『せめて、忘れぬように──』
とりあえず読んでみてください。
Ⅰ
あの夏の日から、
風の音がどこか遠くなった気がする。
午後の光のなかで、ふと縁側に腰をおろすと、白いカーテンがふくらみ、肩を撫でてゆく。
そのたびに、私は目を細めて、
あの日の彼女を思い出す。
Ⅱ
たしか、
あのときもこんな風だった。
彼女はひとり、縁側に座っていた。
風がカーテンを揺らし、
それが肩にふれるたび、
彼女は遠くを見つめていた。
「……いつかと、同じ匂いがする──」
そうつぶやいたあと、言葉は続かなかった。
記憶は、思い出そうとするほどに、
夢のなかで読んだ、雨に濡れた手紙のように、言葉はにじんでいった。
Ⅲ
私はそっと、彼女の隣に座った。
風の音だけが、ふたりのあいだにあった。
それは、
もう戻らない時間だった。
あの午後の光も、あの声の調子も。
失われたものは、綴られることなく、
ただ、胸の奥で、風のように鳴っていた。
Ⅳ
彼女は、ふと笑って言った。
「ねえ、あのとき──私たち、何を話していたのかな…」
私は答えられなかった。
言葉は、もうそこにはなかった。
ただ、静寂だけが、やさしく私たちを包んでいた。
Ⅴ
いま、私は立ち止まっている。
なぞるのではなく、喪失のなかに、
ひとつの祈りを置くために。
もう戻らぬものたちのために。
Ⅵ
そして、
彼女が見つめていた、あの遠い景色を思いながら、
私はそっと目を閉じる。
風のなかに、かすかに残る
あのときの気配の名残を、
せめて、忘れぬように──
読んでくださった方々、ありがとうございました。




