閑話 澪の居ない朝比奈家
午前九時半。
藤村は朝比奈家を訪れていた。
客間では継母の綾子と義妹の瑠璃がニコニコと愛想笑いを浮かべている。
今度こそ、瑠璃への縁談だと思っているからだ。
藤村は黒い燕尾服の襟を正しながら無駄のない動作で畳に正座すると、
低い声で告げた。
「朝比奈澪嬢は、今後桂木家にて住み込みとしてお世話になることとなりました。以後、貴家からの干渉は不要と判断し、こちらで責任を持って面倒を見ます」
その瞬間、二人から笑みが消えた。
綾子は目を見開いて全身を震わせており、瑠璃は眉を釣り上げて立ち上がると藤村に詰め寄る。
「なんでよ!? なんで私じゃなくて、あの出来の悪いお義姉様なのよ!?
私の方が見た目が綺麗でしょう!?」
「瑠璃……落ち着きなさい」
瑠璃は綾子に小さな声で、しかし諭すように言われて渋々座り直した。
綾子は藤村に頭を下げると、浮かない表情で切り出す。
「娘が失礼致しました……。理由をお聞かせ願えますか?」
「先ほど申し上げたとおりです。澪嬢は桂木家の使用人として住み込みでお世話になることとなりました」
「そんな……っ! あの子は、澪は何か言っていませんでしたか!?
私達を見捨てて、自分だけ桂木家に行くなんて――」
「理由は、貴女方がよく理解されているのではありませんか?」
静かに言い放った藤村に綾子が押し黙る。
――以前伺った時は、澪嬢をいじめていることを否定した。
しかし、今言葉が返ってこないということは、日常的にいじめていたのを認めたも同然ですな
藤村は心の中で深いため息をついた。
瑠璃は唇を震わせながら、爪をいじっていた。
綾子は沈黙がマズいと思ったのか、弾かれたように顔を上げると、声を詰まらせながら話し出した。
「あの子にはすぐ帰ってきてもらわないと困ります!!」
「困られる? 貴女方がですか?」
「そうよ! お義姉様は何でもできるから頼りきりなのよ!」
「ほう? 先ほど「出来が悪い」と仰られていませんでしたか?
どちらが正しいのでしょう?」
瑠璃は悔しそうに藤村を睨むと言葉を吐き出す。
「言い間違えちゃったのよ! 誰だってあるでしょう!?
お義姉様は何でもできるの!!」
「左様でございますか……。
話を戻しますが、澪嬢の待遇についてはご理解いただけましたか?」
「あの子は……もうこの家には帰ってこないのですね?」
「はい。そのように伺っております」
藤村が答えると、綾子は安心したように息を吐いた。その様子を見た藤村が眉をひそめる。
すると、再び瑠璃が立ち上がってせきを切ったように話し出した。
「私は理解していないわよ! お義姉様だけなんて許せない! 私も連れていってよ!」
「律様からそのようなお達しは受けておりませんので」
淡々と告げた藤村に瑠璃は眉をつり上げた。
「あのお義姉様のどこがいいわけ!? オドオドして意見も言えないような人が!」
「瑠璃、はしたないですよ。お客様の前で」
「はしたなくても良いわ!!
私の方がたくさん勉強して、たくさん作法を学んだのに!!
なんで何も学んでないお義姉様がっ!!」
興奮気味に話す瑠璃は止まらない。
藤村は何度目かの小さくため息をついた。
本来、客人がこのような態度をとってはいけないことは承知していたのだが、吐かずにはいられなかった。
ふと、綾子がお茶を出していないことに気づき、瑠璃をつつく。
「瑠璃、お茶をお出ししなさい」
「できないわよ! お茶の淹れ方なんて知らないもの! 作法で習ったことなんてないわ!」
小声で会話する二人を見て、藤村は静かに立ち上がった。
「では、私はこれで失礼させていただきます。
この後、予定もありますのでな」
「そんなっ。せめて、お茶を一口だけでも……」
「お気遣い結構。それでは」
藤村は深く一礼すると、客間を後にした。
玄関に向かう途中で、お盆を持ったおかっぱ頭の使用人とすれ違った。
亜子だ。
お盆には湯気が立ち上っている湯呑みが乗っている。
彼女は藤村にオドオドした様子で頭を下げた。
「も、申し訳ございません! お茶もお出しできずに……」
「いえいえ、お気遣いなく。
こちらこそ、二度も突然訪ねてしまい混乱させてしまいました。
ところで……一つお尋ねしても?」
「は、はいっ。私に答えられることなら」
「お茶は普段、どなたが淹れられているのですかな?」
わずかに眼光の鋭くなった藤村に見つめられて、亜子は身震いした。
「み、澪様でした。私達、他の使用人も淹れられるのですが、瑠璃様から「お茶はお義姉様に淹れさせて」と言われており……。
今回久しぶりに淹れたものですから、戸惑ってしまって……」
「左様でございますか。お答えいただき、ありがとうございました」
「お、お待ちくださいませっ!」
そのまま立ち去ろうとした藤村は足を止めて振り返った。
亜子が震えながらも、顔を上げている。
「どうかしましたかな?」
「み、澪様は、お元気ですか?」
藤村は一瞬目を見開いて、薄く笑った。
「ええ。体調は崩されておりませんので、ご心配なく。
貴女も、どうかご自愛ください」
「は、はい! ありがとうございました!」
深々と頭を下げる亜子を見て、藤村はフッと笑みを漏らすと立ち去る。
ところどころ傷のある、朝比奈家の茶色い門を出た藤村はポツリと呟いた。
「味方は居たようだが、やはり澪嬢にとっては帰りたくない家でしょうな……」




