14話 雑用係として
午前五時半。
布団から身を起こした澪は、室内をゆっくりと見回して深呼吸した。
「大丈夫……ここは桂木家」
幾分落ち着いてきたとはいえ、まだ実家での朝が体に染み込んでいた。
しかし、四角い窓からから射し込む朝日や、い草の香りが澪の心を慰めてくれる。
――もう三日目なんだから、慣れないと
澪は大きく息を吐くと立ち上がった。
いそいそと寝間着から給仕服へと着替え、身だしなみを整える。
「頑張らなきゃ」
その日も朝食の準備から始まり、洗濯、掃除と慌ただしく過ぎていった。
澪はぎこちない動きながらも大きな失敗はすることなく、一日の仕事を終える。
午後八時。
夕食の後片付けを終え、自室に戻ろうとしていた澪は廊下で桜井に声をかけられた。
「柏木さん、藤村様がお呼びです」
「藤村さんが?」
「ええ」
桜井は短く答えると、先導を始める。
――もしかして無意識に失敗していたのかしら?
後に続きながら、澪の胸は不安と緊張でいっぱいになる。
彼の部屋は玄関を入ってすぐ、応接間の脇に添えられた一室だった。
到着すると、桜井は軽くノックして声を掛ける。
「桜井です。柏木さんをお連れしました」
「どうぞ、お入りください」
少しだけ柔らかい藤村の声が響く。
桜井が襖を開けると、座敷に正座して優雅にお茶を嗜んでいる藤村の姿が見えた。
藤村はゆっくりと立ち上がると、燕尾服のシワを伸ばしながら澪達を出迎える。
「夜分に呼び出してすみませんでしたな。
桜井、ご苦労。下がって良いぞ」
「では、失礼致します」
桜井は深く一礼すると使用人部屋の方へ去っていってしまった。
澪は緊張で藤村の顔をうまく見ることができない。
藤村はわずかに微笑むと、ゆっくりと口を開いた。
「律様がお呼びでございます。
他の方に勘付かれてはいけませんので、少々回りくどくなりましたが……」
「律様が、ですか?」
「ええ。なにやらお話があるようで……」
――何のお話かしら? もしかして、仕事から外される!?
澪はこの三日間、大きな失敗をした記憶はなかった。
しかしそれでも、気持ちは落ち着かない。
「では、参りましょう」
澪は不安になりすぎて、額に汗が浮かび始めていた。
書斎は藤村の部屋から廊下を挟んで西側にあった。
「藤村でございます。澪嬢をお連れしました」
「入れ」
短い返事が聞こえると、藤村はドアを開けた。
中では、律が机に向かって真剣な顔で書類に目を通している。
すぐに書類を机に置くと、藤村と澪を交互に見た。
「藤村、ご苦労だったな。下がって良いぞ」
「では、失礼致します……」
藤村が出ていくと、室内は静寂に包まれる。
律から醸し出される雰囲気は冷たかった。
――やっぱり仕事から外されるの?
榎田さん達の半分も働けていないような……
澪は気が気ではなく、心配で頭痛がし始めた。
律は澪の真正面に立つと、淡々と話し出す。
「遅い時間に呼び出してすまなかったな。
お前を呼んだのは他でもない」
律は一呼吸置くと、澪の目をしっかりと見つめた。
「お前を、雑用係として正式に認める。
これからは桂木家の一員として恥じぬよう励め」
「え」
澪は言われたことが理解できなかった。
まるで、軽い用事でも言いつけるように、あっさりと言い放ったからだ。
――正式に認めてくださった?
でもまだ三日しか経ってないし、聞き間違えたのよね
言葉を失っている澪に、律は少し意地悪そうな顔で声をかける。
「もう一度言おうか?」
「いえ……大丈夫です。で、ですが、まだ三日しか……」
「三日あれば十分だ。お前の働きはそれに値する」
途端に、澪の目から涙がこぼれ落ちる。
――律様の前なのに! 止めなきゃ!
しかし涙は止まってくれなかった。むしろ、どんどん溢れてきた。
澪は慌てて袖口で目元を押さえ、震える声で叫んだ。
「も、申し訳ございませんっ! お見苦しい姿を!」
律は少しだけ目を細めて澪を見つめ、やわらかく息をついた。
律の表情に合わせて、場の空気も穏やかになる。
「……泣きたい時に泣けばいいさ。誰も咎めはしない」
澪はその言葉にさらに胸が熱くなり、声を出すこともできず深く頭を下げた。
しばらくして、澪はようやく落ち着きを取り戻した。
しかし今度は恥ずかしさから、律の顔を見ることができずに身を縮こませている。
律は書類から顔を上げると、澪に声をかけた。
「落ち着いたか?」
「は、はい……」
――あ、そういえば。まだ偽名のお礼を言っていなかったわ
ふと、澪は思い出した。
勇気を出して顔を上げ、律の目をしっかりと見る。
「あ、あのっ……! 私のために偽の名前をつけてくださって……ありがとうございます!」
律は視線を下げないまま、特に感慨もなさそうに答える。
「礼を言われるようなことではない。
中堅とはいえ名家……この家の中にも知っている者が居てもおかしくはないからな」
そしてわずかに目を細めて澪を見ると、低く言葉を添えた。
「決して、墓穴を掘るなよ」
穏やかだった一瞬で空気が冷たくなり、澪はビクリと体を震わせる。
「し、承知致しましたっ!」
律はその怯えを気にする様子もなく、淡々と告げた。
「……明日も早い。もう下がっていい」
「し、失礼致します!」
澪は小さく頭を下げ、慌ただしく部屋を後にした。
月明かりが照らす廊下を通り、自室に戻ると布団を敷いて横になる。
「認めてくださった……。ここに居て良いと仰ってくださった……」
澪にとって、認めてもらえることは何よりも嬉しいことだった。
実家にいた時のように、理不尽に怒鳴られることもなければ、嫌味を言われることもない。
――身分が低くても構わない。私は、この家で働きたい
澪は強く決意すると、瞼を閉じた。
このお話で一区切りになります。
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