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エピローグ 《泣けなかった赤鬼》

 たびびとは、おんなのこに、いいました。

「おまえのしょうたいはようかいだ!」

 おんなのこはおどろきました。

「わたしは、ようかいではありません。なにかのまちがいです」

 しかし、おんなのこはしんじてもらえませんでした。むらのひとたちは、たびびとをしんじました。

 たびびとは、ふしぎなまほうをつかい、むらびとと、なかよくなっていたのです。

 おんなのこは、なきました。こんなにがんばったのに、むくわれないじぶんが、とてもあわれでした。

 おんなのこは、やまおくにつれていかれて、ひとのせかいにはいりこめないように、ぎしきをうけました。

 だけど、たびびとは、しっぱいしました。

 おんなのこは、たびびとのいうとおり、まごうことなき、ようかいでした。

 ただ、たびびとは、べつのようかいと、かんちがいしていたのです。

 たびびとは、オニになったおんなのこに、ころされてしまいました。


 オニは、やまをおりました。

 にんげんとして、ではなく、オニとして、ひとをおどかそうとしました。

 やまをおりると、もりにつきました。

 もりのなかをあるくと、かわにつきました。

 そして、あるおんなのこと、であいました

 ようかいにとっては、はじめってあったひとでも、

 そのおんなのこにとっては、さいかいでした。

 たいせつな、とてもたいせつな、しんゆうでした。


「紅子ちゃん待って! お願いだから!」

 後ろから、懇願するような声が聞こえてくる。あまりにも耳触りで、こっちから怒鳴り返してやろうとして口を開けたその時、全身が痙攣し、途端に嘔吐感が胃からせり上がった。たまらず掌で口を覆い、喉にグッと力を込めて飲み下すものの気持ち悪さは尋常ではなく、その苦しみは地面に膝をつかせてしまった。

 空いた方の手で体を支え、なんとか平静を装うとするが、両目は大きく見開かれ、呼吸は荒れてしまってどうしようもない。新鮮な空気の欲しさに深呼吸をしようと喉を開いてしまえば最後、得体の知れないものが大量に吐き出されてしまいそうで、それがたまらなく恐ろしかった。

 異物感で張り裂けそうになっている喉をかきむしり、こらえようとしている私に、葵は心配そうな目を向けて、背中をさすりながら、今にも泣き出しそうな声を掛けた。

「大丈夫だよ。色々あったから不安なんだよね。大丈夫だから安心して……」

 触れるな! と振り払おうとして、何故か言葉が出なかった。

 私は両目をぎゅっと強く閉じた。額から汗がにじみ、涙とまざって地面に滴り落ちる。もう限界……。そう思うと同時に

「いいよ、全部吐いちゃって……大丈夫だよ」

 耳元で、優しい言葉がささやかれ、安堵感が心をくすぐった瞬間、私は全てをぶちまけた。

 グチャグチャになった赤い液体と肉片が、辺り一帯を湿らせながら広がっていく。中には千切れた布のようなものも混ざっており、他にも、銀色の十字架も一緒に流れ出ていた。

 吐き出した色々なものを見ながら、葵は決して目をそらさず、私の背に手を当てた。ほどよく優しい力加減で背中をさすり、安心させようとしているのが背中越しに伝わってくる。その気持ち良さは、こんなに苦しいのに、胃の中身が消えてほしくない、と思ってしまう程で、心が落ち着いていく感覚は私を穏やかな気持ちにさせた。

 やがて中身は全て吐き出され、不快感から解放された私は、大きく深呼吸をした。

 謎の嘔吐の原因は恐らく、恐怖を吸い込みすぎたからだろう。初めての経験だったから体が驚いているのだ。

 そこまで考えた時、とん、と小さな衝撃を背中で感じた。葵が額を押し付けている。

「ごめん……ごめんね……紅子ちゃん」

「なんで? ……葵が謝んの」

 気付けば、私は葵と普通に会話をしていた。今は恐怖を食らって満足しているから、と納得しようとしたが、そうではない、と無意識に理解していた。先程の老人との敵意むき出しな問答とは打って変わって、自然と穏やかな気持ちで葵の話を聞いていた。

「私なの……紅子ちゃんが変だって、宣教師様に言ってしまったのは……」

「へぇ、そうなんだ。でもそれは正解だったみたいだよ。現に私は妖怪だったし」

「違う……違うの……私はっ!」

「大丈夫だから、落ち着いて、ね」

 無意識に手を伸ばし、葵の頭を撫でようとしていた。だが、両手は先程の吐瀉物で汚れてしまっていて触れられない。私はもう人間ではないし、人間の真似事をするなんて許されない。

 葵を慰めたい気持ちは胸の中で確かに存在するのに、何もできない自分がただ歯がゆく、その拳を強く握り締めた。その上から、葵の手が被せられる。

 仕事の毎日で固くなってしまった手は、私の心を強く揺さぶった。こんな日常が私にもあった、筈なのに、何も思い出せない。

 それでも体は覚えていた。葵の手と同様に私の手も固くなっており、冷たい水を使ってひたすら洗濯をした日々や、働いていた過去を両手は物語っているはずなのに、今は血に濡れている。それが、たまらなく悲しい。

 だけど、『鬼』である自分は、その感情を決して許さない。悲しみで涙を流す行為は『弱さ』と見なされ、その機能は生まれ変わった時点で既に消されている。私に許されるのはただ両目を見開きながら奮える事だけで、葵のように他人に弱さを訴えられれば、どれほど楽になれるのか、想像を巡らせては歯を食いしばる事しか出来ない。

 そんな私の様子に気付かないまま、葵は泣きながら言葉を続けた。

「私は言ってしまったの、紅子ちゃんには変な癖があるって」

「癖?」

「いつも、自分の血を舐めてたって!」

 その言葉を聞いた瞬間、ぞくりと背筋が震えた。

 忘れてしまった過去の中で、一生忘れられないと思っていたはずの、心の傷とも呼べる部分が、治りかけの瘡蓋を強引にはがすようにして記憶を呼び覚ました。

 過去の私は、母の云われ無き暴力を一方的に受けていた。

 よそ者として村にやってきた両親は、村に中々溶け込めずにいた。そんな日々が続く中、いつしか父は私達の元からいなくなった。母は女手一人で私を育てようとしたが、時折限界が来るように、人の見ていない場所で私を殴るのだ。私は村人達と仲良くしていたから、柵の無い関係が羨ましかったのかもしれない。母が父以外の誰かと楽しそうに話している所を見た事がなかった。

 私は母の暴力を一身に受けれども、決して母を憎みはしなかった。殴ったその翌日はとても機嫌が良くなっていたし、抱え切れない苦しみを発散する方法がただ不器用なだけなのだと、子供心に理解していた。母はとても弱い人で、父を失った今、私以外に大切な人がいないから、これも一種の愛情表現で仕方がないのだと、ちゃんと分かっているつもりだった。

 しかし、私にも限界はあった。痣や傷が増えると隠すのは難しくなる。突然お腹を押さえて蹲ったり、痛むか所を手で押さえながらふらついていては、友達や大人達から不審がられてしまう。もし母の暴力が皆に露見すれば、この村から追い出されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならなかった。

 私は傷口を舐めた。殴られた日、その行為が終わった後で、舌を伸ばし血を舐めとり、「大丈夫、大丈夫」と小さな声で何度も何度も繰り返しながら、不安な夜を過ごし続けた。痛むか所を舐めながら、ひたすら気持ちが落ち着くのを待った。

 葵は見ていたのだ。私が傷つき涙を流しながら、一人で血を舐めるその姿を。

「そっか、葵……知っていたのか」              

「紅子ちゃんのお母さんは、その、変わり者扱いを受けていたし、紅子ちゃんはずっと友達だったけど、血を舐める理由が分からなかったから……。もし病気だったら宣教師様が治してくれるかもって思って、そ、それを言ったら、『それは我が国に住まう鬼の特徴だ。人に溶け込む為に習性を隠そうとしているのだ』って……」

「私の母さんは……今、どうしてる? 村にいるの?」

「あ、えっと、わ、わからない。紅子ちゃんが連れていかれてから、家に引きこもって出てこなくて」

「そっか……ありがとうね」

「え?」

「葵のおかげで少しだけ思い出せた」

「こ、紅子ちゃんはこれからどうするの?」

 私は、ふむっと小さく呟きながら顎に手を当て考える様な素振りを見せた。その姿を見て葵はおろおろとうろたえる。それが可笑しくて、くすりと小さく笑った。私は茶化すように明るい声を作り、楽しげに言う。

「そうだなー、人間として生きるのはもう無理だと思う」

「そ、そんな事ないよ! 私達の村での生活は無理でも、他の村に行けば大丈夫だよ!」

「じゃあ、この二本角はどうしよっか?」

「え、えっと……そ、そうだ! 髪を伸ばして帽子をかぶれば良いよ。帽子なら私がつくるよ!」

「それなら、ゴハンは?」

「え? 私がつく――」私は葵の言葉を遮った。私達の違いを露わすであろう、決定的な一言を送る。「もう、普通のご飯じゃ満腹にならないんだよ」

「それは……」

「葵は私を怖がらないよね……それはとても嬉しいよ、ありがとう。でも、いくら私の気持が喜んでも、私の『鬼』は葵が恐怖で引きつる顔が見たいって、さっきから騒いでる。だから、ごめん」

「お別れなんて絶対嫌!」大粒の涙を流しながら、私の着物の袖を力強く引っ張り叫ぶ「絶対嫌なんだから!」

「私は今から村を襲う」

 この言葉は葵の胸を突き刺すであろう、分かっていても、この決断は変えられない。

 だからこそ、なんでもない事のように、ただ無慈悲に告げる以外に思いつかなかった。

 しかし、それでも葵から恐怖の光が発せられることはなかった。鬼は人の恐怖が極上の御馳走であるにも関わらず、葵が私を怖がらなくて嬉しい。という矛盾した感情は、私の中にある行動理念のようなものをグチャグチャに引っ掻き回した。

 葵は目にするどい力を宿しながら無言で、ただ私の目を見つめ返している。

 私はため息を吐いた。ここまで脅しを掛けておきながら結局根負けしたのはこちらで、思い知らされるだけに終わったのだと、そう静かに理解すると、「わかった」と言い葵に背を向けて立ち上がった。

「紅子ちゃん!」

「葵の村は襲わない。他の村へ行っても人は殺さない……。でも私は鬼だから、人の敵として生き続けるよ。私達はもう二度と会うことは無い。それはとても寂しいけど、でも村を襲わずに済んで良かった……心からそう思う」

 葵を無視して私は歩き始めた。行き先は未定だが、人のいる場所へはいずれ辿り着くだろう。金棒を肩に担ぎ、鬼として様になっているかどうか葵に聞いてみたくなったが、流石にそれは無理だろうと一人で笑った。

「私は……紅子ちゃんが帰ってくるのをずっと待ってるから、だから……だから、いつか絶対に帰ってきてね!!」

 闇の中を威風堂々と歩く私の姿は、人間どもには恐ろしく映っているのだろうか? 

 ただの小娘にしか見えないこの姿は、強大な存在が持つ威圧感とは無縁であろう。

 だが、ひとたび力を込めて金棒を振るえば、紛う事なき『鬼』だと旋律するのは間違いない。

 私はその力を使い、鬼として人間を支配する。これからは、人間だった頃の記憶を思い出そうとする暇の無い日々になるだろう。そう考えると、肩がぶるりと震えた。これは武者震いなのか、それとも怖いのか。

 今はっきりさせる必要は無い。答えは自ずと見えてくる。

「私は、鬼だ」

 言い聞かせるようにつぶやく。なんだ、やっぱり怖いんじゃないか。

 私はまた一人で笑った。


 オニは、わかれのみちをえらびました。

 オニは、とおいばしょへいき、わるさをしました。

 ひとの、たいせつなものを、たくさんうばいました。だけど、いのちだけは、うばいませんでした。

 きょうふ、だけを、ほそぼそとたべながら、すこしづつ、ねじろをおおきくしていきました。

 そんななか、いつしか、オニはわるくない。というひとも、あらわれました。

 だけど、オニは、そういうやからを、おいはらってしまいました

 なんねんもかけて、オニは、おおきなくにをてにいれていました。

 しんりゃくにしんりゃくをかさね、きょうふのしょうちょうとして、あがめたてまつられました。


 しんゆうは、うまれたむらで、くらしました。

 いつかかえってくる、そうしんじて、しんゆうはまちつづけましたが、

 オニは、さいごまでむらには、かえりませんでした。

 オニは、えいゆうに、たおされてしまったのです。

 オニのくにはほろび、たすけられたひとびとは、すごくよろこびました。

 めでたしめでたし。


「あ……彩音か?」

 ぱらぱらと、無言のまま読んでいた彩音は、声を掛けられて顔を上げた。白いベッドの上で寝ていた安雄が、訝しげな表情をしながら彩音を見ている。

「おはよう、安雄」

「あぁ……俺は寝てたのか……起してくれればよかったのに」

「今は寝てなきゃ駄目でしょ」

「そうなんだけど……何してるんだ?」

「仕事を兼ねた読書」

「自宅ですればいいだろ」

「わざわざ心配してお見舞いに来た人間にそんなこと言うんだ。応接室と空き部屋をぶち壊してくれたのに一銭も請求しない聖女のような私を追い返そうとするんだ」

「……」

 そう言われてしまうと、何も言い返せなくなってしまう。

 現在、彩音の家は修理中で、穴のあいた壁や床を作り直している。とはいえアトリエや他の部屋は無事なので、作業がしたいならそこでやればいいと思うのだが、どうやら知らない人間が家にいるのは落ち着かないらしく、近くのホテルで部屋を借りて生活しているらしい。

 ちなみに安雄は現在、入院している。

 コンコンと、扉から発せられた音に、彩音と安雄が目を向けると、「失礼するよ、ピーター」と言ってナースが扉を開く。

「誰がピーターですか、どこのだれが」

「不法侵入者よりはマシだろ? 点滴交換するよ」

「……」

 そう言われると、何も言い返せなくなって……彩音のじろりとを睨みつける視線を感じる。自分の知らない所で話すが進むのが嫌なのか、説明しろと無言で言っているような気がして、手際良く針を抜いて点滴を吐けかえるナースを横目に、錆びたロボットのように首を捻り、安雄は窓の外を見た。

 雲一つない青空が広がっていて、とても清々しい。

「そういう態度とるんだ」

「な、なんだよ。迷惑掛けたりしてないから、別に良いだろ」

「ピーター、物干し竿の弁償なんだけど」

「分かってますから、後でちゃんと払いますから今はちょっと待って!」

 屋上に上ったことや、金棒を投げつけたことは忘れていてくれないのか……いや、忘れている。どうせロープを使って不法侵入した男が何らかの方法で物干し竿を壊しただとか、そんな風に記憶の改竄が行われている筈なのだ。しかし、確証は無いので絶対とは言い切れないし、どの程度までが消えているのかも分からない。

 彩音に能力のことは知られて知られたくない。そんな安雄の想いとは裏腹に、彩音はナースに「こいつ何かやったんですか?」と質問してしまう。

「ピーターのこと?」

「はい、何か馬鹿なことをやらかしたなら、知っておきたいなと思って」

「う~ん」

 点滴交換を終えると、ナースは顎に手を当てて考えるような仕草をする。やっぱり、知らない間に記憶改竄が行われている。素手で壁を登って来た男、なんてインパクトのある出来事が、そんな風に思い出さなきゃ記憶から出てこないなんて、普通じゃありえない筈なのに。

 何でピーターと呼んでいるのかも、今となっては分からないのかもしれない。……いや、俺にも分からないけど。

 人知れず、掛け布団の中でグッと拳を握りしめた安雄は、次の瞬間凄まじい衝撃を受けることになった。

「あー、壁を登って来た忍者のお兄ちゃんだぁ」

 ナースの足からひょっこり現れた少女に、安雄は気絶してしまいそうになる。「ああ、そうだったそうだった」とナースも納得するように首を縦に振る。

 なんで、どうして? 記憶が抹消されるんじゃ……?

「忍者?」彩音は首をかしげる。

「そうなの、影一族なの」と笑顔になるみっちゃん。

「そうそう、知り合いを探してるからって、ピーターは何故か壁を登って来たんだ」

「違うよぉ、人知れず任務を遂行しに来たんだよぉ」

「えー、みっちゃん、本当にそんなんだった?」

 流石子供、と言ってしまいそうになった安雄は、なんとか口の中で笑いをかみ砕いた。

 記憶の食い違う二人は、あーだこーだと討論を始めてしまい、当の質問者である彩音を忘れてしまっているようだ。眉間にしわを寄せて、噛み合わない話を聞いて、頭にクエスチョンマークを浮かべていたが、安雄の得意げな表情に気付くと、その額に掌を叩きつけた。

「……その顔むかつく」

 額をこすって彩音を見ると、ふん、と言って車椅子を回転させて扉の方へとタイヤを回す。そのまま出て行こうとする背中に、安雄は「待ってくれ!」と声を掛ける。

「……何?」

「いや……もうちょっと……と思って。その……暇だから……じゃなくて、何て言えばいいのかな、ええと」

「もっと一緒に居たい、と言えば良いじゃないですか」

 ナースの背中から、安雄の心を見透かしたような声が聞こえて、心臓が大きく跳ねた。

 アレックスの長身が、ナースの頭上から室内を覗いている。気配が無いのは相変わらずで、ビクリと背筋が仰け反らせたナースは、つんのめるようにして数歩進む。

「び、び、ビックリした! そして何このイケメン今から下でお茶しません!?」

「HAHAHA 貴女の鮮血で喉が潤せるのであれば、何処へでも行きましょう」

「……何それ、アメリカンジョーク?」

 後頭部に左手を回して、つまらなさそうに言うナースは、「じゃ、他にも仕事があるからなまたねー」と言って右手でみっちゃんと手を繋ぎ、退出して行った。知り合いが増えてきたので気を使ってくれたのだろう。

「やぁヤスオくん、お見舞いに来ましたよ。あ、これはリンゴです」

 かごに入れられたリンゴの山を見せつけると、アレックスは歯を見せて笑った。

 あの騒動の後、下半身を再生させたアレックスは、その場に居た魅紺と時哉の二人と一緒に、安雄を助けてくれた……らしい。記憶が定かでは無いので、聞いた話でしか知らないのだが、過労の入院で済んだのはどうやらその場の処置のおかげのようだ。

「まぁーとはいえ、許したわけじゃないんですけどね!」とイライラを隠そうともせず、腕を組みながら魅紺が言っていたので、間違いは無いだろう。

 アレックスはリンゴの山の一つを手に取り、安雄に押し付けるようにして目前へと近づける。

「おなか減ってますよね? このリンゴ、今食べます?」

「あ、ああ……食べるよ」

 別に空腹感はない。だが有無を言わせようとしない気迫を感じて、首を縦に振る。

 それを見たアレックスは満足そうに笑うと、彩音の正面に回り込んだ。

「そうですかそうですか、では皮を剥かなければいけませんね。しかし私は不器用なのでこういうのは不得手なんですよ……だから先生、お願いできませんか?」

「なんで私が……そういう仕事は安雄が」

「仕事ではなく、見舞いに来たお友達、としてですよ」

 アレックスはリンゴの入った籠に、刃先が丸くなっている子供用の包丁を入れると、彩音の膝の上に置いた。そして、見せつけるように親指を立てる。

「頑張ってくださいね、それでは、私は仕事がありますので」

「今日は日曜日だぞ」

「もう、ヤスオくんは……ではでは、失礼します」

 まるで最初から居なかったような気配の無さで、アレックスはそそくさと退出していった。

 彩音はピクリとも動かないまま、扉を見続けていて、未だに怒っているのか、それともアレックスに突然リンゴを渡されて呆れているのかは分からないが、こっちの方を見ようとしない。

 何と言って良いのか分からず、安雄が頭の中で掛けるべき言葉を探し、ついには「まぁ、実はあんまりお腹が減って無いから」と言おうとした時、「ねぇ……」と彩音が尋ねる。

「な、なんだ?」

「お腹……減ってる?」

「減ってないけど、彩音のリンゴが食べたいな」

「……そっか、なら、しょーがない」

 またくるりと回転した彩音は、安雄の方へ向くと、リンゴと同じように真っ赤な顔を見せ、人差し指で頬を掻く。その初めて見た表情に安雄は驚きながらも、気恥かしさを感じて思わず顔を伏せてしまいそうになったが、目を離すことが出来なかった。

 安雄の傍らまで移動すると、リンゴの籠を安雄の体の上に置くと、その中の一つを手に取り、包丁の刃を当てた。

「うざぎさんつくってあげる」

「うん、ありがとう」

「別に……友達を労わるのは当然だから」


   ※


「おや、そこにいるのは、いつぞやの狐じゃないですか」

「げげ……吸血鬼」

 病室から出てそのまま帰ろうとしたアレックスは、一階のロビーで魅紺と遭遇した。露骨に嫌がる視線を送っているが、悪びれた様子を見せようとはこれっぽっちも思わず、アレックスは堂々と近寄る。偶然出会ったとはいえ、彼女は安雄が入院しているこの三日間毎日通っていたので、タイミングさえ合ってしまえば顔を合わせる可能性は十分にあった。

 その声を聞きつけた少年が、傍らに駆け寄って来る。確か名前は……朝倉時哉と言ったか。先生を助けようとした安雄が協力者として頼った少年だ。この子も酷い怪我をしていて……というよりは自作した結界魔方陣にやられたのだが、アレックスの処置で全快する程度だったので今は元気だ。

 彼はシルエットタイプではないらしいが、こちら側と縁が深い存在らしい。魅紺の正体を知った上で一緒に居るのがその証明だと思える。

 生えていた尻尾は今はもう無い。その方が良い。

「今日もヤスオくんのお見舞いですか?」

「ふん、貴方に答える義務なんてありませんよ、ねぇ時哉くん」

「いや、病院に来る理由なんてそれ以外無いよね、魅紺さん」

「あー! なんで言っちゃうんですか!」

「俺は怪我治してもらったから、目の仇にする理由ないし」

 もー! と怒る魅紺に、ははは、と困ったように笑う時哉。そんな二人を見て、アレックスは姉弟のようだな、と思った。ほほえましい様子を見せつけられて少しだけ安心する。

 取り返しのつかないことにならなくて本当に良かった、と。

「しかし、それとこれとは話が別ですからね」

「はい?」「え?」

「貴方達にはここで帰って頂きます」

 アレックスは両手足を大の字に伸ばして、とうせんぼのポーズになり、魅紺と時哉はピタリと口を閉じてしまった。

「……どういうこと?」

 恐る恐るといった面持ちで時哉は理由を尋ねる。アレックスは魅紺の方を見ると、高らかに宣言するように言う。

「今、二人は良い感じなのです!」

 魅紺の愕然とする表情を尻目に、HAHAHAとアレックスは高笑いをする。

 涙目になった魅紺は親の仇を見るような目でアレックスを見た。

「ちょっと、まさか、何か余計な真似をしてくれたんじゃないでしょうね」

「HAHAHAHA そのまさか、させていただきましたよ。わざわざ看護師さんから包丁を借りてまでしてね。今頃はベタ甘ラブラブな空間が完成しているでしょう」

 自分で言っておきながら全く想像出来ない光景だが、良い雰囲気になっているのは確かであって欲しいので、まぁ過剰な表現すぎるくらいでもいいだろう。言うだけなら自由だし、言霊ってこともある。

「あ、あなた……それは今までされた仕打ちの中で一番酷いですよ!」

 ふらふらと、魅紺はまるで立ち眩みをこそしてしまいそうになっている。どうやら大ダメージだったようだ。その隣にいる時哉なんかは、つまらなさそうにふわぁと大あくび。

「貴方は狐の恋路には興味はないのですか?」

「まぁ俺は、安雄さんが幸せならそれでいいと思うから」

「うんうん、良い心がけです。こんな年増に安雄くんは勿体無い」

「え、どういうこと?」

 純粋に、何を言っているのか分かっていない様子の時哉に、アレックスは意地悪そうな笑顔を作る。

「狐は何百年単位で生きる種族ですからね。あの狐は確か四尾でしたから、単純に考えて四ひゃ――」

「余計なことをいうなぁぁぁー!」

 ふぅん、と興味のなさそうな時哉。年齢に悩む意味が分からないのだろう。意外とまだまだ純粋な子供らしい。

「時哉くん! 聞いてないですよね!」

「うん、まぁ、聴こえなかった……かな」

 しかし、空気は読めるようだ。あたふたする魅紺の状態を見れば、どういう回答が正しいかは一目瞭然だろう。ホッと胸を撫で下ろした魅紺は、気を取り直してアレックスの方へ向き直る。

「どうです、聞きましたか? 時哉くんは何があっても私という乙女の味方です!」

「あ、うん。そうだね……で、どうするの?」

「押し通ります!」

 アレックスの両目が赤く光る。

「させません!」


 ※


「ねぇ、これは何に見える?」

「ん……、カブトムシさん?」

「ウサギさんだよ」

「そっか、可愛いのには変わりない」

 納得がいかない表情をしながらも、彩音は指先でつまんだリンゴのカブトムシさんを安雄の口元へと運んだ。ジューシィな甘みが口の中広がり、これは良いリンゴだなぁ、とアレックスに感謝してしまう。不味い病院食は飽き飽きしていたのだ。

 傍らの台に置かれたお盆の上には、ボロボロになったリンゴが散乱している。俺がやる、と言いたくなる衝動を押さえてこみ、たどたどしい手つきで皮を剥く姿を見ながら、どれも失敗ばかりで、ようやく最初の一個を食べられた安雄は少しだけ満足した。

 やっぱり、彩音はセンスが無い。でも、こんな風に労わってくれるだけで、この上なく嬉しい。

「何笑ってるの?」

「いやいや、練習すれば上手くなるよ。どんどん作ってくれ」

「上から目線ね」

「俺だって必死で勉強したからな。最初から上手かったら逆に立場が無いよ」

「あ、そう……」

 視線をリンゴへと戻すと、彩音はまた刃をあてる。

 彩音の家で働くことが決まった時、何をすれば分からなかった安雄は、とにかく勉強をした。家事、炊事、料理について、まずそれが出来ないと話にならない。と当時は思ったもんだ。インターネットで情報を集め、本屋で料理本を買い集めたりもした。その時に偶然彩音の絵本を偶然見かけた時は、他の本を呼んでいる客に「これオススメですよー!」と高らかに言いたくなっていたりもした。必要とされたのが嬉しかったのだ。だから、結果でその期待に答えたかった。

 そこに苦痛の入り込む余地は無い。例え料理が不味いと言われれば、美味いと言われるように努力をするだけだし、こうやって酷い目に合って入院することになっても、それが彩音の為に起した行動の結果であれば……むしろ何もしなかった方が安雄にとっては許せない。

 そう……思っていた。だけど、今回の件に関しては違う。

 俺は、彩音の命を危険に晒した。

「なぁ、彩音」

「何?」

「俺は、お前の為に頑張りたかったんだ」

 もっと他の方法はなかったのか? 不調の理由だって、もっとはやく気付くことだって出来た筈なのに。アレックスの話を聞いて魅紺が使えないと知り、結局何一つとして彩音の役に立てなかった自分の不甲斐なさに、泣きたくなった。

 リンゴと包丁を横に置いた彩音は、安雄に手を伸ばす。

「知ってるよ。ありがとね、安雄」

「うん……」

「泣くな、馬鹿」

 俯き、そっぽを向いた安雄の頭を、彩音は優しく撫でる。

 それだけで、報われた気になるから不思議だ。実際は何も解決しておらず、スランプ脱却の目処が立ってないのが現状なのに。

 目元をぬぐいその手を見ると、濡れてはいなかった。

「ねぇ、約束しよっか」

 安雄が振り返ると、俯いた顔を覗き込もうとする彩音と目があった。妖怪の全てを見透かし、様々な人間を観察してきた瞳に、安雄の顔が移されている。吸い込まれてしまいそうな錯覚を受け、いっそ入り込んでしまいたくなる想いを胸に、じっと黙って見つめ返す。

 すると、瞳の奥に移る自分の顔がブレた。まるで型の古いテレビに砂嵐が入るように、

 自分の代わりに現れたのは、とある少女の姿。

 憂いを帯びた表情を安雄に向けている。黒いボブカットの髪に、赤い和服。そして、額には尖った――

「安雄?」

 ハッとして彩音を見ると、少女は消えていた。

「気分が悪いなら、ナースコール押す?」

「いや、いい……」

 心配そうに見る彩音をなだめると、安雄は空気を吸った。どうやら、呼吸が止まっていたらしい。どくどく跳ねる心臓を落ち着かせると、手の形をグーに変えて彩音の目前に置き、小指だけを伸ばした。

「約束って言ったらこれだろ」

「……いいの?」

 何が? と言おうとしたが、声には出さなかった。たかが口約束で良いも悪いも無いだろう。おかしくなって、安雄は笑った。

「自分から言い出しておいて、なんだそれ」

「そうなんだけどね、うん」

 安雄の小指に、彩音は小指を絡ませる。

 友達なんて居なかったから、懐かしさを感じることもなく、むしろ新鮮だった。

「えっと……まず、落ち込んでる時は相談すること。次に、一人で頑張りすぎないこと」

「一個じゃないのか!?」

「……じゃあお互い一個ずつにしよう」

「俺も良いの? ……でもいいや。何も思いつかないし、それに、彩音を縛りつけたくないんだ。彩音には自由で居て欲しい」

「それ辞めて」

 安雄の小指に痛みが走る。彩音がもう片方の手で強く握り締めている。

「私をそんな風に見ないで。何処にでもいる女子だってこと、忘れないで」

 カクカクと、壊れた人形のように首を振る。

 それを見た彩音は満足そうに鼻を鳴らすと「じゃ、二つ目」と言って、絡めた小指を離そうとしない。

「まて、一個ずつじゃなかったか」

「自由でいて欲しいんでしょ?」

「なっ……じゃあ、俺も今から考える」

「残念でした。安雄の約束は私が自由に振舞うことで既に終了でーす」

 カクリと頭を落とした安雄は、きっついなぁ、と思う反面。まぁ良いかと思う。どうせ約束なんて思いつかないし。それでもあえて言うなら「必要としていてください」だろうか? 

 そう言ってしまうのは、ズルイような気がした。

「そこまで不安がらないでよ。別に無茶を言うつもりは無いし、これで終わりだから」

 俯いた顔を持ち上げる。すぅ、と大きく息を吸った彩音は、真剣な目で安雄を見た。

「無茶をしないこと」

 両手が、離される。

 自由になった手が、行く場を探してふらふらと、まるで、もっと触れていたかった。と言っているように、名残惜しく、その手の感触を求めて……自分のベッドの上に落ちる。安雄は何も言わずに、その手を掛け布団の中へと押し込んだ。

「彩音は優しいな」

「そう? 思い込むのは勝手だけど、ちゃんと守ってよね」

「分かった。死んでも守る」

「死ぬくらいなら破ってよ……通じないなぁ」

 ハァ、と特大のため息を吐いた彩音を見て、安雄は首をかしげた。

 まあいいや、と独りごちた彩音は車椅子のタイヤを掴むと、扉まで移動した。

「言いたいことも言えたし、そろそろ本当に帰るね。私が居なくなったからって、泣くなよ」

「泣いたらここに居てくれるのか?」

 彩音は呆れた笑みを浮かべるが、その目は笑っていない。

 心配してくれているのだろう。今までこんな弱音を吐いたことは無かったから。いつもと違う安雄の様子を見抜いている。

「……じゃあね」

 そう言って扉を開けようして手を伸ばした。が、ノックもなく、それより先に扉は開けられた。

 対面した二人は目を合わせ、同じようにぱちくりさせる。

 続けてその後ろから「しまった!」と悲鳴を上げるような声が聞こえてきて、帰った筈のアレックスが現れ、背後から肩を掴もうとする。それをするりと避けると、

「やっすおー! 元気ですかー!?」

 魅紺の元気すぎる声が、耳に突き刺さる。

 彩音には目を向けず、まるで障害物を避けるようにして安雄の傍らによると、丸イスにペタリと座りこんだ。絶対に動かない、という意志を感じ取った安雄は、せめてもう少し遅れて来てくれれば……という想いを込めた目線を、額に手を当て天井を仰ぐアレックスに向けた。

「はいこれ、餡蜜です! この前デートで一緒に行った時に、食べられなかったですよね」

 チラリと、ほんの一瞬だけ、魅紺は目だけで背中越し彩音を見た。眉間にしわをよせた彩音の目が、安雄に向けられている。ていうか、デートってなんだ? 「ま、まて……」と言って発言を訂正しようとするが、魅紺が止まってくれない。

「いやぁ、美味しかったですねぇ。あの時に食べた味が忘れられなくて、もう一度行ってしまいましたよ。安雄が誘ってくれたおかげで私は新たな幸せに出会えたのです。だからこそ、安雄もこの味を知るべきですよ」

 魅紺が熱く語っている最中に時哉がやってくる。安雄が目で助けを求めるが、悪いね、とでも言いたげな表情を作り小さく微笑むと、音も無く引き返してしまった。

 おい、俺と仲良くしたかったんじゃないのか!? 誰の味方なんだお前!?

「私の話を聞いてくれて、しかも、必ず助けると約束までしれくれて、本当に嬉しかったのです。安雄の大らかな愛に触れてしまった私はもう、あなたのことが……」

「まてまてまてまて、ストップ!! お前あることないこと適当言いすぎだ!」

「そうなんだ」

 まるで頭上から稲妻が落ちたような、恐ろしさと、脳髄の痺れるような感覚が安雄を襲った。彩音がヤバイ。凄まじい怒りと、今から死に行く者を眺めているような憐れみと、ゴミを見るような目と……とにかく、色々なものが混ざった感情が、安雄にブチ当てられる。

「つまり安雄は、この綺麗なお姉さんに、私の元で働いて得たお金を貢いでたんだ」

 言いえて妙だな、と感心してしまいそうになった安雄は、ハッとして「違うんだ!」と言おうとして、大失敗を犯してしまったことに気付いた。

「ちが! ち……がぁ! ちぎゃ!」

 声が出ない。副作用が安雄の喉を縛りつける。

 言いえて妙、と思ってしまったということはつまり、彩音の言い分は正しいと認めたということ。例えそれが一瞬でも、ほんの少しでも、例外は無い。魅紺は分かってやったのか、それとも……いや違う。そこまで狡猾な性格ではないことは分かっている。彩音への攻撃であることは間違い無いだろうが、流石に副作用を利用までは考えないだろう。根っこが真っ直ぐなのだ。良くも悪くも。

「貢ぐだなんて失礼な! 私と安雄の関係はそんな不純ではありませんよ!」

「私は安雄に聞いてるから、別にアンタの意見は求めてないんだけど」

「ふんだ、安雄のこと振り回した挙句にこんな目に合わせちゃう女より、私の方が安雄には相応しいもん!」

 ヤバイ、死にたい。いっそあの時アレックスに殺されておけばよかった。

 彩音は手に持っていたA4サイズの用紙をクシャクシャに丸めると、安雄に向かって投げつけた。それは鼻先にぶつかる。

「こんなつまらない物語要らないから捨てといて、じゃあね!」

「まってくれ、おい、彩音!」

 ベッドから飛び出そうとした安雄は、不意に体から力が抜けてしまい、床に頭から落下した。どうしてこう肝心な時に能力は機能してくれない。顔を上げる頃には彩音の姿は消えていた。

「な、なんでこうなるんだよぉ……」

 どれだけ苦しくても、悲しくても、理不尽だと思っても……涙は流れない。


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