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英雄と人と妖怪と

 上の階から物音が聞こえて、安雄は顔をしかめた。それを見たアレックスが意地悪そうな笑みを作る。

「なるほど、貴方はオトリでその隙にもう一人が助ける。そういう手筈ですか」

「何故ばれた!」

「貴方が正直者だからですよ!」

 金棒を頭上まで持ち上げ、肩口を狙って振り落とす。アレックスは、体を捻って避けた。代わりに叩きつけられた床に大穴が空き、痺れるような衝撃が手に伝わる。

 両手から金棒が離してしまいそうになるのを安雄は歯を食いしばって堪える。これを手放してしまったら、一方的にやられてしまうのは目に見えていた。

 安雄の頭を割らんと手刀が振り下ろされ、それと同時に、安雄は金棒を振り上げる。

 手首が千切れ跳び、天井に突き刺さる。アレックスの鋭い動きを、安雄の眼球がひたすら追いかける。一瞬でも気を抜けば、いつ首が飛んでもおかしくはない。既に時哉との追いかけっこで体力を消耗している安雄は、長期戦になれば間違いなく負ける。勝つには、この金棒の破壊力に頼る以外方法は無いのだ。

 アレックスは顔を顰めると、大きく後ろに飛んで距離を取った。

「その破壊力には舌を巻きますよ。ですが、ぶんぶん振りましても疲れるだけでしょう?」

「余裕見せてる割には、後ろに逃げすぎだ!」

 挑発に挑発を返した安雄は走り、アレックスとの距離を一気に詰めると、金棒を横殴りに振るった。

 凄まじい勢いで風を切り接近するが、命中には至らない。アレックスは両手を床に付けて回避すると、頭上を通り抜けた金棒はスピーカーをバラバラに弾け飛ばした。

 握りこむグリップから血が滴り、安雄は歯を食いしばって耐える。

「手が痛いんでしょう? ちゃんと頭を狙って下さいよ」

「頭は潰さない、話が聞けなくなるからな」

「いい加減しつこい!」

 金棒を制御しきれず、安雄は振り回されている。

 金属バットから作られた金棒は凄まじい威力を持つが、その分重さが大きく増してしまい、大振りにならざるを得なくなるのだ。それを知ってか知らないでか、アレックスは一定の距離を取りながら安雄の攻撃を避け続けていた。

 何度も何度も空振りさせて、体力の消耗を狙っているのかもしれない。しかし、分かっていても安雄には手を止めることが出来ない。アレックスの目に、この金棒の力を焼き付けさせる為だ。必要以上に距離をとるのはこの破壊力に恐れを抱いているからだと想像した安雄は、そう思ってくれている間にしか勝ち目はないのだと考えていた。

 しかし、そんな考えは杞憂だった。アレックスはただ大振りによって生じる隙を探していただけだったのだ。

 アレックスは回避と同時に旋回し、一瞬、安雄に己の背中を見せつけると、懐まで瞬時に飛び込み、強烈な回し蹴りを放つ。

 長い脚が突き刺さるようにめり込んだ。腹に激痛が走り、まるでスローモーションの映像のように見えた安雄の目が苦痛に歪められ、足がゆっくりと体から離れていく、と思った瞬間には後ろに吹き飛ばされており、堪え切れずに背中から倒れた。

「もう十分でしょう」

 アレックスは勝ち誇るわけでもなく、むしろ残念そうに言う。

「貴方は吸血鬼相手によく頑張りました。褒めてやりたいです。タイマンでここまで頑張れたのは誇っていいですよ」

 しかし、言葉とは裏腹に、安雄は金棒を杖にして立ちあがった。

 アレックスの目が驚愕に見開かれる。

「何故……立てるのですか」

「お前が前を向いていないから、俺は立つんだ」

 安雄はベタついた口元を袖で拭う。どうやら血を吐いていたらしい。赤くなった手を見て、可笑しそうに笑みを浮かべた。

「それに、お前が力を弱めたのも理由の一つだろう。痛いのは確かだが、痛いだけで済んだ」

「そんな……私は……」

 常人なら起き上がれないどころか、腹を破られて死んでいたであろう。さっきの蹴りは、それ程の威力があった。しかし、安雄はこうして起き上がり、疑問に対して返事を返せるだけの余裕がある。

 アレックスは、意気消沈と言わんばかりの表情になり、顔を俯けている。どうやら蹴りの威力を無意識に弱めてしまった。という事実が自分でも信じられないらしい。棒立ちの体が震えている。

 安雄は再度説得を試みる。痛む腹を無視しながら、アレックスを見た。

「なぁ、本当はこんなことやりたくないんだろ?」

 アレックスは答えない。聴こえている筈なのに、無視を決め込んでいる。

 声を出すのが苦しい。起き上がるまではよかったものの、やはり痛みは尋常でなく辛い。荒い呼吸を繰り返しながらその姿を睨みつけた安雄は、息を大きく吸って深呼吸をした。冷静にならなければ、相手の思う壺でしかない。

「おや、諦めるのですか。なら私は上の階へ行きますよ? あなたのお友達も一緒に殺してやりましょうか」

 安い挑発だ。本気でそう思っているなら、自分など無視してさっさと向かえば良い。

 ズレた発言だと笑ってしまいそうになるのを堪えた安雄は、何をどうすればこの状況を収められるのか思案した。

 アレックスは己の正体をとある組織の諜報員だと明かし、その目的は英雄について調査なのだと語っていたが、そもそも英雄とは一体何なのだ? 

 魅紺の話では、人に強い影響を与えようとする妖怪を退治する者と聞いているが、その説明だけではイマイチ実態が見えてこないし、何より魅紺自身も話を聞いただけでしかその存在を知らない。そもそも、暴れだした妖怪をどうやって見つけるのだ? そういった能力を備えているとすれば、人間よりも妖怪に近い存在だと考えられるのか? 

 ……分からん。これらの考えは所詮、想像の域を出ないものだ。

「なぁ、アレックス。英雄って何だ」

「はい?」安雄の質問が意外だったのだろう。アレックスは首を傾げた。

「お前が調査していた英雄という存在は、一体何なんだろうと思ったんだ」

 安雄は金棒を床に立て、杖のようにして体重を乗せた。声には出さなくても、戦う気が失せた。と言っているのが伝わったのだろう。目論見どおりに事が運ばない現状に嫌気が差したのか、アレックスは嫌悪感の混じった顔を伏せると、小声で呟いた。

「どこまで……私の目論見を看破しているのですか」

「知らないよ。だから、さっきから話せと言っているだろ」

「ならば何故、戦いを辞めるのですか。私は話をする為に貴方を呼んだのではない。戦闘を、血の滲む殺し合いをするのが目的で、人質まで用意したのです。それなのに、ここまで状況を悪化させてやったのに前へと進まないなんて、可笑しいですよ!」

「……なんとなくだが、少し分かったぞ」アレックスの叫びに似た訴えを聞いて、ある発想が頭に浮かんだ。安雄はそれを迷わず口にする。

「アレックスが今こうして暴れているのは、英雄を呼びだす為だ。力を使って世界に影響を与え、英雄に自分を発見させるのが目的――」

「言うな!」

 繰り出されたアレックスの拳を、安雄は掌で受け止めた。

 最初は目で追うことすら不可能だった動きが見えるようになっているのは、相手が本格的な拒絶を始めたからだ。今のように暴力で無理矢理隠そうとすれば、安雄の『暴こうとする力』はそれに対応した力をより強化していく。それを知らないアレックスは、まさかの光景に目を白黒させた。

 こうして片手を掴んでいるのだから、絶対に避けられない。

 隙あり、と言わんばかりに、安雄は空いた手で金棒を振るう。防ぎようの無い一撃が、アレックスの両足を吹き飛ばし、衝突した窓ガラスを破って外に放り出される。

 分離された足は雨水を浴びると、まるで火に炙られるような煙を立ち上らせ、数秒後にはまるで元から存在しなかったかのように消え去った。

「はは……私の負けですね」

 満足そうにアレックスは言う。

 安雄が手を離すと、上半身は床に落ち、仰向けになって倒れた。

「さっきみたく、すぐに生やせばいいだろ」

「小さな部位ならすぐ再生しますが、流石に体の半分は時間が掛ります。なので、貴方が止めを刺す方が早いですね」

「なら、ゆっくり話そう。その間に回復してくれ」

 アレックスの傍らに座り込み、金棒を投げ捨てた。金棒は手から離れた瞬間に、形を失い霧散する。

 止めを刺されるのを待っていたアレックスは安雄を鋭く睨みつけたものの、その表情は諦めたようなもの変わった。

「もう、先生のフォローを続けるのは限界なんですよ」

 アレックスは、安雄の言葉に促されるように、ぽつりぽつりと語り始めた。


   ※


 綾音の指示を受け、すぐさま部屋の奥まで向かった時哉は、ある扉の前で立ち尽くしていた。

「なんだ……これ……」

 扉越しからでも伝わってくる異様な空気は、まるで充満したガスが逃げ場を探して漏れだしているような恐ろしさを感じさせ、これを開けるのは自分なのだと思うと、額から冷や汗が落ちた。中ではおぞましい行為が行われているに違いない。

 ごくりと生唾を飲み込み、ドアノブを捻って扉を開く。

 それと同時に、何かが焼けているような鼻につく臭いが顔にぶち当たった。まるで獣のゲップを浴びたような不快感に顔を顰めた時哉は手で顔を抑え、室内の隅々を凝視する。

 室内に明かりは無く、窓は閉じられたカーテンによって隠されている。開けた扉から廊下の光が入り込み、二つのベッドに、その間に置かれた戸棚に小さなランプがあるのが見えるだけで、これといった特に危なそうな物は見つからず、魅紺の姿も見えない。

 しかし、おぞましい感覚は依然消えていない。

 むしろ、扉を開けたことで更に強さが増しており、尻込みしてしまいそうになる。

 一見すると普通の部屋でしかないのに、まるで肉食獣の胃の中に来たような感覚がある。何が原因でこれほどの恐ろしさを感じているのか、その原因が見えないのが恐怖心を更に煽り、時哉の全身に鳥肌を立たせている

 それでも、時哉は踏み込んだ。

 ピシャリと、まるで水たまりに踏み込んだような音がして足下を見ると、真っ黒の汚水にしか見えないものが、部屋全体に広がっている。しかもローションのような粘り気があるらしく、慎重に歩かなければ転んでしまいそうだ。

 一歩ずつ前へと進んでいく。自分の足音だけが室内に響き、扉からでは見えなかったベッドの奥に目を向けると、うごめく人影が見えた。

「う……あぁ……」

「魅紺さん!」

 うめき声が聞こえて、奥へと向かった時哉は愕然とした。

 見なければよかった、と後悔するほどに。

 黒く、ねっとりした粘液に濡れた触手がうじゃうじゃと溢れるように存在し、それらに全身を縛られ、引きずりこまれようとしている姿が目に焼き付いた。魅紺は渾身の力で抵抗しているように見えるが、まるで触手はそれを分かった上で弄んでいるようだ。

 魅紺が横たわる床には、呪文のような文字びっしりと描かれ、それらの文字は魔方陣のような模様を描いている。魅紺の下半身その中に飲みこまれており、その姿はまるで食虫植物に捕食された獲物のようで、動けない魅紺はまるでゆっくりと消化されているようしか見えない。

 そんな壮絶すぎる光景を茫然として見つめていた時哉は、ハッとして意識を取り戻した。

 急いで駆け寄り、助けようと手を伸ばす。だが、

「駄目! 触れないで!」

 魅紺の悲鳴のような声が、その動きを止めた。

「触れると私みたいに時哉君まで捕まってしまう……触れさえしなければ大丈夫だから」

 無言で時哉は手を引っ込めると、素直な己をぶん殴ってやりたくなった。

 今、自分がどんな顔をしているのか分からない。助けるな、と言われて、悔しがっているのかもしれないし、ホッとしているのかもしれない。そんな迷いが胸の中にあるのが、非常に気に入らない。

「ごめんね……こんなことに巻き込んで……」

 涙を流し、喉をしゃくりあげながら魅紺は謝った。

 時哉は黙ったまま、何も答えない。

 一言でも答えようとすれば、弱音が漏れ出してしまいそうだから、一度でも泣き言を吐き出してしまえば、もう立ち向かえなくなってしまう気がするから……口をぎゅっと閉じると、座った目で触手を見据える。

 この状態のまま時間が経過すると、どうなってしまうのか時哉は知らない。知りたくも無い。知ってしまうと毎晩悪夢に魘されそうな予感がする。今こうして正気でいられるのは、残留した副作用が認識能力を低下させているからだ。こんなものを直視していては、まともな精神状態ではいられない。

 安雄でも、これを目前にしては何も出来ないだろう。

 だからこそ、自分が魅紺を助ける。

 沸き上がろうとする恐怖を捻じ伏せ、触れれば危険なら道具を使って何とかすればいいと考えた時哉は、ベッドの脇に設置された棚の上にあるランプを掴み、魅紺に絡みつく触手に向けて降りおろした

「時哉くん、駄目!」

 触手は瞬時に反応を見みせる。複数ある内の一本が矢のように飛び出し、ランプを弾き飛ばすと、同時に別の触手が鞭のようにしなり、時哉を薙ぎ払った。全身を揺さぶる衝撃が襲い、体が扉まで押し戻される。

「離れて、お願いだから!」

 なんだ、痛いって言ってもこんなものか。時哉は鼻で笑ってしまいそうになった。

 これなら、安雄に投げられたトゲの固まりの方が、百倍痛い。

「俺は……信頼に応えたい」

 両手で顔を覆い、何も見えない状態のまま魅紺の元へと踏み出す。

「時哉くん! やめて!」

 叩きつけによる触手の攻撃は、縦横無尽の角度から襲いかかってくる。一歩踏み込む毎に、威力が増し、跳ね退けようとする強い意志を感じる。だが、それでも時哉は止まらなかった。

 走り続けることができなくなっても、決して止まらない。何度も何度も何度も繰り返される攻撃に、体がバラバラになってしまいそうな痛みを堪え、一歩ずつ前へ進んでいく。

 ふと、攻撃が止んだ。両手のガードを解き正面を見ると、ミコンの泣顔が近くにあるのが分かる。あと少し……。 

「時哉くん、お願いだから!」

 懇願するような悲鳴が聞こえた瞬間、いままでとはケタ違いの威力が頭上から襲い掛かる。咄嗟に両手で頭だけは守ったものの、倒れこむ形で全身が床に叩きつけられた。

 圧迫が苦しい、呼吸が出来ない、内蔵のすべてを口から吐いてしまいそうだ。体をなんとか動かそうとするがピクリとも動かない。どうやら、とんでもなく重いものが上からのし掛かっているらしい。

 圧し掛かる重みが消え、なんとか首だけを上げてその正体を確かめようとした時哉は、黒い触手の何本もが巻き付き、工事現場にある鉄骨ほどの大きさになっているのを見て息を飲んだ。

 焦った時哉は片手で頭を押さえたまま、もう一方の腕を使って立ち上がろうとする。が、床の泥濘がそれを許さない。持ち上がりかけた体が一回転し、仰向けの形で転んでしまう。天井に顔を向け、二つのベッドが宙を浮いているのを見た。沢山の触手が頭上で蠢き、ベッドの足を掴んで持ち上げている。これを落とされたら死ぬかもしれない……そう思った時、時哉は観念した気持ちになると同時に、大声で笑ってやりたくなった。

 これまで、軽い気持ちで悪事に手を染めてきた自分が、いざ本気を出して頑張っても、一人の女すら助けられない。

 本当にどうしようもない屑だ。こんな奴、死んだ方がいい。力尽きるように目を閉じると、大声が耳に突き刺さる。

「時哉くん立って! 早く逃げて!」

 無理だよ、と言う気力すらない。体はもう限界だと悲鳴を上げていて、抵抗をする余裕すらない

「駄目、絶対駄目! 時哉くん!」

 殺されてやる覚悟だってある。最後の最後まで自分勝手だ。

「……御免なさい……許して下さい。……私が悪かったです。だから時哉くんだけでも……」

 ふざけるな。

 魅紺の、謝罪の言葉が聞こえて、閉じた瞳に熱さが宿るのを感じた時哉は、両目を大きく見開いた。

 鼻先まで落ちかけていたベッドの角を回転し横に避け、全てを諦めた顔をした魅紺に向かって大声で叫ぶ。

「悪いのは俺だ、俺が全て悪いんだ、俺の責任なんだよ。なんでアンタが謝るんだ!」

「だ、だって……私が渡したから……」

「俺が、やりたいようにやったから、死んで当然なんだ」

「死んで当然なんて言わないで下さい!」

 時哉の大声を途中でかき消す、魅紺の叫び。

「あの時私が尻尾を落とさなければ、こんなことにはならなかった! 彩音さんから手紙が来たときだって、ちゃんと安雄に連絡していればこんな目に合うことも、時哉くんをこうして苦しめることも……なかったのに……」

 尻尾を落とした……? 最後の方は消え入りそうになっている魅紺の声を聞いて、時哉の思考が遥か過去へと遡る。そういえば、安雄と出会った時、代理で来たと言っていた。目的は確か……尻尾を返してもらうこと。それは、誰から依頼されたものだったのだろう。

 考えるまでもない筈だ。時哉は半ば睨むような目で、魅紺を見つめた。

「私を……恨んでますか」

 そう確信しているのか、伏せられた顔はどんな表情をしているのか時哉には見えない。

 確かに、尻尾の力で人生は大きく変わった。金に困らなくなったし、気に入らない奴は社会的に抹殺した。そういった好き勝手を約束された一方で、何をやっても満たされず、楽しくなくなった。

 結論は、既に出ている。

「そんなわけねぇだろ」

 安雄がそうしたように、困った人を助けたりすることも出来た。ただしなかっただけで、人の為に使えなかったのは、自分自身の心が選んだことだ。そこに魅紺は関係ない。だから、魅紺が謝るのはお門違いなのだ。そう思うから、自分自身の願い……安雄と仲良くなりたいという想いを手に入れられたのが、とても嬉しい。

 大切な物があれば、力を弄ばなくて済む。力に持て弄ばれることもなくなる。

「だから……そんな風に後悔しなくていいよ」

 時哉は這い蹲りながら、それでも、少しづつ魅紺へと近づこうとする。そういえば彩音さんも、こうやって少しずつ移動していた。

「魅紺さん……手を……」

 伸ばされた左手が、魅紺の目の前にある。

 涙目はそれを見つけ、呆然と何かを思い出すように、ぽつりとつぶやいた。

「あの時と……同じ手……」

 時哉の手を、魅紺は掴んだ。

 渾身の力を込めて、魅紺を引っ張りだす。触手が絡みつき、ここから逃がさないと言わんばかりに捕まえる。

「ああああああああ、絶対離さない!」

 時哉が雄叫びをあげると、空いた方の手が肥大化し、黒い体毛で覆われる。部分的な変身は過去に練習していた時期もあったが、実際に成功したのは初めてだった。筋力が増強された左腕で、触手を強引に引きちぎる。自由になった魅紺の体を抱き抱えると、出口まで一気に走った。

 すると、触手の纏まりが出口へと集まろうとしているのが見えた。壁になって通れないようにするのだろう。そうはさせないと言わんばかりに、部分変身のコツを掴んだ時哉は大声で叫ぶ。

「速さを!」

 自分自身を真っ白にするのではなく、何かに成りたいと願うのでもなく、ただ単純に、心のまま純粋に欲しいものを強く求めれば、選ぶ必要も無く変身は完了する。

 四本足になった時哉は凄まじいスピードで駆け抜け、集まろうとする触手を横目に、部屋から飛び出した。


   ※


「最初に説明すべきは、先生のことですね。彼女は正真正銘の英雄です」

「へぇ……」

「驚かないのですか?」

「驚きすぎて……声が……」

 出ないんだよ、と言おうとした安雄は、口元を両手で抑え込んだ。それ以上に凄まじい嘔吐感が胃からせり上がり、全身から大量の汗を滴らせる。

 アレックスが逃げることを辞め、正直に話をしてくれるのは有難いが、それによって能力も消えてしまい、凄まじい反動を身に受けている安雄は、咄嗟にアレックスから背中を向けた。

 安雄は言い淀むアレックスに背を向けたまま「それで……?」と言って続きを促す。

「……彼女は特別な力を持っていて、絵本を描く際にはそれが利用されていました。と言っても。彼女は意識してその力を使っていた分けではないので、本人は自分が英雄だと自覚していませんがね。私が先生と共に仕事をしていたのは、それが理由です」

 嘔吐感を抑え込みながら、なんとか話を聞く。英雄とは魅紺や俺達のような存在が大暴れした際に動き出し、人間に大きな影響を与えようとする者を始末する存在。と、安雄は認識しているが、それが彩音だと聞かされても拍子抜けというか、今一つ恐ろしさが伝わってこない。

 安雄は目だけをアレックスの上半身の方へ向けると、震える声で質問をした

「つまり、彩音には何らかの能力があって、アレックスはその調査をしていたってこと?」

「はい、そして分かったことなのですが……先生には、我々のような存在と会話を行うことで、その人と関わりのある妖怪の背景を探る能力があります」

 会話を行うことで、妖怪を……? 彩音が人と話をするのは、制作スタイルという奴ではなかったか? 

「我々の様な存在が普通の人間と関わると、その記憶が消えてしまうのは知っていますか?」

 安雄は頷いた。それについては魅紺から既に色々聞いている。

「平たく言えば、本人が全く気付かないその消えてしまった記憶に干渉し、妖怪が過去に何をしていたかを見抜く能力ですね。実は妖怪が人間にちょっかいを出すことは結構多いのですよ。例えばヤスオくん、カッパって知ってます?」

「……頭が皿で有名な奴だろ。キュウリが好きな」

 アレックスは頷く。

「彼等はよく子供が川で泳いでいるのを見かけると、足を掴んで引きずりこもうとするのですよ。でもまぁ、最近の彼等は取って食うことはせず、溺れさせて遊ぶ程度らしいですけどね。そんな酷い目にあったとしても、普通の子供は足が攣ったとか、草が絡まった程度にしか捉えられません。ところが、その子供と先生が話をすると、全てが明るみになります」

 その河童に引っ張られた子供と話をすることで、過去にその河童が何処で何をしてきたか、世の中でどう生きてきたのかを理解することが出来る。彩音は、それを自分のアイデアと勘違いして、今まで絵本を描いてきたということか。

 つまり、彩音の描く絵本はファンタジーなのにノンフィクションということ。

 もし何も知らないまま魅紺を連れて来ていたら、魅紺の半生をそのまま書き写して発表していたことになるのか……そう思うと、それについて知っておいて良かったと思える。相手は妖怪といはいえ、世界中の人々に向けてプライベートを発信するようなものだ。無自覚とはいえ、取り返しのつかない失敗を犯すところだった。

「……分かったよ……色々分かった」

 反動とは別種の胃痛に顔を歪めた安雄は、全身の力が脱力するのを感じた。

 魅紺が使えないとなると結局、これだけ体を張ったというのに、結果的には何一つとして解決には至らなかったということだ。

「……すみません、先生と共に歩む者として、ヤスオくんには伝えておくべきでしたね」

 アレックスの謝罪を聞いて、首を横に振る。

「別に良いさ、アレックスが吸血鬼で、彩音が英雄だなんて、今までの俺じゃ言われた所で信じないよ」

「……そうですよね。今更謝っても許されるはずがないと思うのですが……」

 言い辛そうにするアレックスを横目にちらりと見ると、少し顔が赤くなっている。

「私は、先生のことが好きになってしまいました」

 咄嗟に振り返ろうとした安雄は、「いえ、恋愛感情じゃないですよ」と補足するアレックスの声を聞いて動きを止めた。

「それが最大の誤算でした。このまま、人として生きるのも悪くないな、と思ってしまったのです。吸血鬼如きの分際で人間としてだなんて、おこがましいですね」

「そんなこと無いと思うぞ」

 間延びした声で否定する。

「それを言ったら、俺だって似たようなものだし……それに、もしアレックスがもしそう思わなかったら、彩音は今頃もっと大変なことになってたんだろ? そっちの方が俺は困るよ」

 フォローになっているか分からない言葉だが、アレックスには自信を持ってほしい。人間らしい心を持ったアレックスに彩音が救われたのは事実なのだ。

 調査、報告、と来て、次にどんな行動を起こすのかは知る所ではないが、重い顔で俯くアレックスを見ていると、少なくとも今のような生活は失われるのだと想像するのは容易だった。

「……まぁ、人として生きるのは無理だとしても、私は先生に張り付いていられる間だけでも組織の目を誤魔化し続けようと思いました。アドバイスという形で、絵と物語を脚色してね。絵本が大ヒットしたのは、読者の心の中に妖怪の無意識が反応したのでしょう。問答無用で懐かしさを感じさせますからね」

「縁の下のなんとやらだな」

「はは……でもまぁ、長続したとはいえ、ついに限界が来てしまいましたね」

 薄いため息を吐くアレックス。

「先生は能力の存在に勘付いてしまいました。そして、人との会話を辞め、部屋に引きこもり様々な表現を試し、自身の能力を確かめようとしました。誤魔化そうにも、才能が無いのは真実ですからね。精神的に追い込まれた先生は過去作品をアレンジすると言いだし、そのタイミングで選んだのがよりにもよって『紅鬼神伝説』……正直、私は焦ってしまったのですよ」

「……好奇心?」

 聞き慣れない言葉に首を傾ける。それを見たアレックスは、ふふ、と小さく笑った。

「多分、間違った意味で捉えていますね……ほら、安雄さんが倉庫まで取りに行ったアレですよ」

 途中で読むのを辞めてしまったので殆ど覚えていないが、あんなのを絵本にするのは無理だと思った気がする。

「しかも、絵を描いている過程で、失われた封印魔方陣までも再現してしまいました。それを見た私は、とても混乱してしまいましたね。これが公に出てしまうと、これまでの歴史の中で大きな災害をもたらした妖怪が解き放たれてしまう可能性があります……封印方法が分かれば、それを元に解除方法が調べられるのも時間の問題でしょうから」

「……なるほど」

「私は、先生に力の正体を伝えることをせず、かといって、妖怪として殺すことも出来ませんでした。英雄はまだ見つかっていないと組織を裏切り、貴女には才能があると言って先生までもを裏切った私は……もう、どうしていいか分からなくなった」

「煮え切らないな」

 素直な感想を口にする。

 自分が妖怪だから、妖怪と敵対するには、大きな勇気が必要になるだろう。しかし、彩音を殺すことは、今までの人として生きてきた生活を捨てることになる。アレックスはどちらも大切だから、両方を騙して、現状を続けてきた。しかし、彩音が自分を英雄だと理解してしまったことで、その現状は破綻してしまった。

 やっぱりこいつは、似ているな。そう思った安雄は振り返ると、アレックスの目を見ながら口を開いた。

「居場所を求めるのは当然だろ。アレックス」

「え……?」

「お前は何にも間違っちゃいないさ、現状のままが良いなら、それを続けよう。もうお前一人が負担する必要はないし、我慢する必要もない。俺も一緒に悩むからさ」

「ヤスオくん……」

 アレックスは何も言い返せないようだ。ここぞとばかりに、安雄は己の想いを語る。

「多分、これから先も、色々面倒な事はあると思う。俺の知らない問題も山積みだろう。だけど、こんな風に諦めないで、俺達で頑張って行こう。俺だって今の生活が大事なんだ。俺が飯作って掃除してお世話して、彩音が絵本を描いて、アレックスと話し合いをする、そんな今の生活が好きなんだよ。だから――」

「ヤスオくん! 私の体を隠して下さい!」話を聞いていたアレックスが、突然ビクリと震えた。

「な、なんだよいきなり……」

「先生が近くにいます! もうすぐこの部屋に入ってしまいます!」

「えっと、何処だ、何処に隠せば……」

「バラバラにしたスピーカーやテーブルの破片で覆い隠して!」

 言われるがまま、アレックスの体を持ち上げ部屋の隅へ移動させると。上からバラバラな破片を乗せて見え辛くする。扉が開く音がして、倒れこむように彩音が中へ入てきた。

 彩音は荒い呼吸を何度も繰り返しながら、穴でも開けてしまいそうな眼力で安雄を見据える。

「あ……彩音?」

 安雄は彩音のそばまで駆け寄り、うつ伏せになった体を抱きかかえる。その瞬間、睨みつける視線を至近距離から向けられて、大丈夫か? と言おうとした声が出なくなった。

 彩音は何も言わず、たじろぐ安雄の顔を、引き裂かれた服を、血に濡れた脇腹を、上から順になぞるように視線を向けると、次は半壊した応接室を見やった。

 安雄の心臓が揺れる。何を言い出すのか分からない。その表情からは何も読み取れず、怒っているのかも、呆れているのかさえも分からない。

 数秒の沈黙の後、安雄がとにかく頭を下げて謝ろうとした時、その小さな唇が動いた。

「ねぇ、アレックスは?」

「え!?」

「アレックスはどこって聞いてるの。安雄、さっきまで喧嘩してたんでしょ?」

「ああ、ええと……先生を裏切ってしまったって、なんかショック受けてた」

「和解は……したの?」

「したさ、そりゃもう話し合ったよ、色々と」

「激しい話し合いだったのね」

 はは、と安雄は力なく笑う。

 罵倒の言葉が無い。半壊した応接室を見て、全身ズタボロの安雄を見て、既にアレックスが消えているのを知った筈なのに、それについて一切言及しようとしないのが逆に不気味だった。怒ってないわけがないのに、むしろ彩音はホッとするような表情で安雄の顔を見上げ、優しい口調でぽつりと言う。

「良かった……無事で」

 意外そうに目をしばたたかせると、彩音がムッとする。

「なによ、その顔。私の顔に何か付いてる?」

「いや、その……」

 アレックスについて追求されると思っていた安雄は言い淀むと、口元が緩むのを堪えながら「彩音が無事で良かったよ」と、素直な喜びを伝える。

 それを聞いた彩音は、少しだけ得意げな表情になった。

「アレックスが私に酷いことする筈ないと思ってたし……よく分からないけど、事情があったんでしょ? それについては聞いてる?」

「まぁ、色々」

 予想は付く。アレックスは英雄を危機的状態に追い込むことで、自分自身をも追い込んでいたのだろう。本格的な戦いが始まる前に『私は諦めたのですよ』と言っていたことや、金棒を持ってからは自分の頭を潰させるよう挑発し、下半身が薙ぎ払われた時に満足そうな顔をしていたことから、考えられる結論は一つ。

 両方を裏切り続けるという重みに耐えかね、自らの死を選ぼうとしたではないだろうか。

「……聞かないでおく」

 つまらなさそうに間延びした声を聞きながら、抱き抱えた彩音をソファーへ丁寧に下ろした。

 横になった彩音は、体をピンと伸ばしプルプルと震わせる。

 そして、ふわぁと大きな欠伸をすると、「今日はもう、疲れちゃった」と言って眠気けた眼を擦った。

「ちゃんとした説明を求めないのか?」

「……明日でいいかなって……ふわぁ」

 どうやら本気で眠りたいらしい。図太すぎる精神だ。今の今まで監禁されていて不安が無いわけがないのに、何が彩音をそこまで安心させるのだろう? そんな疑問が頭を過ったが、眠ってしまう前に聞いておかなければならないことを思いつくと、疑問は最初から無かったように一蹴された。

「なぁ、彩音……その、言いにくいことなんだけど、アレックスを責めないでやってくれないか? 嫌な気になったと思うけど、本当は悪い奴じゃないんだ。むしろ良い奴っていうか、彩音をずっと守ってたというか、ええとその」

「……わかった、分かってるから。ふふ……」

 早口で説明する安雄の顔を見て、夢の世界に入りかけている彩音は、まるで子どもを見るような目を向け、小さく笑った。

「安雄に言われなくても、アレックスが良い子だなんて、最初から知ってるんだから……」

「え……」

「それに、安雄がそこまで言うなら……仕方ない、許してやろう」

 知ってるとは? 何処から何処まで? 問いただしたくなる気持ちになるが、彩音はもう眠ってしまう。

「私は……安雄が嘘を吐かないって……信じて……」

 言葉が途中で切れた。嘘を吐かない安雄を信じる、と言いたかったのだろう。完全に熟睡してしまった彩音は翌朝まで起きないので、もう問いただすことは出来ない。

 暖かい気持ちが胸を満たすのを感じ、掌を心臓の上に置いた。

 安雄は、己の能力というものに、初めて感謝をしたかもしれない。

 今まで、嘘が吐けなくて苦労したことが多かった。気に入らないものは全て気に入らないと言い、傍若無人な態度を取っていた頃もあった。能力を利用して、人が必死に隠してきた『何か』を暴いてしまったこともある。酷いことをして、嫌な言葉を投げつけられて、殴って、蹴り返されて、傷つけ、傷つけられ、数えればキリが無いくらい失敗続きの人間関係だった。

 しかし、今は感謝している。魅紺の存在を見つけ、時哉を捕まえ、アレックスと戦えたからこの騒動にピリオドを打つことが出来た。そして、彩音が安雄を信じてくれる要因となってくれたから

 魅紺から与えられたものだと聞かされたときは、ふざけるな、返品させろ、と怒りが沸いたものだが、今となってはどんな妖怪から送られたものなのか、非常に気になる。また彩音に俺を題材にしてもらおう。

 立ち上がり、彩音に毛布でもかけて遣ろうと思った時、ちらりとアレックスの方を見た。アレックスもこちらを見ていたようで、目が合う。

 アレックスは笑顔だった。

 それを見た瞬間、バキリ、と何かがへし折れるような音が聞こえる。

 それが自分から発せられたもので、自分意外の人間には聞こえない音だと気付いたのは、床に膝を付いた時だった。

 両手を床に突き、全身の毛穴が無理矢理こじ開けられる様な感覚が広がる。息を潜めていた嘔吐感が胃の中で爆発し、水分を全て捻りだすかの如く汗と涙が滴り落ちる。

 アレックスが逃げるのを完全に辞めたのだ。破片の中で、彩音の話を聞いていたはずだ。それで決心をしたのだろう。残っていた能力の余波が完全に消え去ったのだ。

「……あ」

 意識が真っ白になる中で、扉を開く音を聞き、狐の姿になった魅紺を抱きかかえた時哉が視界に入る。

 最後の気がかりを失った安雄は安心して意識を失った。

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