9話 顔合わせ
午後一時。
軽食をとった澪は部屋で桜井から説明を受けていた。
一枚の紙を受け取り、真剣に目を通している。
「それでは、使用人の一日をご説明しますね。
朝6時までには厨房に向かい。他の使用人と協力して朝食を作ります。
そして7時には居間へ移動し、配膳します。1名は居間で待機し、他は厨房に戻ります。律様達は二十分までには食事を終わらせますので、その後、片付けとなります」
「わ、わかりました」
「片付けが終わり次第、手分けして洗濯と掃除に取り掛かります。詳細は共に担当になった者に聞いてください。
ちなみに、桂木家に使用人は二十名おり、交代制で従事しています」
「二十名……」
――家より十五人も多い。名前を覚えるだけでも大変そう……
そう考えて、ふと朝比奈家の顔が澪の頭をよぎった。
――そういえば亜子達は元気にしているかな。私の代わりに酷いことをされていなかったらいいけど
澪は実家を出る時のことを思い出した。
自分を憎々しげに見る綾子と瑠璃。憂さ晴らしで亜子達に当たっていてもおかしくはない。
澪が不安に浸っていると、桜井が少し真剣な顔つきになった。
「最後に。ここでは「柏木澪」として過ごしていただきます」
「柏木……? それは……?」
「律様と藤村様が用意された、貴女の仮の姓です。朝比奈家の名は、知る者には知られています。身を守るための措置だとお考えください」
「……はい。ありがとうございます」
桜井は立ち上がり、澪に視線を向ける。
「それでは、屋敷をご案内しましょう」
「よ、よろしくお願いします……!」
緊張しながら澪も立ち上がった。 足元はまだおぼつかないが、それでも一歩一歩が新しい始まりのように感じられた。
屋敷の廊下は静かでよく磨かれていた。 澪は歩きながら、ふと床に映る自分の顔を見て背筋を正す。
部屋を出て角を右に曲がると、大きな扉が目に映った。
「ここは厨房。朝と夕方は特に慌ただしくなります」
桜井が軽く扉を開けて見せると昼を過ぎたばかりだというのに、中では女性数名が野菜を切ったり鍋をかき混ぜたりしていた。 ちらりとこちらに視線が向く。
「……新人かしら?」
「ええ。明日から雑用係として加わる柏木澪さんです。先に顔合わせだけでもしておこうと思って」
桜井がそう紹介すると、一人の中年女性がまっすぐ澪に向き直った。
「挨拶をしてもらえる?」
「あっ……あのっ、柏木澪と申します! 未熟者ですが、よろしくお願いします!」
澪の声が少し裏返った。だが、顔を上げると女性たちの表情に大きな敵意はない。
澪は安心と不安が入り混じった複雑な気持ちになった。
「それにしても急ねぇ……まぁ、こちらこそよろしく。
気負わずにやればいいから」
「はいっ……」
中年女性は厳しそうではあるが、声にトゲはなかった。
安心したように澪が頭を下げると、奥のほうから誰かがくすくすと笑う。
「今笑ったのは誰!?」
中年女性の怒声に、場が水を打ったように静かになった。
それから澪達に向き直ると気まずそうに頬をかいた。
「悪かったわね。ときどき思い出し笑いする人がいるから」
「いえ。忙しい所お邪魔してすみませんでした」
「すみませんでした……」
桜井に続いて澪も頭を下げる。
「じゃあ、明日からよろしくね」
中年女性は早口で言うと、釜戸の火を確かめに奥へ引っ込んでしまった。
桜井は目で澪に合図を送ると厨房を後にした。
次に向かったのは、洗濯場と裏庭。
雲一つない青空の下、 竿に干された白い布が風に揺れていた。
「洗濯は朝のうちに一斉に干して、夕方には取り込まれます。天候により室内に干す場合もありますが、そこは臨機応変に……」
「なるほど……」
その後、掃除道具の保管庫、当番表が貼られた掲示板、廊下の曲がり角の注意点まで、桜井はひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
屋敷内をぐるりと一周するように。
そして、西側にある少し豪華な襖には立派な松が描かれていた。
「……そして、ここが居間。律様やご家族が集う場所です。
使用人が立ち入るのは配膳や掃除のときのみ。原則、必要以上の会話は控えてください」
「はい」
緊張で額にうっすら汗がにじむ。
――ここが本家の人達がいる場所。失礼なことしないようにしなきゃ
「次に行きますよ」
「は、はいっ! すみません!」
桜井は澪の様子を伺いながらもスタスタと歩いてゆく。澪も慌てて後を追った。
そこから真っ直ぐ南に進み、ある部屋の前に辿り着いた。
ここだけ西洋風の造りで、金の装飾を施した黒いドアが隔てている。
「ここは書斎です。主に当主――律様が在室されております。
しかし、使用人の立ち入りは厳禁です。律様に呼ばれでもしない限りは許されませんので」
少し鋭くなった桜井の目つきに、澪は思わず一歩後退した。
「貴女は大丈夫だとは思いますが、念の為強めに言いました」
それから東に進み客間の前を通る。
その時に澪は柱時計があることに気づいた。
思わず足を止め、正確に揺れている振り子を眺める。
朝比奈家にはこのような高級品はなく、せいぜい居間や厨房に掛け時計がある程度だった。
「立派な時計……」
「お褒めいただきありがとうございます。
屋敷の者はほぼ、この時計で時間を確認していますので、お知りおきください」
「わかりました」
部屋に戻り、腰を下ろすと桜井がじっと澪を見つめた。
「給仕服についてですが、今夜か明日の早朝に部屋の前に置いておきます。
あと、最後に一つだけ忠告を」
「はい……」
「桂木家には、それなりの覚悟で入った方が良いでしょう。
律様は、情よりも理屈です。今日あなたが受け入れられたのも、情ではなく筋が通っていたからだと思いますので」
澪はごくりと息を飲んだ。
成り行きで置いてもらうことになったとはいえ、中途半端な従事では外されてしまうだろう。
――何もせずに過ごすのは嫌。
澪の心情を察したのか、桜井が少し声を柔らかくして話を続ける。
「でも、無理をして潰れる必要はありません。 助けがほしいときは、私でも良いです。誰かを頼ってください」
「わかりました。 よろしくお願いします!」
澪は深々と頭を下げる。
桜井の言葉に、澪の胸が少しだけ軽くなった気がした。
「では、私はこれで……」
桜井が立ち上がって襖に向かおうとする。
澪は尋ねたいことがあり、慌てて呼び止めた。
「ま、待ってください! 一つだけお尋ねしたいことがあるんです」
「何でしょうか?」
「桜井さんは、どうして私を……?」
その先は言葉にならなかった。
桜井は実家での澪を一目見ただけで何かを感じ取り、上に報告してくれた。
それが律へと伝わり、こうして雑用係として置いてもらえることになった。
桜井はしばらく驚いた顔で澪を見つめた後、ふと、遠くを見るような目になった。
「昔、似たようなことがあったのですよ」
「え……」
「ですが、私は報告しただけにすぎません」
桜井は澪に視線を戻した。その顔は少し緩んでいる。
「実際に、律様が「貴女に興味を持たれた」のです。
感謝を述べるなら、律様に」
「……は、はい……」
澪は思わず両手を握った。
じんわりと胸の奥が熱くなった。
その夜、澪は布団に潜り込んでぼんやりと天井を眺めていた。
布団は朝比奈家で寝ていたものとは違い、フカフカで寝心地が良かった。
「明日から頑張らなきゃ……」
澪は自分を奮い立たせるように呟くと、目を閉じた。




