手中の銀翼
こつん、こつん、と小さな金属音が規則的に響く。他と比べて一際冷たく澄んだ空気にその音はよく馴染んで隅々まで届いている。
ただひたすらに長く続く螺旋階段。高層ビルの非常用階段を、一人の少年が黙々と昇っている。それはどこにでもいそうな容姿の少年だった。着ているものもTシャツに灰色のズボンと至って普通の服装だ。
だが一度その両目をのぞきこめば印象は一転する。良くも悪くもない造形を彩る二つの漆黒は、少年の外見年齢に反して、世を知り尽くした老人のように静かで強かな輝きを宿している。
高層ビルには、表のフロアに一歩出ると立派なエレベーターが備え付けられている。だから非常時でもないこの時に、少年がわざわざ一階から最上階まで階段を昇る必要性はあまり無い。あるとしたら、ごく個人的な理由にある。
少年は向かう先にいるはずのたった一人の存在のために、わざとゆっくり高層ビルの階段を制覇しているのだ。
やがて無機質なコンクリートの螺旋階段にも終わりがくる。最上階のフロアへと続く重たい扉のさらに上、屋上へと続く階段をことさらゆっくりと時間を掛けて昇り、鉄でできた重厚な扉を両手にぐっと力を込めて押し開く。
ざぁ、と扉の隙間から突風が飛び込んできて少年の短い髪をばたつかせた。目を細めて屋外への出入り口を開け放ち、薄汚れたタイルの敷かれた屋上に出る。
まず目に入ったのは、雲一つない見事な快晴の空だった。見渡す限りに透明な蒼が頭上を覆い尽くしている。これほど見ごたえのある高空は、そうそう拝めるものではない。
しかし少年の瞳はすぐに碧天から逸らされ、薄墨色のタイルの先に見える小柄な影に向けられた。
そこに天使が一人、立っている。華奢な体躯の背に広がる大きな純白の二翼、遠目にも彼女の肌は濁りのない白さが際立ち、長い髪は太陽を受けてきらめく白銀。彼女は存在そのものが幻のような美しさを湛えて立ち尽くしている。
あぁ、やはり彼女は美しい。
彼女の姿を認めた途端、少年の中に甘いうずきと、留まることを知らない愛しさが溢れ出てくる。
少年はゆっくりと彼女に近づいた。彼女の想いがほんのわずかでも長く、その視線の先に向けられるよう、少しの罪悪感と共に彼女へと至る時間を長く伸ばす。
途中、二人の間を隔てる鼠色のフェンスを難なく乗り越え、少年は背後から純白の二翼ごと彼女を抱き締めた。
「ミコト。どこに行ってるんだい」
そんなことを尋ねなくても、少年は彼女の心がこの場に留まっていないことを知っている。その証拠に、彼女は少年の存在に気がついても眼前に広がる紺碧の空から視線を剥がさない。
返されたのは感情を押し殺した、淡々とした声音だった。その声すら、鈴の音が転がるように透明で麗しく聞こえる。
「どこにも。……私はここにいる」
しかしそれ故に、彼女の心の内が少年には手に取るように分かる。彼女の蒼天を焦がれる想いも、地上に足を下し続ける息苦しさも。――少年に向ける、憎悪や悲哀も。
少年は全て承知でくすっと微笑むと、果て無く広がる空を指差した。
「知っている。ミコトの心はずっと、あの空の向こうだ」
腕の中の彼女の身体が強張る。
彼女を抱き締める腕に力を込めて、少年は力強く囁いた。
「行かせない、あちらへは」
「……そうだろうね」
彼女があの空の向こうへ羽ばたいて行くことを狂おしいまでに望んでいることを、少年はよく知っている。青空に溶け込んで、ただ風を切る存在になりたいと彼女は一心に願っている。
しかし少年はそれを赦さない。
……ようやく捕らえた彼女を少年は二度と手放せないだろう。
その時、ぶわっと大きな風が二人の両脇を吹き抜けた。彼女の白銀の髪が鮮やかに虚空に舞い広がる。
一瞬だけその光景に見惚れ、彼女を拘束する少年の腕に隙が生じた。
それを鋭敏に察知した彼女は少年の腕からするりと逃げてしまう。彼女は少年の前に躍り出て、睨むように少年を見据える。
「どんな気分?」
嘲笑うように、謡うように軽やかに彼女は少年に尋ねた。
「世界の至宝、天使を堕とした人間。――満足か?」
天使としての厳しい彼女の糾弾に、少年は満面の笑みを浮かべる。
遠い昔、少年は天から舞い降りた天使を見つけた。彼女があまりに美しく可憐で輝いていたから――どうしても、手に入れたくなった。
彼女の穢れのない双眸に見てもらいたかった。彼女の美しい肢体を、彼女の温かい心を、何にも代えられない宝物のように欲して、長い年月の希求の末に強引に手に入れた。
すでに少年の色に染められた彼女の双眸を見つめ返して、少年は言う。
「まだだ。次はミコト、君の心を堕としてみせる」
その言葉に彼女は秀逸な顔を悲しげに歪める。その視線は頭上の碧落に向けられたまま。
彼女の心はまだ、天空の向こうに惹かれてやまないのだ。
ばさっと彼女の両翼が一度大きく羽ばたく。けして飛べない、役割を喪失した翼だ。
少年は彼女に近寄って白銀の髪を一房、手にする。
「ミコトは俺のものだ」
今はまだ、その心が青く澄んだ空向こうにあったとしても。
いつか、必ずその心も捕らえてみせる。彼女の灰銀の瞳を漆黒に染めたように、その髪も翼もいつか……少年の色へ。
目を涙で潤ませて、泣きそうな顔でうつむいた愛しい彼女に、少年は精一杯の慈しみを込めて囁く。
「大好きだよ、ミコト」
天使すら地上に堕とした強烈な言霊で、がんじがらめに少年は彼女を手元に縛り付けている。彼女が逃げ出してしまわないように、手放してしまわないように。
いつか、彼女の純白の翼は失われ、純潔の心は少年に染まり堕ちる。
そしてその時が、彼女が“天使”から“ミコト”という人間に完璧に代わり、少年が彼女のすべてを手中に収める時なのだ。
この作品はもう一つの短編、『堕ちた銀翼』とリンクした作品です。
よろしければ、そちらもどうぞ。