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突入のち潜入

 正面玄関がいつもより重く感じるのは錯覚ではないだろう。緊張からか、心臓の鼓動がいつもより早い。気持ちを落ちつけようとして、安雄は小さく深呼吸をすると、ドアノブを握った手にグッと力を込める。雨だからだろうか、接合部分から鉄の軋む音が鳴った。

 靴をはき替えないまま、真っ直ぐ進んで廊下を抜ける。全身は雨に濡れて水浸しになっているが、それはそれで、頭が冷えて丁度いい。傘の代わりに握った金属バットを両手で握り直し、雄叫びを上げたい気持ちを我慢して歩く。

 応接室の扉には顔の高さの位置に窓が付いており、見知った金髪碧眼がそこに見える。

 安雄は一気に駆け寄ると、渾身の力で扉を蹴り飛ばした。

「おや、早かったですね。ヤスオくん」

 体を捻り、金属バットを振り上げると、アレックスの顔面目掛けて振り下ろした。普通の人間であれば、間違いなく頭蓋骨が砕けるのであろう一撃。それが激突した。

 グニャリと頭が歪み、まるで出来の悪い粘土細工のように変形する。しかし、アレックスは痛みに悶えるわけでもなく、こんなものは慣れている。とでも言わんばかりに、平然とした態度を見せると、

「痛いですねぇ、全く」

 と言って、大きく空気を吸い込んだ。すると、風船が膨らむようにして、陥没した部分が元に戻ってしまう。安雄は目を点にして、その異常な光景を見つめていた。

「容赦なさすぎですよ、ヤスオくん」

「……卑怯臭いだろ、それ」

「では貴方の奇襲は卑怯では無いと?」

「そうだ……けどさ!」

 声と同時に二激目を放つ。狙いは先程と同じ頭だ。何度も何度も陥没させれば、もしかすると倒せるかもしれない。しかし次の瞬間、そんな考えは甘いのだと痛感させられた。

 金属バットを振り下ろそうとする安雄の体制が、突如崩れた。

 片足が床から離れ、まるで地雷を踏んでしまったかのように足元がはじけ飛ぶ。検討違いの方向へ振られた金属バットはソファーの背もたれに叩きつけられ、音を立てて跳ねる。

「何にも不思議なことはしていませんよ。ただ単純に蹴っただけです。貴方の足元をね」

「……遊ぶな!」

 足元ではなく、直接身体の一部を蹴っていれば、それだけでアレックスは安雄を倒せる。それなのに、回りくどい方法を選んで、長くこの状況を続けようとしている。

 何が楽しいのか、真剣な表情の安雄とは対照的に、アレックスは笑みを浮かべている。安雄が奮う金属バットを紙一重で避け、ときには妨害し、栓無い追いかけっこを延々と続けようとしているようだ。ドタバタと部屋中を追いかけまわし、安雄はバットを振るうが、一向に当たる気配が無い。

 元から雨で濡れていた体に、更に汗が追加され体力が奪われていく。それを自覚した瞬間、膝がガクリと崩れ、汗で一杯になった手から金属バットが滑り落ちた。

「お疲れのようですね。水でも入れて差し上げましょうか?」

「黙れよ……この吸血鬼」

「ふふ、私は貴方の血で喉を潤しましょうかね」

 脅すように、アレックスは口元を歪め、鋭い牙を見せつけた。目が充血し、両手からは鋭い爪が伸びる。あれで、魅紺も噛みつかれたのだろう。安雄は目を離さないまま数歩下がった。今からあれで噛みつかれると思うと、死んでしまっても可笑しくは無い気がする。

 しかし、アレックスが噛みついたのは安雄ではなく、己の腕だった。

 骨に齧り付く犬のように牙を突きたてると、血液が噴水のように噴き出す。口の周りを真っ赤にしたアレックスは、苦い顔になる。

「全く、いつまで経っても慣れないですねぇ」

「それは……」

「吸血衝動を抑えるおまじないです。まさか、私がヤスオくんを噛むわけがないですよ」

 腕から口を離すと、黒い血が床に滴り落ちる。

「でも、ヤスオくんだって本気を出していないですよね。貴方はシルエットタイプだと聞いています。力を使わないのですか?」

 アレックスの疑問は当然だろう、ただの人間の力では妖怪に敵うはずもない。安雄が今こうして五体満足で居られるのは、アレックスが本気で戦おうとしていないからだ。

「俺は……アンタが妖怪だったなんて……知らなかった」

「裏切られた気分ですか?」

「目的は何だ?」

「……英雄の殺害です」

 アレックスは、当然のことのように答えた。

「私の正体は、とある組織の手によってこの世界に送り込まれた諜報活動員の一人です。組織の目的は、英雄を捜索し監視すること。そして必要とあれば、殺すこと」

「違う。俺が聞きたいのは……アレックス、お前自身の目的だ」

 もし、ただ平然と答えていたのであれば、そんな質問をすることは無かっただろう。アレックスはまるで苦痛に耐えるように表情を歪めていた。

 ある組織の諜報活動員という話は嘘という訳ではないが、こんなことになった理由はそれだけではないのだと、安雄はそう確信した。

「こんな騒動を起こして、どうするつもりだったんだ。俺の知らない場所で本当にそんな組織が存在したとしても、人に強く影響を与えると英雄に殺されるって――」

「諦めたのですよ、私は」安雄の声をかき消すように、アレックスは蹴りを放つ。脅しではない、正真正銘の敵意を感じた安雄は、息を飲むのと同時に体を捻り、紙一重で避けた。

 これにはアレックスも驚いたらしく、感嘆の息を漏らす。

「ほぉ、反応が突然早くなりましたね、ようやく能力を使う気になったのですか?」

 アレックスは突然、暴力によって口を封じようとした。何を恐れたのかまでは分からないが、本人の意思とは関係なく、安雄の能力は決してそれを見逃さない。

 確かなのは、アレックスは話し合いに応じるつもりがなく、歩み寄ろうとする安雄を強引に拒もうとしたことだ。

 安雄は畳みかけるように、更なる質問を重ねた。

「諦めたってなんだ? それが、隠しておきたかった本音なのか」

「さっきから質問ばかり……うるさいですよ」

 目前に迫る追撃の拳を、首を捻って避ける。

「私のことよりも、もっと気に掛けるべき相手がいるでしょう。監禁された先生は心配じゃないのですか、狐がどうなったか気にならないのですか!」

「気になるよ、でも、アレックスがこんなことをしたのにも理由があるんだろ。だったら、俺はそれが知りたい」

「何が何でも私と戦うと……そういう事ですね。分かりました」

 アレックスは諦めたような顔になると、真っ赤に充血した瞳で安雄を睨みつけ、むき出しになった鋭い爪を向けた。

 応じるように、安雄は無言で金属バットを握り直し、両手で構える。

 すると、正面から赤い光をぶつけられたように視界が真っ赤に染まり、足元から伸びる影の額から二本の角が伸びる。

「行きますよ……私の英雄!!」

 掛け声と共に床を蹴り、安雄の顔面を狙って爪を振るったのと、安雄の握る金属バットから爆発音のような音が響いたのは同時だった。

 姿が変わったそれを、目にも止まらぬ速さで振るう。アレックスの五本の爪は残らず叩き折れ、紙吹雪のようにその場で舞い散った。

「これは金棒……なるほど、貴方の影に細工をした妖怪が分かりましたよ」

 爪が残っている方の振るった手を、安雄は正面から打ち飛ばした。今度は爪だけでなく、手首から先が千切れ、弾け飛ぶ。

 凄まじい威力を受けた手首は肉片と化し、血を散らせながら壁に張り付いた。

「俺の望みは喧嘩じゃない! 人の話を聞け!」

 瞬時に両手が再生し、更なる爪が安雄を襲う。

「嫌ですね! 私は今ここで己の望みを果たします!」

「それが本音なら、今頃俺はとっくに死んでるっての!」


   ※


 降りしきる雨の中、傘を差した時哉は、独り言をぶつぶつと呟きながら洋館の周辺を歩き回っていた。落ち着こうと思うのだが、一度してしまった嫌な想像はどうしても頭から離れてくれない。

「安雄さん、大丈夫かなぁ……まさか、本気で相手を殺したりしてないよね……」

 近場にあったスポーツショップで金属バットを買っていた安雄が頭に浮かぶ。

 表情こそ変化はなかったが、空気の変わりようが尋常ではなく、無言でブチギレていたのは間違いないだろう。どうやら、我慢強い人間はキレると尋常じゃなく恐ろしいらしい。一つ学習した時哉は、次からは何があってもあの人を挑発することだけは辞めておこう。と堅く心に刻みつける。

 そうしていると、壁の向こうから激しい騒音が聞こえてきた。

 どうやら、安雄が始めたらしい。今頃金属バットを振り回しながら、部屋の中で暴れているのだろう。その音が合図だった。

 俺がアレックスの注意を引くから、お前がその隙に忍び込んで二人を助けろ。電話が終了し数秒の無言の後、有無を言う隙も無く、時哉はそう言われた。他に細かい指示はない。そんなことを考える余裕すら無かったのだろう。

「さて、信頼に応えさせて頂きますか」

 安雄との鬼ごっこを終えてから、すこぶる気分が良い。治しようのない病魔に犯されていたような気だるさが無くなり、憑き物が落ちたような清々しさが胸の中を満たしている。何故そうなったのか、理由は明白だ。安雄と本気でぶつかりあったことで、自分という存在がハッキリしたのである。

 何をやっても手応えが無く、いつしか、自分が何をやっても誰にも見てもらえない、という事実ですらどうでもよくなっていた。自分自身が真っ白になるのを自覚しながら、それすらどうでもいいと思っていた。

 しかし、持てる力が完全に打ち破られ、生き方そのものを見事に否定されたのは、最初こそ苛立ったが、その感情そのものが久々の感覚だった。

 久しぶりに感じた、負けて悔しいと思う気持ち。

 大切な者がいて、その為に我慢できるという、嫉妬を覚える関係。

 奪った物だけで己を構成してきた時也と反対に、安雄は何でも手に入れた自分が唯一持っていなかったものだけで構成されている。それに気付いた時也は、安雄のことをもっと知りたいと思った。仲良くなって、名前も忘れない関係になりたい、と。

 その為には、安雄の為に頑張ってやらないと。

 時也は顔を上げ、三階にある窓の位置を確認すると、鳥に変身する準備を行った。

「俺は鳥……俺は鳥……」

 他人の名前が覚えられなくなったのに気付いたのは、確か小学三年生くらいの頃だったか、困惑したのと同時に、これは神様のプレゼントだと感謝したのを覚えている。家にも学校にも居場所が無かった時哉にとって、嫌な記憶を覚えなくて済む副作用は、天恵にも等しかった。

 嫌がらせや、いじめ、人間関係における痛みは長続きしなくなるし、他人を脅かす罪悪感も消えてしまう。そうやって好き放題やって来た時哉だったが、それにも限界はあった。金と力の両方を手に入れてしまうと、他に何を求めれば良いのか分からなかったのだ。

 動物に変身してみよう、と思ったのは、ちょうどそんな時だ。

 心の虚無感を埋めようとして始めたものだったが、それなりの暇潰しにはなった。実際は動物に変身した所で実用性は皆無だし、他人を騙すだけなら別人になるだけで十分なのだけど。

「鳥……鳥……」

 まずは、頭の中を真っ白にする。

 何度も他人に変身していると、偶に自分が誰だったのか忘れてしまう時がある。動物への変身は更にそれの応用だ。それとは逆に自分という存在を極限まで薄め、人間であることを忘れることで他生物への変身が可能になる。

 ただ、気をつけなければならないのが、明確な目的意識を持たなければ、変身後に戻れるかどうかが分からないことだ。『鳥になって空を飛びたい』と思うだけで変身してしまうと、一生を鳥のままで、自分が人間だったことを忘れて過ごしてしまうかもしれない。あくまで、目的の為の変身だということを、明確にする必要がある。

「窓から中に入る……窓から中に入る……飛べ!」

 傘を投げ捨て、時也は飛んだ。その瞬間体が縮み、広げた両手から茶色の毛が生え、形状がみるみる変化していく。

 鷹になった時也は羽ばたき、窓から中へ侵入しようとする。

 しかし、入ろうとした瞬間、ガクリと体が傾いた。

「あれ……なんで」

 どうやら、変身が解けかけているようだ。鳥の喉から人間の声を発したことから考えても間違いない。もとより、自分を真っ白に変えるなんて、とっくに不可能になっていたのだ。安雄とぶつかり、己を取り戻したのだから。

 嬉しく思う反面、このまま落ちるわけにもいかないので、解ける前になんとか進入しようとしたものの、着地するまでに変身は解けてしまい。まるで投げ込まれるような形で突入した。

 衝撃音が響くと、侵入がばれてしまうかもしれない。だが、これ以上他の動物に変身することはできない。時也は思いつく限りの小さな子どもに変わると廊下に落ちた。

 肩から落下した体が、小さく跳ねた。続いて、衝撃が痺れるような痛みになって襲いかかり、思わずその場で悶絶する。

 どうやら、子供の身体ではとても痛みが強いらしい。

 なんとか立ち上がろうとして、壁に手を着ける。その手はとても小さくなっていて、子供への変身はちゃんと成功したのだと実感した。

「早く探さないと……」

 声を絞り出した時哉は、あたりを見回す。長い廊下には沢山の扉があって、とてもではないが、全ての部屋をくまなく探すには時間が足りないだろう。 

 目的は、安雄さんの彼女と、魅紺さん。タイムリミットは、安雄さんが負けるまで。

 逆に安雄が叩きのめしてしまう可能性もあるにはあるのだが、所詮自分たちが持つ力は借り物にすぎない。本物には叶わないと考えるのが道理だ。

 とにかく、ぼーっとしていては何も始まらない。痛む身体を動かし、一歩ずつ前へと進み、一番近くの扉を開け、誰も居ないのを確認すると、また次の扉へと向おうとすると、

「ねぇ、そこのボウヤ」

 背後から声をかけられて、振り返る。

 長い黒髪が、這いつくばりながら近づいてくる。荒い呼吸を繰り返しながら、とても遅いペースで、じわじわと距離を詰めようと接近する。一見すると貞子にしか見えないその存在に、大声で悲鳴を上げそうになったが、長い髪がふわりと持ち上がり、露わになった顔を見て人間だと確認すると平静を取り戻した。

 白い肌はとても綺麗なのだが、病人の持つ独特な不健康の色も見え隠れしていて、どこか儚さを感じさせた。

 貞子ではなく女の人だと確認すると、時哉はようやくハッとなった。

「もしかして、お姉ちゃんが彩音さん?」

「なんで知ってるの?」

「安雄さんからのお願いで、助けにきたよ」

「あのアホめ……なにゆえこんな子供を寄越すのか……意地悪しすぎた復讐か……?」

 ぶつぶつと小声で恨み言をつぶやく彩音さん。だが、表情は少しだけ嬉しそうに見えた。

「安雄さんも一緒に来てるんだけど、一階で喧嘩してるんだ。今の間に一緒に逃げよう!」

 時哉がそう言った次の瞬間、爆弾が爆発したような轟音が、洋館全体に響いた。続いて、足下が揺れてしまいそうな振動が響く。

「何やってんのよ、アイツ等!!」

 彩音さんの悲鳴に似た大声に、時矢の心臓がドキリと跳ねたが、続いて聞こえた凄まじい轟音にかき消された。恐らく、下の連中には聞こえはしなかっただろう。

「私はあのバカ共を止めに行ってくる。それで、ボウヤには別に頼みたいことがあるんだけど、いいかな」

「え、でも危ないよ。逃げた方が……」

「ここはあたしの家なの。好き放題されちゃたまんないのよ」

「あ、はい……」その目の力に圧されて、時矢は黙ってしまった。危険だと分かっているのに止められない。

「私はさっきまで反対側の部屋に閉じこめられていたんだけど、私が歩けないからって高を括っていたのでしょうね、扉に鍵がかかってなかったのよ。だから、こうして逃げられたんだけど」

「彩音さん歩けないの!?」

「そうだよ」

 当然のように言う彩音さん。この人の匍匐前進はそういう意味か、と理解するのと同時に、不安な気持ちが湧き上がってくる。もし一階に行って巻き込まれてしまったら、何が起こっても逃げられないし、最悪安雄さんへの人質にされてしまうかもしれない。そう考えた時哉は、制止の言葉を投げかけようとして、

「やっぱり逃げ―――」

「いいから!」

「あ、はい……」さっきと同じように睨まれ、また怯んでしまう。

 何なんだこの人。不健康そうで、足も動かないのに、何故か勝てない気持ちにされてしまう。

「それで、わたしの頼みっていうのは、この廊下の奥の部屋を調べて欲しいの。たぶん、そこにもう一人誰かがいる。女の子の声がしたの。しかも、悲鳴がね」

「あ……」

 魅紺の顔が頭に浮かび、ようやく危機感が戻る。

 不思議な魅力を持った人だな、と時也は思った。時間があればもっと話していたと思うくらいに。しかし、そんな思いとは裏腹に、時は一刻を争う。

 時矢がうなずくと、綾音は満足そうに微笑んだ。

「急いで助けてあげて」

「分かりました!」

「あ、その尻尾可愛いね、触らせて」

「うひゃ!!」

 綾音に背を向け、走りだそうとした瞬間、尻尾を触られてしまう。

 身体から力がするりと抜けて、転んだ。

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