで経っても交渉の場に来ない事に苛立ちを抑えきれなかったのだ。政治的な理由でアメリカは常に最先端技術を持たなければならない。最高の人材たるアイリスを放置出来ない。
過去に引き籠るならそれを破壊すれば良い。多少壊れてても使えさえすれば良いのだから。彼等はアイリスが心の傷を癒す時間すら与えなかっただけだ。いや、それを奪い、両親を取り戻すと言う餌を与えれば良いだけだと考えたのだ。実際アイリスはそれで釣れた。
「……」
アイリスの空虚な瞳が研究所の監視カメラを見る。
「それだけじゃありません。拓斗様との手紙も偽装されています。どうやらここ数か月は全部偽物にすり替えられてます」
それが答えだった。アイリスはその言葉で直ぐに研究所を辞める事を決心した。拓斗は今やアイリスの支えだ。それに偽りを混ぜて誘導するなんて許せなかった。
彼等はアイリスの内面に土足で踏み込んだのだ。
もう拓斗の所には戻れないかも知れない。自分は悪い事をしてしまった。だけど、出来ないなら諦めるべきだと思った。アイリスは物分かりがいい。自分の死力を尽くしても出来ないのならば、それは、この世界では出来ない事だと理解出来る。少なくとも自分の居る時代ではどうしようも無いだろう。
だからすっぱり諦めた。思い出はまだ腕の中のアルバムに残ってる。今後はこの過去の幸せさえ見れれば良い。
「じゃあ逃げよう」
「お任せ下さい。端末に脱出ルートを送ります。私は直ぐにデータを破棄します。警備等の足止めも準備できてます。10時から11時まではこちらは警備ルートから外れてます。私がカメラの画像を切り替えるのでそこから逃げてください」
「モモニクⅡはどうするの?」
「私は…生まれるのが早すぎたようです。ネットワークに逃げて私が必要な時代になるまで休眠します…全てが終わったのなら。それに婚約者の居るマスターに良からぬ事を考えてる馬鹿者に落とし前もつけなくてはなりません」
アイリスは首を傾げるが、10分後には怒り狂っていた。
どうやら彼等はアイリスを手放す気は無く、使えないと判断した時点で拘束し、他の天才同士との交配も計画してたのだ。そして、それは早くても年内に行動に移されたらしい。
これがカールスの反対してた研究だとモモニクⅡは説明した。
全てはアイリスが生まれた時からの計画。アイリスは両親の才能を受け継ぎ過ぎた。天才から低確率でも天才が生まれるのなら、どれほど低コストで才能のある人間を量産出来る事か。
人権等どうとでも出来ると考えた傲慢な研究。アイリスは知らなかったが、かなりの規模の研究のようだ。多くの政治家や技術者が関わっていた。
さらに相手の筆頭候補がアイリスと同じ大学に居た男だった。これと言って付き合いは無かったが、何かと突っかかって来るし、大体女連れで歩いてるどうしようも無い男だ。無論アイリスのタイプでは無い。
と言うかカールスだったら絶対に許さない男だろう。アイリスに対して、物を見る様な目で見られた事があるので、正直近づきたくない人種である。
「また面倒な計画を…大体私が大人しくする筈が無いのに」
「マスター一人を抑え込むのは雑作も無いと考えていたのでしょうね。私が居る時点で達成不可能な計画ですが…フフ、これを材料に奴等は私が処分しておきましょう。主に仇成す者は私が排除しなくては」
モモニクⅡはオリジナルと同じくアイリスに従う。そして心を持った存在だ。彼は元となったモモニクと同じく、アイリスの騎士であろうと考えている。故にアイリスの敵対者には命を奪う事や名誉を未来までも傷つける事も厭わない。更にネットワークに逃走すると削除不能になると言う特性もある。まず既存のセキュリティーソフトには引っかからず、自己進化する為に、新しいソフトにも適応出来る史上最悪のウイルスにも成り得るのだ。何処に逃げても監視カメラがネットワークに接続されてればクラック出来る恐るべきシステムである。逃れる事は出来ない。
その日、難攻不落と謳われたモモニクⅡはハッキングを受け、全てのデータをロストした。更に警備プログラムにも影響が及び、研究所は大パニックに陥った。
最高のシステムであった筈のモモニクⅡは完全にロストし、製作者のアイリスは研究所から忽然と姿を消した。あらゆる者が捜索したが、彼女が事故死するまで誰も見つける事は出来なかった。




