9話 魔眼の神童剣士Ⅱ
クレンが丘で剣の鍛錬を始めて一ヶ月が経った頃。
「……失礼します」
「おぅ、戻ったか」
自室に使用人が入ってくる気配を感じながらも、ギルバートは窓の方を向いたまま微動だにしなかった。
「ご苦労。そいつを置いたら退がれ」
書類の山を放置し、望遠鏡を向けてじっくり眺める先には、右手の剣技が随分と板についてきた兄貴分の姿。
アンナに任せている機能回復訓練と食事の時間を除けば、彼は1日の殆どを丘の上で過ごしているようだ。
いつ休んでいるのかと心配になる反面、いかにも真面目で完璧主義な彼らしい勤勉さを何となく嬉しく思うのも事実だった。
「……あの」
敵の捕虜に不審な動きが無いか監視──という建前のもと、ギルバートは使用人の一人に通話用魔道具“Eコール”を預け、丘へと毎日向かわせている。
未だ世に出ていない貴重な魔道具のため、使用後は必ず返却させているのだが、使用人はEコールをデスクに置いた後、退室することなく物言いたげな表情で佇んでいた。
「? 何だ」
「じ、実は──あの捕虜が、こちらをと」
おずおずと差し出されたのは小さく折り畳まれた紙片。
怪訝に思いつつ受け取って紙を広げると、乳母のユリアに仕込まれたという彼の見覚えある達筆が覗いた。
(そーいやあの人、筆記は右利きだったか……)
懐かしさに胸がいっぱいになりかけた直後、記された内容にギルバートは目を剥いた。
『捕虜の監視は部下に任せ、公爵殿下は御公務に専念されますよう──』
(っ、んだとぉーっ!?)
「公爵様、奴は何と……?」
「っ、戯言だ。無視で構わねーよ」
使用人を追い出し、窓の外を睨む。
望遠鏡無しのためはっきり確認はできないが、丘の上にいる人影がこちらに向かって会釈したように見えた。
(“魔眼”は健在かよ……相変わらず末恐ろしー力だぜ)
握り潰しかけたメモを折り畳んでポケットに仕舞うと、ギルバートは勢いよく窓のカーテンを閉めた。
(ってか、そんなに見てねーし! 自意識過剰だっての!)
そうして込み上げる羞恥心に頭を抱えていた若き公爵殿下の姿は、幸い誰にも見られることは無かったという。
◆
『くっそぉ! やっぱクレンには敵わねぇ!』
『やるじゃねーか。約束通り、アンタをもう一度オレサマの右腕にしてやるぜ』
『ありがとうございます、若様』
『身内の場で敬語は不要だろ?』
『……恩に着るよ、ギル。もう一度、お前の隣に立たせてくれるか?』
『へっ、アニキ以上に相応しい奴は居ねーっての!』
──そんなシナリオを思い描いていたギルバートだったが、丘の上で繰り広げられる“鍛錬”の様子に、思わずアンナと2人で目が点になっていた。
「ほら、今の。リーチに頼って踏み込みが甘い」
「あちゃー、だから避けられんのか!」
「白兵戦の基本は足腰だろ。だいぶ良くなったけどな」
「マジで!? よっしゃ、次こそ行くぜ!」
三角巾の外れたクレンから嬉々として指導を受けるガイの図に、アンナが呆れ顔で呟く。
「……クレンの鍛錬なんですよね?」
「ガイのヤロー、完全に目的忘れてやがるな……?」
(あの脳筋バカは後で仕置きだ)
そんなギルバートのブラック思考を読んだかのようにガイが背筋を震わせ、クレンもこちらを振り返った。
「お待たせして申し訳ありません、公爵殿下には──」
「いいからさっさと始めろ」
他人行儀な物言いへの苛立ちも込めて遮れば、クレンは小さく頷き、やる気満々のガイへと向き直る。
「マジの本気でいいんだよな?」
「あぁ。殺す気で来い」
「あぁ!? おい、あくまで模擬戦──」
殺気だだ漏れで舌舐めずりする戦闘狂モードのガイを目にしたギルバートは声を荒げかけたが、既に両者は互いに向かって駆け出していた。
「おらぁっ、食らえっ!」
故意に地面を抉って土煙で視界を遮るなり、ガイは縦横無尽に大斧を振り回す。
(あの特攻ヤローが目潰しだと……!?)
まさかの初手にギルバートは仰天した。
内乱時には度々自分も彼と共に剣を振るったものだが、ガイが知略を巡らせて戦う所など一度も見たことがない。
「!」
土煙が立ち込める中、クレンは素早く風上に移動する。
その動きにも即座に反応したガイは、振り向きざまに大斧を繰り出す。
強烈な一撃を紙一重で躱しつつ巨体の脇に飛び込んだクレンは、すれ違いざま鞘に収めたままの短剣を一閃させた。
「いっでぇっ!?」
針の目を通すかのような絶妙のタイミングで手の甲を打たれ、ガイが悲鳴を上げる。
「まだ続けるか?」
「っやる!」
「了解。次は手以外にしとくな」
(……マジかよ)
「全く、ガイも負けず嫌いですね」
(あれが真剣なら、今ので決着じゃねーか……!)
剣術は素人のアンナが苦笑するが、ギルバートは言葉を失っていた。
『俺はギルやシドと違って筋力も無いし、目指す戦法が違うんだ』
訓練生時代、普段あまり自己主張をしないクレンが珍しく熱を込めて語ってくれた内容を思い出す。
『ギル達は“剣士”、俺は“刺客”。もし2人で敵と戦う時は、俺が陰からサポートするからな』
(この人は、オレサマの“右腕”は、まさに──)
「あっ、危ないっ!?」
振り下ろされる大斧のあえて真下を掻い潜り、股抜きで背後を取る。
一見向こう見ずに思える立ち回りも、彼はきっちり相手の一挙一動を“視て”、確実に仕留められると確信した上で動いているのだ。
(魔眼の、神童剣士だ──!)
だから基本クレンは“判断ミス”をしない。
人並外れた視覚をもち、魔眼により蓄積された映像記憶と経験に基づいて最適解を見出す“知の剣”──それが、彼の神童たる所以だった。
「今ので首か胸を一突き。どっちも急所だ」
ガイが身を翻すより速く、鞘付きの短剣で広い背中を小突いたクレンは、眉一つ動かさず間合いを取る。
その脳内であと何手先を読み、何種類の作戦を練っているのか、ギルバートには皆目検討もつかなかった。
「くっそ、もう1回!」
「いや、充分だ」
むきになって大斧を構え直すガイを制し、ギルバートはクレンの前へと歩み寄る。
悔しいことに、自分は決して長身の部類ではない。
再会時にはほぼ同身長だった筈が、この1年で少し差を広げられてしまっていた。
明らかに痩せ細っていた彼の為に、アンナを通して毎食きっちり栄養たっぷりのメニューを用意させたのは自分なので、致し方ないのだが。
「クレン・スレイヴ」
「はい」
細身ながらもバランスよく筋肉が付き、すらりとした気品ある立ち姿は相変わらず貴族と比べて遜色ない。
見事な金色だった髪はややくすんだ亜麻色に変わっているものの、凛々しくも優しげな顔立ちは以前の面影を残していて、稀有な金眼も健在だ。
ただ、未だにどこか虚ろな眼をした無表情であることだけが気掛かりだった。
「アンタをもう一度、オレサマの右腕にしてやる」
とはいえ、この一言を口にすれば、昔と変わらず穏やかな微笑みで頷いてくれると思っていたのだが──。
「いえ、結構です」
「──は?」
まさかの即答で断られ、ギルバートの思考が停止した。
そんな自分に構わず、彼は淡々と続ける。
「敵の捕虜として顔が割れている俺を側に置かれては、民衆の反感を買うでしょう」
「!」
「公爵殿下の名声を損なう訳にはいきません。俺は表舞台には出ず、裏方に徹させていただきます」
「!!」
実際、貴族派への断罪を求める声は未だ根強く、クレンの意見は的を射ている。
とはいえ、ずっと彼を側近にしたいと願っていたギルバートが素直に受け入れられるはずもないが。
(おい誰だアニキに国の内情バラしやがったの!)
後方で唖然としているアンナやガイを一睨みするが、2人は青褪めた顔でブンブンと首を横に振った。
彼に余計な情報を与えないよう事前にきっちり口止めしていた2人が原因とは考えにくく、他にクレンと接点があったのは監視役の使用人くらいだ。
(あの雑用ヤローか! 帰ったら即クビに──)
「的外れでしたらすみません。約1年間、ずっと公爵邸の敷地内で俺を衆目に晒さないよう徹底されていたので、そう解釈したのですが……」
「!?」
つまり、クレンは自力でギルバートの思惑を完璧に読み切ったということで。
(あーもうっ畜生! 洞察力ありすぎだっての!)
最早ぐうの音も出ない。
こうなっては、公爵権限で私情を挟んでいた自分の負けを認めるしかなかった。
「……分かった。アンタの言う通り、国内は未だ不安定でな。非っ常ーに不本意だが、今は右腕にするのを諦めてやる」
「流石の若様もクレンの言うことは聞くんだな……!」
「黙れガイ、後で覚えとけ」
小声で感嘆していた大男が身を縮めるのを視界の片隅で捉えつつ、ギルバートは改めて目の前の兄貴分を睨み上げる。
「だが……これだけは、言わせてもらうぜ」
公爵という立場が問題ならば、別のアプローチをすればいい。
これまで逆境を乗り越えてきた自分の強みは、しつこすぎるほどの執念深さと諦めの悪さなのだから。
「その“従者モード”やめろ、いい加減ムカつくんだよっ!」
「…………」
あえて子どもの頃そのままの我儘を口にして、情に訴える作戦。
しかしまさかの沈黙で返され、羞恥心で顔が熱くなる。
「っ、あんだよ、何とか言いやがれ!」
やけくそ気味に声を荒げれば、クレンはそっとギルバートへ手を伸ばしてきた。
「……ギル」
ポン、と頭に置かれる掌。
記憶とは異なる声と、記憶よりも感情の乏しい大人びた顔。
「隣に居るって約束、守れなくて……本当、ごめん」
「っ……!」
「ずっと頑張ってきて、偉かったな」
だが、自分を優しく撫でてくれる仕草も。
穏やかで落ち着いた口調も。
大好きな金の瞳も。
あの頃と変わらないものが、確かに残っていた。
「遅くなったけど……ただいま、ギル」
「あ、にき……アニキィ……ッ!」
ずっと溜め込んでいた感情が、遂に決壊する。
ギルバートは今や唯一の“家族”となった兄貴分に縋り付くと、幼子のように声を上げて泣き出したのだった。