遠き空にて
『北島陽一さん
さようなら
巻方翔子 』
手のひらの小さな液晶が、締め切った暗い寝室を照らす。
このメールを見たのは何度目だろう。
翔子からの最後のメールは、本文がたった五文字の素気ないものだった。必要のない宛先と差出人がわざわざフルネームで本文を挟む。あえて、よそよそしい印象を与えようとしているかのようだ。これが恋人から送られたメールだと言って、誰が信じるだろう。
(翔子に一体何があったんだ?)
このメールを最後に、翔子は完全に姿を消した。
携帯は解約され、マンションの部屋も空き部屋になり、働いていたデザイン事務所も辞めていた。連絡先の手がかりもない。
(僕が振られたということだろうか?)
最初はそう思ったが、それにしては不可解だ。
翔子は四歳下の二十歳、付き合い始めて半年になる。最近、翔子は考え込むことが多くなってはいたものの、交際自体は順調だった。
「大事な話があるんだ。今度の日曜日、会えないか?」
最後に会ったときの会話を想い出す。翔子は、目を伏せたまま長いまつ毛を震わせて、しばらく考え込んでいた。
「わかった。今度の日曜日ね」
ようやく翔子は、か細い声で答えた。今から考えると、何か思いつめていたのは間違いない。
その約束の日曜の朝に、このメールが届いた。
(何かトラブルに巻き込まれたのではないか?)
(何か隠し事があったのではないか?)
(そもそも巻方翔子という人間は実在したのか?)
色々な考えが頭を駆け回る。しかし、こんな形で姿を消したことを合理的に説明する方法は、中々思いつかない。
(もしかしたら)
ひとつだけ思い当たることがある。可能性は非常に低いが、ありえないことではない。他の人間なら思いつかない、自分だからこそ気付ける小さな可能性──。
◇ ◇ ◇
古田島京香は、アメリカの大学のキャンパスで、日本人留学生に囲まれていた。校内にあるカフェレストランのテラス。乾いた風、秋の優しい日差し、周囲を囲む鮮やかな緑、しかし京香の心は、重たく沈んでいた。
「古田島さん、こっちの生活には慣れた?」
川田という茶髪の男が、爽やかさを装って訊いてきた。
「少し慣れてきたところです」
後輩を気遣う優しい先輩の姿。しかし、この人たちの本心は違う。
「そう言えば古田島さん、川南高校の出身なんだって。公立の進学校に通っていたなんて意外だな」
「両親の方針だったんです」
京香は、うんざりしながらも笑顔で返答した。
アメリカに行けば違うはず、そんな期待は完全に裏切られた。
『古田島グループの令嬢』日本では、いつもその肩書きが付きまとっていた。それはアメリカでも何も変わることはなかった。
出身校なんて一度も訊かれていない。知りたければ「出身校はどこ?」と直接訊けばいいことだ。それをわざわざ自分で調べる必要がどこにあるのだろう。
結局、彼はすぐそばにいる古田島京香という人間ではなく、古田島グループの令嬢の出身校に興味を持っただけだ。川南高校出身が意外なのも、古田島京香個人ではなく、古田島グループ令嬢の出身校としては意外だということを意味するのだ。
京香は、巻方翔子として生活した一年半を想いだしていた。自分の人生の中で、唯一落ち着いた気持ちで生活できた期間。周りの人が自分のことを一人の人間として見てくれる、そんな当たり前のことが心地よかった。その経験のせいで、余計に今の状況が辛い。
『一般の人たちを知ることが必要』
その両親の方針に従い、高校まで普通の公立学校に通った。クラスメイトと打ち解けたことなど一度もない。羨望、嫉妬、妬み……京香の周りには、自分をちやほやする人間と無視する人間の二種類しかいなかった。
『大学に留学する前に、少しの間でいいから普通の人間として暮らしたい』
そう言ったとき、両親は反対をしなかった。教育方針に沿った提案だったのかもしれない。父親は知り合いのデザイン事務所で働く段取りまでつけてくれた。
自分らしく生きる、それがどんなに素晴らしいことか、初めて気づいた。充実感に満ちた生活。
そして、北島陽一と出会った。
一緒にいると落ち着く人がいる、そのことを知った。やすらぎ、安心、いとおしさ、陽一は色々な感情を教えてくれた。
しかし、その時間は二度と戻ってこない。
アメリカに来ると、すぐに日本人留学生に取り囲まれた。他国の人と知り合うことすらままならない。そのうち、他国の人の眼も特別な人間を見る眼に変わっていく。
日本人留学生は、高校までのクラスメイトのように露骨な扱いはしない。一見フランクで肩書きとは関係なく個人として付き合っているかのように振る舞う。しかし、それはポーズだけだ。
「そう言えば、伊田町さんがここに来るって言ってたよ」
大村という長身の男が、いきなり話し出す。
「古田島さんのことを話したら是非会ってみたいって」
「光栄です……」
どんなにポーズを装っても、言葉の中に本心が見え隠れする。伊田町などという知らない人間に、自分のことを話した? それがおかしなことだと気づかないのだろうか。『古田島グループの令嬢がいる』そう話す姿が想像できる。
結局は高校までと何も変わらない。いや、打算があるだけ今の方が酷い。
「伊田町さんって、あの伊田町財閥の息子なんだよ」
追い打ちをかけるようにそんな言葉が耳に入る。どんな人格の人なのかという前に『伊田町財閥の息子』という肩書きを説明する。陰で京香も同じ扱いをされていることを証明するような台詞。
息苦しい。
「へえ、伊田町さんか。久しぶりだな。あ、古田島さん。伊田町さんは一年前までこの大学にいたんだよ。僕がここに来て一番の収穫は、伊田町さんと知り合えたことなんだ」
無邪気にそんなことまで言う。収穫……打算がはっきり見える言葉。伊田町という人間には興味がなく、伊田町財閥とのコネができたことを指している言葉。
変にポーズをとらずに、堂々と特別扱いされる方がまだましだ。
走ってその場を逃げ出したい衝動に駆られる。
(陽一だったら……)
あの日、陽一は「大事な話がある」と言った。その瞬間、自分の正体を話さなければならない日が来たと思った。どちらにしても、タイムリミットが近づいていた。
(正体を話したら、陽一は自分のことをどう思うのだろう)
怖かった。陽一もこれまで出会った人と同じように、自分のことを古田島グループ令嬢として見るようになったら……そう思うと耐えられず、逃げ出してしまった。
そして逃げ出した先が、この息苦しい世界。
もし陽一に本当のことを言ったらどうなっていただろうか。
もう一度会いたい、会うのが怖い、色々な気持ちが交錯する。
「よ、みんな。元気だったか?」
背後から声が聞こえた。
「伊田町さん!」
「本当だ伊田町さんだ!」
皆が表情を変えて、声をかける。何といういやらしい笑顔なんだろう。また会えて嬉しいという気持ちを体中で表現しようとするぎこちない演技。とりいろうとする姿。打算。
高校までのクラスメイトの方が、この人たちよりはましだということを確信した。
京香は、ここでひとりの人間として生きることを諦めた。自分も本心を隠して演技で付き合うことに決めた。そうしなければ、耐えられない。
まずは、自分も伊田町という男に愛想笑いで挨拶をする。こういうことには慣れている。親しみを込めた笑顔の本当の演技を、この人たちに見せつけてやる。
「初めまして」京香は伊田町という男にそう言おうとして、振り返った。
「初めまして。古田島京香さんですね。伊田町恭二です。よろしく」
先に伊田町の方から声をかけてきた。
(何故……?)
京香は笑顔を作れなかった。これまで、数えきれないほど繰り返してきた愛想笑いができない。声すら出ない。
「伊田町さん、日本に帰ったんじゃないんですか?」
「ああ、この前まで日本にいたよ。今度こっちのMBAに留学することになったんで、戻ってきたってわけだよ」
「そういえば、そんなこと言ってましたよね。少し日本で生活してから、戻ってくるって」
「そうそう、予定通り」
京香を置き去りにして、会話が進んでいく。
伊田町恭二は、こういう人間の扱いに手慣れているようだ。優しい風が、テラスに舞う。
「日本で何をしてたんですか」
「働いていた。楽しかったよ」
「いいよな。俺たちなんか、楽しく働くなんて一生できないだろうな」
「何言ってるんだ。どんなことでも楽しくやらなきゃ」
また優しい風が吹く。相手が発するマイナスの言葉を打ち消して、楽しい雰囲気にしてしまう受け答え。まるで、京香に「こうやって扱うんだよ」「こんな会話も楽しくやらなきゃ」と諭しているかのようだ。
「どんな仕事してたんですか? 帝王学の実践とか?」
「いや、子会社の小さな電子部品メーカーで下っ端ををやってただけだよ」
「子会社で伊田町財閥の息子が働くなんて、やりにくいでしょう?」
「偽名を使って正体を隠してたんだ。そこの社長以外誰も伊田町恭二だということを知らないんで、何度も怒られたりしたよ。それはそれで楽しかったし」
「お忍び生活ってやつですか? 伊田町さんも物好きだな」
「前から考えていたことだよ。伊田町財閥という肩書を外した生活を一度経験しておきたかったんだ」
京香の眼から涙がこぼれてきた。
「彼女とかできたんじゃないですか? 昔言ってましたよね。伊田町財閥の息子としてではなく、ひとりの男として恋愛したいって」
「まあな。でも逃げられたよ。大事な話があるって言ったら、僕の前から姿を消した」
「伊田町さんから逃げるなんて勿体ない女だな。それでその彼女を探したりしたんですか?」
「探したよ。そして見つけた」
「じゃあ、大事な話ってのも話したんですか? わざわざ探したくらいだから」
「いや、話していないよ。話す必要もないし」
「でも気になるな。彼女に話そうとした大事な話か……」
「まあ、MBA留学が決まってたから、そのことを話さないといけないと思っただけだよ」
伊田町恭二は、視線を落として京香の眼を見つめた。そして、少し間をおいてから続きを口にした。
「一緒にアメリカに行ってくれないか? って」
伊田町恭二の演技ではない本当の笑顔に、京香は涙を抑えることが出来なかった。
優しい風は、ふたりだけを包んだ。