西下り~夢洲奇譚
黒ずんだ空間の隅におんぼろな服を脱ぎ捨てる。もう何日着たかもわからない。
芳川鏡吾は東京の方向がどこにあるかすら分からなくなりそうだった。ただひたすら西を目指して、ここまで来たのだ。
もとはと言えばくだらない動機だった。芳川は東京で生きることに限界を覚えるようになっていた。
家庭を捨てた。それを非難されるのは当然のことだ。
だから謝りに行こうとも思わない。そんなものは自己満足に過ぎないから。
ビリケンの彫像が公園の中心に飾られており、信徒が深く頭を下げる。
赤と青の混じり合った渦のような何かがコンクリートの上に描かれ、そこを人々が避ける。何でもそれは、数十年前に突如現れ、信者を獲得した宗教らしい。
何のご利益があるのか分からないが、これを目にした人間は必ず頭を下げて通りかからねばならないことになっていた。
何度経験したか分からない死の瞬間を乗り越えて、ひとまず芳川が身を落ち着けたのは夢洲である。ここは外界と隔絶した世界となっていた。この国に数百とある医療法人ですら、夢洲を統治するには至っていない。ある医療法人が追放されてからこの島は住民による統治が行われ、頑なに外界からの干渉を拒んでいる。
大阪や京都が医療法人による戦争の真っただ中にある中、その目と鼻の先にあるこの夢洲は比較的ましな秩序が保たれていた。
とはいえ、民衆は常に外敵の侵入におびえ、神経を張り詰めさせている。もしここで騒動に巻き込まれれば、命の保証はない。
だから芳川は息をひそめて、自分の存在をかき消すことに尽力していたのだ。一人でいるよりは、群衆の中に溶け込んでいる方がひとまず安心。彼らの顔の一つ一つを眺めて、芳川はそこにどれだけの苦労が刻み込まれているか、時折想像力を働かせることがある。卑しい動機ではあるが、
南海トラフでもこのあたりは大きな被害を受けた。
人々は誰の支援もあてにすることができず、集まって耐え忍ぶことしかできなかった。その絶望的な日々を過ごしている内に、彼らは自分たちと苦しみを共有しない者たちを敵視し憎むに至った。
そうなると、他者と分かり合って歩み寄り、元の自分に戻ることなどなかなかかなわなくなる。誰もが、被害者でいたがるものだから。
もう何十年も前から、そういうことばかりだ。
夢洲の産業は、売春と薬物によって成り立っている。
町の中心部には娼館がいくらでも立ち並んでいる。そこで働く人の人種も出自も多種多様だった。無論、危険な場所なので芳川は近づこうとも思わないが、それでも
どこから来た人間か、とやかく尋ねないのが暗黙の了解となっていた。いや、もうここでは民族など意味をなさない。自分が何人であるかを気にする人すらもはやいないのだ。
それはある意味芳川にとっては救いだった。何者であるかを気にせずに済むのだから。
関西に入ってから芳川が悟るのは、ここは関東に比べてすさまじい異郷であるということだ。
植生も奥多摩とは違っている。言葉も。英語の訛り具合も、東京で聞いたものとは鼻から異なっている。
日本政府に西を支配する力があった頃はもう少し自然の光景も人間の言葉も東に引っ張られていたのだろうが、それが失われてからは日々、速やかにここは東との絆を断ち切って独自の国になろうとしている。もはやそれは誰にも止められない。
日本人という概念が意味をなさなくなるのも当然だ。その気になれば何でも名乗ることができるのだから。ましてやサラダボールの極まった夢洲ならなおさらだ。
芳川は寒さに打ち勝ち、服を何とか脱ぎ捨てた。そして、赤いシャツに着替える。
石油ストーブの上でやかんがばちばちと音を立てていた。
「起きたのか、鏡吾?」
「ああ」
「遅かったぞ」
関の手のひらからロボットが降り立って、芳川の側に駆け寄る。
「飲め……薬だ」 ロボットの顎は白い錠剤をくわえている。
芳川が世話になっていたのは関勇という男だ。
関は夢洲の支配者を名乗っていた。
「恩に着るぜ」
関の周囲には他にも鳥や虫の形をしたロボットが浮いていた。そのどれもが、もう国外では売られていない型落ち品。
彼らがかき鳴らす機械音を聞くと、芳川は日常が続いているのを実感して少しだけほっとする。
芳川は錠剤をのみ込むと机の上に置いてあるコーラごと飲み干した。
「よく毒薬だと思わなかったな」
関は笑いながら言った。
「しかしあんたは生かしている」
「普通の人間は都市生活で去勢されちまうだろうが。お前にそこまでする蛮勇はない」 断言する関。
「お前には色々と役に立ってもらったよ。この玩具を修理できる奴なんて水星会の方にまで行かないといないんだからな」
「水星会も大津連合との戦いで疲弊してるだろう。こんなジャンクを持って行ってもかけあう奴なんていないさ」
「昔は違ったんだけどな。最近はすっかり金払いが悪くなっちまって……」
関はゴーグルをかけた。
「お前は、逃げたようなもんだ」 関は、芳川の顔を見ずに言った。
そういう率直な物言いに、時たま心がざわつくこともあるが、しかし正直な人間そのものがまれなこの時代にあっては関のように話してくれる人間はかえって安心感があった。
「悔いてはいない。全部俺の選択でやったことだ」
「あんたは家族から逃げたんじゃない。世界その物から逃げてるんだよ」
「世界を受け止めることも世界から逃げることじゃないのか?」
天井には黒いケーブルが何本も走り、怪しげな光がその表面を滝のように流れている。壁の貼り紙には白黒の顔写真と何を示すか分からない住所の表記。隅にちらばった、透明な液晶画面の中に難解なコードが書き記されている。湿った棚には、横殴りに積まれ、何十年前にできたか分からない漫画の単行本が、今にもページがばらばらになりそうな状況でほったらかしにされている。
芳川は外の景色に目をやった。
建物と建物の間に半透明の赤い幕を張る作業を行っていた。もうすぐ、夏が来る。
この島の住民は、夏場になると地下壕にこもって暮らしている。
ただでさえ日光が耐え難いものになるのだから、少しでもそれを浴びてはいられない。
島の向こうでは、雑居ビルや高層ビルの中に人間がすし詰めのように暮らしている。夢洲とは別の形で、あそこではビルごとにアイデンティティが形成されている。
水や食料をめぐって起きる、ビル同士の戦争。幸いその惨状を目にしたことはないが、話だけでもそれが凄惨を極めていることだけは知っている。
「なあ、どう思うよ? こんな時代、いつになったら終わるんだろうな」
蜂の姿をしたロボットは答えた。
「お前には分からないのか? 数十万年後には誰も生きていないんだよ」
蜂は、芳川が設定した通りのキャラクターを演じて、回答した。この蜂はひたすら皮肉屋としてのセリフしか発しないように設定されているのだ。
「俺がどうしているか、あいつらに元に行って話してくれたらいいんだが」
「すまないが、俺にそんなことできるわけがないだろう。俺はお前の機械であって、お前から遠く離れることはできないんだよ」
無論、そんなことはできるはずがない。安全上の理由から、ロボットはみな操作する人間の半径五十メートルを越えて移動することはできないようになっている。まして、操作する人間の家族についての情報を色々と記録させられるほど複雑にできてはいないのだ。
芳川はもう二ヶ月程度、関が持っているロボットの修理と、もう一つは内密にしなければならない秘密の仕事で時間を潰してきた。
この日、芳川は外出するつもりだった。時には外の空気を吸わないと病気になってしまう。
芳川はアパートの階段を降りると、日傘をポケットにつっこんでふらつくように地面を歩き出した。
地面に定期的に空いた小さな穴から強烈な冷気が吹いて、足元をわずかに濡らした。噴射口の点検だ。
必ず、十メートルほどの感覚を開けてゴーグルをかけた人間がいる。VR空間に没入して、現実に何があるのかを知ろうともしない。
海岸には、決まった距離を開けて監視カメラの付いた銃が配置されている。三百六十度に回って敵を的確に狙撃できるように作られている。こいうものを見て、芳川はさして何も思わない。東京の城壁にはこれがもっと大きなサイズで配備されているし、山や森に近い農場にだってある。かつての列島はこんな兵器を並べなくても何も起きないくらい平穏だったそうだ。今ではそれが信じられないくらい、銃が並んでいるのはありふれた光景。
芳川は、東京ではこの手の防衛システムのメンテナンスで収入を得ていた。この放浪の旅の途中、この手の銃器の整備で何度、雀の涙程度の旅費を得たかしれない。
その現実は、やはり気が滅入るものだ。平和とは程遠い時代のせいで、人を殺すための技術ばかりが必要とされる。
あの日々は楽しかった。だがもう過ぎ去った時のことだ。
なぜ、自分自身を余計なものだと思ってしまったのだろう。それは分からない。もっと胸を張って生きても良かったかもしれない。これはもしかしたら芳川自身のいらない矜持から来るものだったのかもしれない。だがいずれにしても、芳川はそれを選んだ。
それを選んだ方が、心に入るひびが少しだけ小さいと踏んだからだ。
龍作も沙奈も、もう今では自分のことなど忘れていると芳川は信じたかった。
息子は今では俺の仕事に対する興味など微塵もないだろう。少なくとも俺と同じ仕事をすることに嫌悪感を感じているはずだ。
沙奈は多分……安心しているかもしれない。あいつが移り気なのは昔からそうだった。子供には優しいが俺にはそこまで
芳川が初めて夢洲に来た時、路上で売っていたペット用ロボットの質について、あれこれ話している時に、たまたま関が居合わせていた。
「最近インドネシアから輸入してきたやつだが、東京ではもうすでにこれより上出来なのが売れてるらしいな」
関は横から芳川に、
「京都には本物があるらしいぜ。見たことがあるか?」
「いや、ない。見て見たくはないな、怖いし」
人間が愛玩用に育てて来た動物など今となっては野生にひそんで人間を襲う危険な獣になっている。
「これ、回路が切れてるからそこを直せば修理できるかもしれないな」
「お前、できる奴だな」 関心する関。見ず知らずの他人でありながら、やけに親切に話しかけてくれた。
初めて彼と言葉を交わした時、実はそれほど芳川は深く感心したわけではなかった。左の頬にはしみの跡がくっきり残っているし、額の筋は割と目立っていた。
だが芳川は彼に興味を持った。
関は自分の住むアパートに連れて行った。そこには玩具や銃がちらばっており、棚にはられた紙にはどれにも何かのコードが記されている。
「どれもこれも30年代の物だよ。補修して使えるくらいのものさ」
「博物館にしか置いてない。いや……むしろ懐かしいな」
「おっ、故郷が恋しいか?」
「故郷何て恋しくないさ。もう遠くに来てしまったんだから」
芳川は強がって見せた。
「そんな風に虚勢を張らなくていいさ。素直に慣れよ。ここは俺の国だからな」
関は笑って芳川の肩を叩き、つかむ。日本の方ではめったにこういうことをされなかったので、思わずざわついてしまった。
芳川はしかし、それよりも関の何気ない言葉が気にかかった。
「俺の国だって?」
関はすすけた床の上を旋回しながら、
「かつて医療法人に支配されていた夢洲は地震の後で誰一人統治する者のいない無政府状態に陥った。それを何とか収拾したのがこの俺ってわけだ。まあ崇拝されるのは嫌だから、大声じゃ言いふらさねえけどな」
お世辞にも、一目置かれるようなことをしていそうな様子には見えなかった。
「東京政府にだって好きなことは言わせねえよ。なあこれ、直せるか?」
言いながら棚から芳川が取り出したのは、虫の姿をしたロボット。
背中に取り付けられた四角いふたを開けると、中には微弱な棘が無数に。
「実弾じゃないか」 さほど重要そうにも見えないこの空間で、物騒な物を隠していることに芳川は驚いた。
「第二次外満洲戦争で使われた型落ち品だ。俺はこの物を夢洲の海岸に配備してるのさ」
かつては、列島中に政府の力が及んできた時には、こういうことを個人でやっている人間が見逃されるはずはなかった。暴力の独占こそが国家存続のための喫緊の課題だから。
だがもはや城壁に囲んだ中を領土と言い張るあの街にとっては、この人工島のことなど大した問題ではない。もうすでに都市の外に自分を凌駕するほどの力を持った勢力があっても、どうせ気にすることもない。
再び祖国の復活をもくろむ者もいた。牧本だ。
彼は職場では珍しく、国際情勢と言ったものにやけに興味があった。
もうすでに国家間の往来が乏しくなり、時たま外交使節を受け入れる時以外はほとんど国境を越える者もいなくなっていたが、牧本は必死に探し求めていたのである。
科学技術の衰退や急速な人口減少は、社会そのものの閉鎖を招いた。新聞もテレビも、城外や海外のことを伝えることはほとんどない。
「なあ、知ってるか? 世界の人口はもうこれ以上減らないってニュースを読んだんだ」
透明な板からホログラムが浮かび上がり、英語の文章が点滅する。
「21世紀初頭からずっと少子化は問題とされ続けていたが……」
ひたすら、虚無が左から右まで押し寄せるように満ちていく。
「ここから外に乗り出して、大和朝廷による征服事業を再開するんだよ。東から西にな」
「でも、それを政府がしようと思うわけないだろう。市民がそれを望んでないのに」
「なら一人でも俺は外に打って出てやるぜ」
と一緒に語らったりもした。しかしそれは全て若気の至りでしかなかった。牧本も結局は狭苦しい場所での安穏を選ぶに至ったのである。
芳川は、自分がかつての牧本の意志を実行している自分に妙なおかしさを覚えた。
ああ、しかし全ては、下層民の目にとってはお遊びにしか映らないのだろう。
あの時日本から持ち出した物の内、何が今も残っているだろうか。ここで着ている服も、道具も、道中で古いデパートや地下鉄の遺跡から拝借したものだ。
芳川は道路を通りかかり、名状しがたいキャラクターの絵が色あせた雑居ビルの一面に描かれている。
ミキャクとかミキクとか、そういう風の発音で呼ばれていて、この夢洲の象徴になっていた。
道にも普通の民家にもマカマクの旗が掲げられている。芳川には、一体このキャラクターが何のために作り出されたのか皆目わからなかった。まだビリケンの方が由緒正しいように思えた。
流入し続ける人間をまとめ揚げるには、この島の集団という風にアイデンティティを授けるしかない。
特に最近では京都からの流民が時折流れ込んでくる。
芳川は道中、通りすがる誰かの話を盗み聞いていた。
「……なぜ分かった?」
「ボスの命令でな、探している人がいるんだよ。娘が勝手に逃げ出したんだ」
「もしかしてそれは、アーイシャって名前じゃないか?」
「アーイシャだ! 今はもう、どこにいるかさっぱり分からんのだが……」
「京都にいたんじゃなかったのか? でも、あれは日本人なんだろう?」
「幸代ってのが本名なんだがな、覚えにくいってんで向こうの人間からはそう呼ばれてるんだわ。ああいう場所にいるのが嫌だってんで脱出したんだよ」
「幸代って人は今、どうしているんだ?」
「さあな……」
様々なアイデンティティが入り乱れるこの都会、人の人種や民族を名前では判断できない。
この島で、異なる言語を話す者同士がやり取りするのに使う言葉は英語でもない。
中国語か、ビルマ語の語彙をいくつか混ぜ合わせたものを使っていた。少なくともこの島独自の言語というものが形成される途上にあるのだ。
だがそれを習得するには数か月ここに滞在して、覚えていく必要がある。そして生き延びること以外にはほとんど何にも興味を失いつつある芳川にとっては、言葉を覚えるための努力が趣味になっているようなものだった。
だから自分の母語を翻訳機を通して話すした方が早い。スマートフォンをつき合わせて
そういう社会に適応するのに、人々は時間をかけたものだ。かつては排外主義運動が勃発した時期があった。資源を巡っての流血沙汰もあった。
東京を出てから芳川はそういうことに関する話題を聞かなかった。誰もかも忘れてしまったのだろうか。変に覚えて遺恨を残すよりはましかもしれないが。
芳川は、この島に少しだけまだ興味が残っていた。ここに、どういう人間がいるのか。どういうアイデンティティが形成されつつあるのかを調べようかと思っていた。
アジア系と白人の特徴が混じった人間と、アフリカ系の人間が向かい合っている。
ここで一番の楽しみといえば、賭博だ。芳川は親からの言いつけでそういう、金を浪費させる娯楽には手を出さないように教育されてきた。
だからこそ、さして裕福でもない人間がわざわざどぶになけなしの金を投げ込むような真似に手を出すのを理解できない。
しかし、彼らにも彼らの世界観がある。理解できなくても、それは尊重しなくてはならない。
弾を投げて、下卑た笑い声をあげていた。芳川は別に彼らに悪意があったわけではなかった。
しかし、絶望を感じた。彼らとは決して分かり合うことはないのだと。同じ人間であっても生きて来た道が違うのだ。
芳川はそこから何も言わずにそこから離れた。
どちらが、人間としてまっとうなのか分からなかった。自分が何者であるかを気にしすぎる方が悪いのか。
「あいつらは……何だ?」
西の人間なら、誰でもそうなのだろう。
だが芳川はそうではない。芳川は、決して彼らの中に入って一部になることはできないとあきらめた。
せいぜい、彼らの慣習や集団になった時の様相を記録して、その共通項をまとめあげて『民族』を創作していくことしかできない。
壁の落書きとしてあらわれたメケキ・エンチキは何も言わない。本来の名前すら忘れ去られたこの神は、古いルーツを捨て去った人々にとっては新たな共通項を提示する可能性だけを秘めたまま、雨と風の中に消え失せようとしている。
芳川は、この神を信じようとは思わないし、信じたくもなかったが、この神に秘密を明かすことくらいは許されるだろうと思った。
東京から離れれば離れるほど、まさに文明から遠くなるというのを実感せずにはいない。
他の国でも同様なのだ。誰もが、荒野を再建することを放棄してしまった。
新幹線の路線の跡をたどりながら、彼は西へ西へと向かった。そして気づいたことを手帳に書き記した。二冊しか持っていないので、年が変わっても最初の日付に予定やあったことを書き続ける。無論、曜日を書き換えてだ。そうなると、過去と現在の記録が同時に載ることになる。
そしてそれが、この世界の現状の仕組みなのだ。
もはや内日本の鉄道しか、この列島で機能している鉄道は存在しないこと。
東京地下鉄のように機能しているのは、京都地下鉄くらいしかないことも知った。
半世紀ほど前の文献を読むと、現代との違いにただただあきれるばかりだった。それを十全に機能させられるくらい、人間の数が多く、知識も充実していたからだ。
だが今では、そのどちらもあまりに不足している。あまりに緻密な社会は、堅固な時は常に堅固でいられるが、崩壊する時は一瞬で崩壊するからだ。
それに慣れ切り、一体どうやってそれを守り続けて来たのかあやふやになると、もはや完全に原始的な段階に戻る一歩手前。
荒野を踏みしめるたびに、人間を拒否する原始の世界が復活していることを認識せざるを得ない。
人間が減れば、快適な環境になるなどと説いた人間は誰だ? そう言いたくなる。
自然は元から人間にやさしくなどない。
世界はどんどん人間に適さない環境となり、限られた快適な空間を求めて人間はますます狭い世界に閉じこもるだろう。要するに、この先に 人間が生きていける未来があるとは思えない。
鳥型ロボットを放ち、あたりに危険な獣がいないかどうか探す。
ここには、もはや秩序というものはありはしないのだ。
辛うじて心の中が晴れた瞬間などあっただろうか。どれだけ、浮世の苦しみから目を背けられた瞬間があったか。
ドラム缶や廃車の転がった、だだっ広い荒れ地の上、雨がの降る空を眺めて、改めて自分はここに来て良かったかもしれないと思ったことがある。
東京の出身である芳川は、どこからも歓迎されず、またどこにもなぞめなかった。
放棄されたデパートや学校には勝手に人が住みつき、集団となって独自の社会を築き上げていた。
その辺に無数の村が存在しているようなものだ。そして村同士は決して交わらず、また外に向けて中の姿を開くこともない。
行き倒れ、骨と化した人間など見るのも慣れた。
それに比べればあの壁の中の生活は天国のようなもの。しかし、それでも、いやだからこそ芳川は、自分で自分を追放したのだ。
妻子の心配をする資格などないと分かっていても、やはり故郷のことが気にかかる。
子供には自分と同じような仕事などさせたくない。結局、人を殺す仕事でしかないのだから。
軍事に関することを、街では無論おおっぴらに話すのはできなかった。政治家も、活動家も、その必要性を声高に叫ぶが自分がそういう仕事をするのは絶対に嫌がる。
一回外に出て見れば、そこには膨大な量の暴力がまかり通っている。医療法人や自警団が跋扈し、今日の飯を奪い合う日々に囚われている。東京から夢洲にたどり着くまでにも、生死の危険にさらされたことはいくらでもある。
だから、人がいない所をできるだけ通るようにしていたのだが、意外と完全に人の痕跡が全くない場所を探すのは難しい。
芳川は、遺棄されたままの校舎やレストランを見かけた。そういう所に、人々がかつて集まっていた光景を想像して、余計に辛くなる。
その一方で、夜の病院に、光がちらちらと灯っているのも目にした。こんなことができるのはよほど金を持っている医療法人だけだ。
この時代、人間の生死すらあやふやになりかけている。
ある時、丘の上に墓が立っているのを見た。
厳密には墓らしいものだ。内日本で見る墓とはおおよそくらべものにならないくらい水ぼらしい出来。よく見るとそれは、どこかの建材を持ち出して作ったものらしい。そしてその前に二人の少年がぬかづいている。
芳川に向かって、その中の一人が頼んだ。
「お前、もしかして東京の人か?」 兄らしい大きい方が言った。
「まあ、そうだが」
弟の方が、
「じゃあ、葬式ってのを見たことがあるんだろ? 弔ってくれないか? 俺たち、どうやって死者を弔ったらいいか分からないんだ」
「大切な人だから、川に捨てるのが怖ろしくて恐ろしくて……」
もう『南無阿弥陀仏』の書き方すらまともに知らない。それは初期の人工知能が生成していた写真の中の字のように判読不可能な何かだった。
「でも、なぜ弔うんだ?」
兄が言う。
「魂が内日本に向かえるようにするためだよ」
芳川は、ふと気になって尋ねた。
「内日本にだって?」
「山の上に住んでるおじさんが教えてくれたんです。『アッラー様』に帰依して、必死にアッラー様を称えれば内日本に生まれることができるって」
「僕はその内日本から来たんだが」
「現実の内日本ではなく、この世界の外にある内日本なんです」
その答えに、言葉に詰まりながらもとう芳川。
「君たちは、この日本の外に何があると思う?」
弟が頭をかきながら、
「日本以外に世界なんてありませんよ。この海を越えればアッラー様の世界ですし」
「でも、海の向こうにも同じように人がいると聞いたんだけど……」
頭を覆って嘆息しそうになる欲望を必死でおさえた。誰もが内日本のインテリのようにこの世をある程度正確に把握しているわけではないのだ。
ああ、ずっとそのままでいてくれ、と芳川は願った。彼らの目は澄み切っている。
ここでは、生死は共に存在する。
死んだ人間はすぐに忘れ去られる。
生きて、種を残すことに必死で、誰もがそれを果たすために生きているのだから、個人というものなど現れるわけがない。
だが、それだけが全てではない。やはり、死に別れた人間に焦がれ、再会したいと願う者がいないわけではない。
内日本ではそういう願いに慰めを与えてくれる者などほとんどいなかった。かつてなら、人々はその慰めのために墓や祠といったものを建造していたものだ。死んだ人間ときっちり別れを告げるための物体。だが、それは内日本にはほとんど存在しない。
芳川は、墓というのを写真の中でしか見たことはない。
比較的裕福な生まれだった芳川でさえも、基本的に
土地が足りないので、基本的に墓場を作るだけの空間がないのだ。
内日本では、人間は機械のように処理される。下層階級は葬式を受ける権利すらない。それすらないと東京湾に捨て去られるのがおちだ。
だが外日本にいる人間は、死者を弔う気持ちがある。
京都では念仏を唱えながら行脚する人間を見かけたことがある。
祈りを唱えながら丁重に葬る者もいた。彼らこそは高貴な心の持ち主ではないか。
だがそれは彼が部外者でしかないからだ。芳川は、そうでもないと精神が持ちこたえられない人がいるということに、最初気づけなかった。
芳川はそこに居ついているように見えて、どこか見学者のようだった。彼は内日本の人間であるという強い自意識から逃れられなかった。
それが、アイデンティティだった。この地獄のような様相の中で、俺一人だけがまっとうな存在であるかのようにを眺めていると、それしかこの世には存在しないとうっかり芳川は、勘違いしそうになる。だがそんな時、異様な音がつんざいて、現実に引き戻されるのだ。
時折、空襲警報が鳴り響き、星空を背景にミサイルが宙を舞った瞬間を目撃したことがある。
その時、芳川は、あらためて自分が世界に接続した存在であることを再認識させられたものだ。
こんな時代になっても、まだ人々の営みが昔から連綿と続いたものであると証明させるものはある。
まさそれが、戦争だ。
こんな状況になっても、誰もがいまだに戦争をやめられずにいる。
かつては、全ての国民にとって戦争が一大事だった時代があった。戦争の勝敗で多くの人間の生命が左右される時代があった。それもまた、今となっては遠い昔の話だ。昔は戦争を通して人間は国家への帰属意識を醸成したというが、芳川には皆目その意味が分からない。それは偉い人間同士の欲得によるつまらぬいさかいであって、大多数の庶民はそれに否応なく巻き込まれるだけの哀れな弱者でしかない。
そもそも、文明の発展から取り残された荒野にいては、戦争が起きているという事実を認知することすら難しい。ごくわずかな都市の民だけが 知ることだ。
東京では、国外の戦争についていくつかニュースを聞いたことがある。アフリカや北アメリカではもう何十年以上も戦争が起きていることを。そして、戦争の原因がどこにあったのか、もう誰もが忘れていることを。
芳川にとって戦争はひたすら不愉快なものだ。かつては、人間同士が互いの顔を見て戦っていた。だが今では相手が人間であることすら意識せずに戦うことができる。機械同士がやる、訳の分からない手続きでしかない。
大昔では、人間同士の殺し合いを文学や映画の中で見世物のように扱っていたそうだが、これも芳川にとってはわけのわからない物だった。
だが、実際には戦争は人間の目を見て行われていない。
ミサイルが飛び交うのを二回くらい目撃したことがある。一体それがどこから来てどこに向かうのか、芳川には見当がつかなかった。東京の方へ飛んで行ったが、大して被害があったという話は聞かない。
少なくとも国境の重大な要所か、東京周辺の駐屯地が狙われただけなのだろう。そして、人工知能がそれを認識して撃墜したのだろう。
荒野の民にとってそれは流れ星みたいなものだろう。実際、東京の民にとっても流れ星でしかない。
東京の人間にとっては戦争も、外の光景も全て他人事だからだ。
巨大な地震災害に見舞われ、あの復興に手間取ってから、あそこの人間は外の関心を失ってしまった。
芳川は、東京の閉鎖性に耐えきれなかった。
もはや誰一人秩序を立て直すことのできない荒野の方が、ある意味平和ではないだろうか。人間の殺し合いが、相手の目を見て行われているのだから。
こちらの方が、よほど生の実感をもたらしてくれるものだ。芳川はもう誰も住んでいない、はるか昔に放棄された家の中で毛布にくるまる。部屋の中はわりと綺麗で、かなりの間そのままの形で放棄され続けていたらしい。
そこには、バッジがあった。どれも同じ人の顔が描かれていた。輪郭の細い、若い男の顔だ。そして、何がプラスチックの板のような形をした物にも同じ顔。アニメか漫画の絵みたいだった。もはやそれらも、
芳川にはひたすらそれが奇異な物に見えてならなかった。一体この家の人間は、なぜここまで同じ何かを集めようとしたのだ? 安心するためか? 孤独をまぎらわせるためか?
舞洲のアカオサンもまた、あれと似た風習でこの島では祀られているのではないか、と芳川は考えることがある。あの異形の神を描いたバッジが膨大に路頭で並べられているのを見たことがあるからだ。あれを大量に買い込めば、いいことが待っているという売り文句をまくし立てる者がいた。どうやらこの風習は広範に行われたらしい。
「おい、そこに近づくんじゃない!!」
ある時地面に張り巡らされた、赤や黒のけばけばしい色合いのテープを乗り越えようとして、老人に大声で注意されたことがある。
それは地雷原だった。
「四十年前に敷設されてからそのまんまだ……侵略に備えたらしいが結局何も起きずに放置されている」
よく見ると、十歩ほど進んだ先に赤い腐肉がいくつか散らばっている。他の獣に食べられることもなく蠅がたかっている。
「動物がうっかり足を踏み入れちまったんだ。全く人間のやることは人間以外も巻きこんじまう……」
芳川はかつて、外日本全土を防壁として改造する計画が政府内で進行していたのを思い出した。もっともそれは予算でも人員の面でも負担が大きく、完遂されなかったのだが。
「あいつらにとっては俺たちの命は何の意味もない」
この光景を見た時、一体彼らは何のために戦争に備えているのだろうと思う。
実の所、もはやごく一部の大都市、ビルの中に籠った頑迷な世間知らずが声高に叫んでいるだけなのだ。そして大部分の人間はそれに対してひたすら嫌悪感をもよおしながら無惨に巻き込まれるだけでしかない。昔だったらそういう連中と自分を同一視して何の疑問も感じない大衆を作り出すことができたのだろうが、もう誰一人そうやって国民を形成する努力に関心がないのだ。
色々なことがあったが、その何一つとして、芳川に暗澹とした気持ちを与えない物はない。
中も外も同じではないか、という感覚を与えるものばかりだ。
次第に、空気がやや冷えてきて、芳川は目の前の世界に戻って来た。
海岸で釣りをしている者が見える。最初は、そそくさと立ち去るつもりだった。大津連合の人間ではないかと思ったからだ。
よく見るとそれは牧本修一だった。電子タバコ――もう本物のタバコなど誰も吸ったことがない――を口にかみながら。島の光景にそっぽを向いていた。
「修一じゃないか? どうしてここにいるんだ」
すぐに答える牧本。
「現地調査だよ。大阪で何が起きてるのか取材に来たんだ」
「取材してどうする?」
「どの会に介入すべきか、政府に参考となる情報を伝えるためだよ。もう一週間もいたのに、気づかなかったのか」
「不思議だな! 昔は修一も千葉でひと騒ぎ起こしたってのに、今や奴らの忠実な臣下かよ」
「さすがに昔みたいな覇気はもうねえよ。もう疲労だけさ。義務的にここまでやって来ただけなんだ」
牧本の顔は、数年前に比べてもだいぶふけて見えた。もう十年も経過したのではないかと疑わせるほどに。
いや、俺の顔も奴にとってはそういう風に見えているのかもしれぬと芳川は思った。
「正直、こんな島にいても大して役に立つ情報なんてないと思うぜ。ここには今しかない。未来も過去もない」
「今をねえ。俺は過去にこびりついて生きているようなもんだ」
「さっき賭博している連中を見たんだ。日本語をしゃべっている感じではなかった。黒人なんだかラテン系か分からないが。あいつらと俺たちの間に何の関係があるんだろうな」
真剣な眼差しをなげかける牧本。
「知ってるよ。あれはこの外日本の縮図だ。俺たちが障壁の間に閉じこもっている間に、外はものすごく変わってしまった。政府が衰えれば、国の姿なんてあっという間に変わっちまうもんだよ」
タバコを再びくわえる。芳川が返答を考えている間に、牧本は少し上を見上げ、若干眉間をゆるめ、
「でも安心しろよ。それは永遠に続くことでもない」
思えば有史以来、人間の社会は常に崩れ続けている。
崩れれば、また新しい何かが生まれる。それは、人類の理だ。夢洲中に描かれたアカオサマもそれをみそなわしている。
だが、その中でどう生きるべきなのだ。何を考えればいいのだ。
芳川はその回答を見つけえなかった。いつの間に、沈黙の天使が二人の間に舞い降りた。
「……頼みがあるんだが」
「ああ?」 首をかしげる牧本。
「また本土に戻ったら、俺がどうしているか家族に伝えてくれないか。ここじゃ電波も通じないしな」
「戻るつもりはないのか?」
「今更戻れない。あまりにも遠いし、俺以外にいい相手を見つけているはずさ」
牧本は電子タバコをふかした。
「案外そうでもないんだぜ。みんな相手が見つからなくて困ってるんだ。だからあんたみたいに本土を出てでも人生を切り開こうという奴が増えてきているんだよ」
「じゃあ内日本も人が減っているってことか」
「減ってるんじゃない。拡散しているんだ」
「彼らもいずれは消えるよ。どうせ。大和民族だけが頂点に立ったのは偶然なんかじゃない」
消える――か。無数の人間の選択と、記憶の忘却によってたまたま起きる結果だ。
その結果が実現するかどうかは私自身の選択にかかっていることなのだ、と芳川は思った。
「あんたの依頼は聞き届けてやるよ。それが『仁義ネス』だからな」
近頃西の方で流行っている謎の言葉を引用する。東京なら、もうすでにすたれているはずの言葉を。
かつては、どこででも遠くにいる人と一瞬で通信ができた。しかし、人工衛星の老朽化や情報インフラの消失は、一気に人々の距離を広げ、短く断絶していた時間感覚を長く伸ばしてしまった。
近いのに遠い。近代人は科学技術のもたらした近さに慣れ過ぎてしまった。
それに頼らないと、世界は驚くほど遠くに広がっている。
あいつらは俺にどう思うだろうか。まだ、死んで嬉しいとまでは思っていないはずだ。
芳川はこの感覚を思い出した。
『難波潟短き葦の節の間も あはでこの世をすぐしてとや』の歌の心だ。
芳川はまだ西に進むつもりでいる。この夢洲は危険ではあるが、それでもどこか懐かしさや安心感を覚えるような場所であることも確かだった。
牧本に別れの言葉を告げた芳川は再び元来た道をたどることにした。
芳川にとっては安全なようでいて危険がどこにあるか分からない所よりも、はっきり危険だと分かるような場所の方がかえって気分が軽かった。それは、目先の危険に囚われて本当に危険な物を見逃していることと同義だとしても。
芳川は、ごちゃごちゃ感情を紛らわすようにあたりを見回した。
廃車だ。タイヤの上で端末とにらめっこしている人間がいる。いかめしいしわを頬や目元に刻んだサングラスが銃を提げてあちこちを歩き回っている。
どこから運んできたか分からない電車の車両の中では、誰もがすすけた座席に座り、スマートフォンやパソコンの画面を凝視していて、外の様子には目もくれない。そして相変わらず、人種や民族を同定できない相当に混血を経たであろう人々が、横倒しにした冷蔵庫をテーブルにして、賭博に興じている。
何もかもが過去から生えて来た未来に必死にはいつくばる人間ばかりだ。
「なんであいつなんかがここにいるんだ」
「戦ったわけでもないくせに……」
芳川は、彼らの会話を聞かなかったことにしておきたかった。
この夢洲には、官庁やビルといった目に見えて重要そうな施設はない。
関のことを、この島で大々的に称える人間などいない。表向き、彼はしがない一エンジニアでしかない。
何もかもが筒抜けなこの島では、わざわざ誰かを誉めそやさなくても噂は自然と広まるものだ。
誰もが顔見知りのようなものである以上、芳川のこともこの島の民にはいつの間にか知れ渡っていた。芳川にとってそれは不都合だった。こんな場所で下手に目立つよりは、いち早く脱出したかった。
夢洲は恐らく少し滞在するにはいい場所かもしれないが、骨をうずめるには到底適さない。一体何回、人間の屍が水面を浮いているのを見たか。その腐臭がどの程度鼻にこびりついたことか。
芳川は、この地上に自分の安息の場所などどこにもないと感じていた。
帰り道の途中、地面に描かれたミミャアに向かって頭を下げる人がいた。だが、その中に頑なに一人だけ、頭を下げようとしない人がいる。
周囲が怒り、彼の頭を押さえつけ、
「お前も頭を下げるんだ!」
「これが慣習なんだ!!」 無理やりにでも礼拝させようとする。
不快な気分になり、すぐそこから距離を取る。
芳川はアパートにつくなり関に言った。
「もうここにいるのも、疲れた」
芳川はそう言って畳の上に座り、茶を飲んだ。
「どうした。何か変なことでも起きたか?」
「いいや」
「だったらいい。お前は俺の役に立ってもらえればそれでいいんだ」
関は穏やかな声で言った。
「あんたはシステムを修正してくれたからな。随分と世話になった」
動物型ロボットの鳴き声がする。その中には、今では絶滅し、骨しか残っていない生き物がモデルになったものも含まれていた。
「別に大したことをしてやったというつもりはないさ。俺はただ以前と変わらない仕事をしたに過ぎない」
「そういうことをできる人間が今じゃ少なくなってるんだ。あんたは貴重な人間だよ……これからも元気でいてくれ」
芳川はひねくれ者だった。
『元気でいてくれ』という言葉を素直には喜べなかった。そもそも混沌の中に消えゆこうとしている者に、そんな願いが少しでも励ましになるだろうか。
「だが……、それでいいのか?」
「あん?」 関の口調に、一気に角ができた。
「この島をそこまで強くすることに意味があるのかと言っている。どうせ誰もこんな場所に襲いに来ないだろうに」
関はあきれ、肩をすくめる。
「お前は日本の生まれだからそう言えるんだ。ここがどれだけよその会に狙われてきたかを知らないだろう?」
「確かに政府は国防上の要所要所に防衛システムを配置している。それはやむを得ないことだ。だがそれを、こんな小さな島で再現しなくてもいいだろうにな」
本持っていた雑誌の表紙を荒々しく叩き始めた。
「ここではな、色んなものが嫌悪の対象になる。そこからあらゆる殺し合いが始まっちまう。人種とか民族とかを超越して、憎しみを向けられる存在を探し求めて来た。それが大津連合だったんだよ」
語る関の態度に、どんどん熱気がこもってくる。
「夢洲は大津連合だけじゃなくあらゆる医療法人からの脅威をはねのけて、ようやく脱したんだ。これから夢洲はどこの支配も受けない独立国家としてやっていくんだよ。もはや夢洲は外日本でもないし本土でもないんだ。その夢洲の国民にお前はなれ」
関の提案は決して悪いものではない。飯や住まいにありつけつのだから、破格の待遇ですらある。
にも拘わらず、芳川はやはり倦怠感を感じてしまう。
ここにいつけるのなら、それでもいいかもしれないが、やはり同じところにはとどまっていたくない。
「よそ者を排除したら今度は自分自身の中にあるよそ者を見つけ出して迫害するだろうよ」
「いいか、ここじゃ肌の色とか先祖がどこにいたかに関わらず誰だって平等な扱いを受ける。それが『仁義ネス』だからだ。俺は一人、人知れず努力し続けてきたんだ」
牧本の言葉を思い出していた。
「そんな共存なんてのは過渡的な現象でしかないんだよ。いや、もう始まってるんだ。絶対またこの列島でまた、一つのエスニシティによる統一と同化が行われる。あんたもその収斂の過程にいるんだ」
「俺はそんな右翼的な言動には騙されんぞ」 もはや政治的な用語としては完全に死んだ、揶揄の言葉を投げかけ、
「そんな言葉で俺の夢をくじけないさ。俺の理想はな、あべのハルカスよりも高いんだよ」
その視線は、寛大さとは無縁な排外主義に基づいていた。
「スカイツリーや東京タワーの方が高いがな」
「そうなのか?」
関は興味もなさげに言った。
「俺は房総の方で育ったから中心地の方についてはよく知らないんだ」
国家の政策によってたまたま内日本の中に包摂された地域に彼は育った。芳川のように、科学技術の粋を集めた建造物や飛行物体などは一切見なかった。
だから、芳川の言葉の裏にある意図などそもそもくみ取る術もない。ただ、生い立ちと生き様の違いに関して壁を感じるばかり。
こいつはきっと豊かな環境で、自分の存在理由に関する悩みに陥ったのだ。俺みたいに、こうする他道がなかった奴が絶対恵まれることのない悩みに。
贅沢な悩みだ。
「だが、あんたみたいな中心地生まれには分からないだろうな。同じ東京生まれでも外地人みたいな扱いで育った奴の気持ちは……」
「俺は、そういう争い自体が嫌であそこを出て行ったんだ」
関は、それを甘い考えだと思った。
「なら、ここでもうまくいかないさ」
もうその時に、芳川の決意は固まってしまった。
「短い間だったが世話になったよ」
関は去る芳川の後ろ姿をにらみつけた。本当はもっと言ってやりたい所だったが、この男にはもはやそういう価値観を受容する領域が存在しないのだ。
「あいつは、不愉快な奴だったろう?」
親しげな声を出しながら、牧本が入ってきた。関は、彼と面識があった。たった一つや二つ、言葉を交わしただけではない。
かつては、熱くこの先の世界に対する思いを語り合ったこともある。
「いいや、ただの愚か者だね。もうこの世は混沌になるばかりだと思い違いしているよ」
修一は、関にとっては昔からのなじみだった。芳川が西へと下るずっと前から修一はここに流れつき、たった一人で夢洲を守って来たのだ。
「あれはね、敗北主義者だ。しなびた夢の欠片でしかない」
「言葉が強いな」 修一は低い声でつぶやき、もう一本の電子タバコを起動する。
「そんなことはありえない。日本は今ね、新しい秩序を形成している段階にあるんだよ。ああいう男は、この世に必要不可欠なものではあっても、全てであってはならない。目の前には現れてほしくないものだ」
牧本は、静かに関の言葉に耳を傾けていた。彼の言い分に正当性を感じつつも、どこかで芳川に対する共感もあった。
民族とか歴史とかいう不明瞭な物のためにどれだけ多くの人間が犠牲になって来たのだ。
けれど、人間が集まる時、そこには必ずはっきりした概念が立ち上って来る。存在する理由を求めるために、それを確立せざるを得ない。
「人間にとって共同体は必要不可欠なものだ。だがまだ昔の因習がたくさん残っている。だからそれを破壊せざるを得ない。そして新しく作り上げた伝統をどうやって沢山の人間に共有してもらうか。これが課題なわけだが」
牧本は慨嘆した。こんな辺境に、あの街の連中に似た人間がいるとは。
彼には、この夢洲の外に打って出る計画も意志もない。結局、内日本にいる人間と似通わざるを得ない。しかし、似ているだけだ。
無数のあいつらが再生産されるだけではないのだろうか。
牧本は言った。
「まるで、若い時の俺みたいだな。今の俺にとっちゃ、赤の他人だが」
関は静かに言った。
「そうは思わないな。ずっと関は関のままだ」
風が暑く吹き込んできた。空に雲の量が多くなってきた。
「羨ましいよ。俺は昔の俺ではないし、あいつは昔のあいつじゃない。誰もが心を強く保てるわけじゃないんだ」
「そりゃ、お前が故郷が恋しいからだよ」
目の前の彼の関心をそらすように、牧本は言った。
「恋しいよ。だってあそこが一番この先も生き残るんだからな」
「そうとも限らんと、お前が言ってくれただろうが」
「たとえ国が衰えても土地は残り続けるからな。そこにある利便性はそう簡単には消えてなくならんのよ」
「『国破れて山河在り』ってのはこの時代、あてにならんがな」 関は外の景色を見やりながら。
この島の外のどこにましな場所があるというんだ?
内日本はもはや静かに崩壊する他はなく、外日本も無数の地獄を抱えたまま、種を保ってくれる世代が尽きて消滅する他はないというのに。
列島の外から来た人間に期待することすらできない。
「だからこそ、あそこにいる連中はまだまだ閉じこもっているんだ」
再び、あいつはあそこに向かうのか。何の利益もないのに。関は、芳川の愚かさを嘆いた。
芳川は島に別れを告げ、大阪に向かう定期船に乗った。
海の向こうは再び不毛な土地が待っている。内日本に比べれば、どちらも野蛮さでは変わらないのだが。
医療法人か、あるいは企業、暴力団にしても、この島を服属させることはできないだろう。だからといって、この島が持つとも思えない。
乗客の誰もが、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、うつむいていた。大阪の混沌とした様相を見れば、誰でも夢洲に住みたくなるのは分かる。だが誰もが楽園に住めるわけはない。
誰もが悲嘆にくれる中で彼だけは笑いをこらえていた。
夢洲が独立国家だと? ふざけるな。あと数十年も経ってみろ。いずれ西外日本の覇権を握るようになる医療法人によって併呑されることになるぞ。
誰もこちらに目を向けてはいない隙を見計らって、もう本土では型落ち品となった鳥型のロボットを放してやった。人がより多くいる向こうなら誰かが勝手に拾ってくれるだろう。
ああ、だがロボットも人間も、拾われて大切にされる者などそう多くない。この世の全てのものは使われればなくなる。新しいものを作らねばならないのは生物も生物以外も変わらない。
世界は一度消え去っているのだ。そしてそのもぬけの殻から、何かを再生させるのは至難の業。
一体次のアイデンティティを手にするのに、どれくらいの時間がかかるのか。
人間も記録も消耗品なのだ。たまたま生き残って精神的にも肉体的にも後を残せた者だけが後々の歴史を築きあげる。夢洲の人間が、その荒波の中で生き延びられるとは、芳川は思わなかった。彼らの意気込みは、必ず時代の徒花に終わる。
(俺は、たまたま生き延びた思想を摘み取るだけだ)
芳川は船の上で空を眺めた。宵闇にほとんど溶け込んだ月を眺めながら。
日本発祥の地だったこの畿内も、今ではうらぶれた一地方でしかない。
あの時見かけた、賽を振って賭博に興じている者たちに過去の歴史との繋がりを見出すことは難しい。
もう彼らは日本人ではなく、日本人に戻ることもできない。では一体、何を名乗ればいいのだ。
だが結局これも愚問かもしれない。次のアイデンティティを確固とさせるのにどれだけの年と人が必要になるか、芳川は皆目見当がつかなかったし、それが明らかになる時にはもう自分は死者となっているだろうと知っていた。