〜なぜイランとアメリカ、イスラエルは対立するのか〜
中東問題は宗教戦争だと思っている人が多い。
しかし実際の始まりは宗教ではなく、石油利権と植民地支配だった。
①、石油利権と英仏の分割統治
現イラン(当時ペルシャ)に調査に来ていた英国のエネルギー会社、英国企業アングロ・ペルシアン石油会社(後のBP)が1908年に巨大油田を発見。
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その会社は後にイギリス政府が出資し、英国海軍の燃料確保のため油田開発が進められた。
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契約では、会計は英国側が管理し、ペルシャにはロイヤリティが支払われる形だったが、利益の詳細は公開されなかった。
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結果として利益の大半は英国側に渡り、ペルシャは石油資源を持ちながら経済的利益をほとんど得られない構造となった。
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このため多くのペルシャ人は、これを事実上の経済的植民地支配と感じるようになった。
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第一次世界大戦中
1915年、フセイン・マクマホン協定
イギリスはオスマン帝国を倒すためアラブ人の決起を促し、独立を約束した。
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1916年、サイクス・ピコ協定
英仏は中東を分割統治する秘密協定を結んでいた。
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1917年、バルフォア宣言
同時にイギリスは、パレスチナにユダヤ人の民族的拠点の建設を支持した。
※これらが、『イギリスの「三枚舌」外交』と呼ばれる。
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1918年オスマン帝国崩壊。アラブ人の独立は実現せず、中東は英仏の委任統治領となる。
イギリスはイラク・パレスチナ・ヨルダン、フランスはシリア・レバノンを支配した。
国際連盟の委任統治という名目ではあったが、事実上の植民地として分割・管理された。
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独立を反故にされたアラブ人の反発が拡大。
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1920年、フランスはキリスト教徒の保護と地盤確保を目的にシリアを分割、レバノンを確立。
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1935年、ペルシャは国際社会に対し、自国を「イラン」と呼ぶよう正式に要請し、国号を変更した。
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1943年、レバノンが独立。
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欧州の迫害から逃れたユダヤ人のパレスチナ移住が進み、シオニズム運動が拡大。
※シオニズム運動とは、欧州で迫害されていたユダヤ人が、自分たちの民族国家を故郷であるパレスチナの地に再建しようとした民族主義運動。
エルサレムの丘「シオン」に帰ろうという意味。
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1947年、イギリスの委任統治終了。
国連がパレスチナ分割案を採択。
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1948年イスラエル建国。
アメリカの当時の大統領トルーマンが建国を承認、以降イスラエルはアメリカから最も多くの対外援助を受け、反米勢力に対抗する同盟国として、米国にとって不可欠な存在となる。
(ただしこの当時、冷戦、ソ連の中東進出等の要因もあり、軍事援助はほぼ無かった。本格的に軍事援助が始まったのは1960年代以降)
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建国宣言の翌日アラブ諸国が侵攻し第1次中東戦争が勃発。
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イスラエルが勝利し、国連案より広い領土を確保。多くのパレスチナ人が難民となり、パレスチナ問題が深刻化。
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②、イラン革命と反米化 〜代理戦争と現代中東
イランの石油資源の利権はイギリス企業(現BP)が所有しており、イギリス人はプール付きの豪邸に住むが、石油都市アバダンの労働者の待遇は悪く、利益のほとんどがイギリスへ行くという植民地構造だった。
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1951年、第2次大戦後の自国資源は自国で管理するという世界的なナショナリズムの高まりや、植民地支配への反発から、イラン首相モサデグが石油の国有化を行い、経済主権を訴えた。
(これが後のOPECの思想的原点のひとつとなる)
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これにイギリスが激怒、石油の禁輸措置、海上封鎖等を行う。(アバダン危機)
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イギリスはアメリカと会談。
冷戦中の世界情勢の中、当時のイランがソ連に近づくことを警戒した。
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1953年、CIAとMI6が関与したクーデターが発生。
民主的なモサデグ政権を倒し、パフラヴィー2世の体制を確立させた。(アジャックス作戦)
※多くのイラン人は「1953年、我々の民主主義は潰された」と思っている。
これが現在まで続く反米感情の原点となった。
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1963年、パフラヴィー2世(国王)がアメリカの支援を受けて王命として近代化、西欧化(脱イスラム化)を急速に強行しようとした(白色革命)
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宗教的感情を無視して急速な世俗化(反イスラム政策に見えた)を進め、イスラム教の指導者層や伝統的な国民の反発を招いた。
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秘密警察(SAVAK)を用いて反体制派を徹底的に弾圧し、言論の自由を奪った。
監視、拷問、逮捕が反政府感情をさらに拡大させました。
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石油資源の利権を握っていたアメリカは、冷戦下において、中東の安定と親米政権の維持を優先し、パフラヴィー国王の独裁体制を確立させ、強権的な政治を支え続けた。
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短期間での強制的な農地改革と近代化は、伝統的な農業共同体を破壊し、都市への人口流出とスラム化を引き起こした。
文盲率の高かった当時のイランは、そもそも近代化の基礎構造を欠いていた。
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1965年、パレスチナゲリラのイスラエルに対する越境攻撃が激化。
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1967年、イスラエルとシリアの国境で衝突が起こり始める。
シリアはエジプトと軍事同盟を結んで対抗。
エジプトはシナイ半島に軍を集結させ、ティラン海峡を封鎖。
これを受けて国連軍はシナイ半島から撤退した。
イスラエルはこれを国家存亡の危機と判断し、エジプト・シリア・ヨルダンの空軍基地に対して先制攻撃を行い、各国の空軍を壊滅させた。
続いて陸軍も電撃戦を展開し、戦争は一気に拡大した。
イスラエルは
ガザ地区、西岸地区、東エルサレム、ゴラン高原、シナイ半島を占領。
わずか六日で国土を約三倍に拡大させた。
(六日戦争)
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1973年、オイルショック
この年勃発した第4次中東戦争で、アラブ産油国(OAPEC)が、イスラエルを支援する欧米諸国や日本に対し、武器として石油の「生産削減」と「禁輸」を行った。
※ただしイランは禁輸には参加しなかったが価格高騰の恩恵は受けた。
産油国側が原油の公示価格を大幅に引き上げ、それまでの約4倍にまで高騰。
日本は石油の大部分を中東に依存していたため、極めて深刻なエネルギー不足に陥り、高度経済成長は終わりを告げた。
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オイルショック後、アメリカは産油国との関係を再構築する。
1974年、アメリカはサウジアラビアなどの産油国と協調し、石油をドルで取引する仕組みを確立した。
これによって世界の石油取引は事実上ドル決済となり、各国は石油を購入するためにドルを保有する必要が生まれた。
この仕組みは一般に 「ペトロダラー体制」 と呼ばれる。
※一方でアメリカは、産油国の安全保障や王政の維持を軍事的に支援する関係を築いた。
この構造は、アメリカが中東地域の安全保障に深く関与する大きな理由の一つとなっている。
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イランは石油高騰の影響で石油の価格が上がっているうちは財政は潤っていたが、石油価格が落ち着くと石油収入に頼った急速な経済成長はインフレを招き、国民生活を犠牲にした。
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1978年、宗教界、一般民衆によるデモが激化。
その後の革命(イラン革命、1979年)によってパフラヴィーの政権は倒される。
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イスラム法に基づく社会秩序が再構築される。
革命政権は、反米、反イスラエル、イスラム革命を掲げた。
政権はイスラムの教えを盾に、革命を支持しなかった人々を制限、強権的な統治を行った。
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イランは「革命の輸出」を掲げ、自国で起きた政治革命や体制転換の理念や仕組みを他国にも広め、同様の革命を誘発・支援しようとした。
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パフラヴィーは革命が激化する前に国外に脱出。後にアメリカへ亡命することになるが、これに革命側が激怒した。
(CIAによる1953年のクーデター再来を恐れた)
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アメリカ大使館占拠事件。
(444日にわたって人質を拘束)
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アメリカ国内は激怒、イランは反米革命を正当化。
これによってアメリカとの関係は極度に悪化し、イランの反米姿勢が固定化された。
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1980年、イラクのサダム・フセイン政権が、革命直後で弱体化しているイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。
奇襲を受けたイランは各地で敗北を重ねた。
※当時アメリカとイランの関係は、1979年のアメリカ大使館占拠事件によって極度に悪化していた。
さらにアメリカや湾岸諸国は、イランの「イスラム革命」が中東全体に広がることを警戒していた。
そのためアメリカやヨーロッパ諸国、ソ連など多くの国がイラクを支援し、イランは国際的に孤立する形となった。
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1980年、パフラヴィーが最終的な亡命先であるカイロで死去。
これにより大使館占拠の根拠は失われ、アメリカとイランは水面下で交渉を進めた。
※この時、外交的にも孤立していたイランはイラクへの降伏を検討するほど追い詰められていた。
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こうした状況の中でイラン政府の交渉姿勢も次第に軟化し、人質事件は1981年に解決する。
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結果としてイランには
「国際社会は誰も助けてくれない」
という安全保障意識が強く残り、軍事力強化路線へと進むことになる。
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当時のアメリカ大統領であるジミー・カーターは内外政策の度重なる失敗、特にイランアメリカ大使館占拠事件への対応の拙さによって国民の支持を失い、ロナルド・レーガンに選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10ポイント近い差をつけられて敗北する。
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1982年、イスラエルがレバノンに侵攻。
イラン革命防衛隊がレバノンに軍事アドバイザーを派遣し、シーア派組織を再編・訓練してヒズボラを創設した。
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イスラエル vs イランの構図の始まり。
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1987年、パレスチナ全土にイスラム国家を樹立することを目的に活動するイスラム抵抗運動、通称ハマスが結成される。
反シオニズム抵抗組織であり、イスラエルの存在は認めておらず、ユダヤ人に対する一切の権利を認めていない。
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イラン(シーア派)とハマス(スンニ派)は本来対立関係にあるが、イランはハマスを「抵抗の枢軸」の一角として、反イスラエルの目的から軍事・資金・政治面で支援を始めた。
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こうして中東問題は、宗教対立だけではなく、植民地支配・石油利権・冷戦政治が絡み合った極めて複雑な問題となっていった。
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※追記
エルサレムは当初、どの国にも属さない国際都市として国際管理下に置かれる計画だった。
しかし1948年の第1次中東戦争で状況が変わり、西エルサレムをイスラエル、東エルサレムをヨルダンが支配する形で分割された。
その後、1967年の六日戦争でイスラエルが東エルサレムを占領し、イスラエルの首都と宣言、現在も実効支配している。
しかし多くの国際社会はこれを正式な主権としては認めていない。
エルサレムは3つの宗教の聖地である。
ユダヤ教 → 嘆きの壁
キリスト教 → 聖墳墓教会
イスラム教 → アル・アクサー・モスク
つまり3宗教の聖地を含む都市が政治的支配の対象となったことが、紛争の大きな要因の一つとなっている。
ただし、シオニズム運動の理念の中には「ユダヤ民族の聖地への帰還」という思想もあったため、イスラエル国家の建設地がパレスチナ以外であることは多くの支持者に受け入れられなかったという背景もある。
※追記2
1979年、イラン革命が発生し、親米王政が崩壊。
反米・反イスラエルのイスラム共和国が成立。
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同年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。
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冷戦下でアメリカは「ソ連の南下阻止」を目的に
パキスタン
サウジ
CIA
を通じて、アフガンのイスラム戦士を支援、武器・資金・訓練を提供した。
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世界各国から「ジハード義勇兵」が集まり始める。
その中にオサマ・ビンラディンがいた。
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1989年、ソ連がアフガニスタンから撤退。
しかし戦後のアフガニスタンは武装勢力の内戦状態になる。
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1994年、内戦の混乱の中でタリバンが台頭。
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1996年、タリバンがアフガニスタンを掌握。
その後、アルカイダを保護。
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2001年、911、アメリカ同時多発テロ。
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アメリカはアフガニスタン紛争を開始。
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その後「テロとの戦い」を掲げ、
2003年イラク戦争へ拡大。
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イラク戦争後の混乱から「イスラム国、略称:IS」が誕生。
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現在の中東は、
イラン
イスラエル
サウジ
トルコ
米国
ロシア
などが関与する、複雑な代理戦争構造になっています。
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最後に
中東問題は非常に複雑で、歴史解釈には様々な立場があります。本稿は大きな流れを理解するための簡易整理です。




