第3話 かつての匂い
海岸に辿り着くと、爽やかな潮風が疲労を労ってくれた。だいぶ走ってきたからか喉が渇いたので、岩場に顔を突っ込み溜まった海水を飲んだ。
そんな中、顔に何かが当たった。
口に咥え海面から引き上げてみると、どうやら木でできた板らしい。真ん中からポッキリと折れているが、自然にできたものではないことはわかる。
岩場にのせ、匂いを嗅ぐ。海水のしょっぱいものに紛れて木の香り。この世に生まれてずっと感じられなかった人の手によるもの。
夢でずっと見続けてきたあの人のような、人間が手がけた人工物。
帰りたい。
気付けば木の板に頬ずりしていた。海水で顔が汚れてもお構い無し、一心不乱に人の痕跡を体に覚え込ませる。
形、匂い、感触⋯⋯その他一切の情報を残らず記憶に残すために。
一通り堪能した後。海面を改めて見てみれば、大事に大事に味わった木の板たちがたくさん漂っていた。
⋯⋯こんなにあるのになぜたった一つのものを大事にしていたのだろう。少し馬鹿らしくなってきたが、それと同時に疑問が残る。
なぜこんなにも残骸があるのか。この大陸は隅々まで見て回ったことがあるが、人間は一人として見たことがない。
当たりを見回してみると、浜辺に真っ二つに割れた巨大な船らしきものが乗り上げているのが見えた。
船、船か。どうやらこの海の向こうには人が住んでいるらしい。この世界にちゃんと人がいたことに安堵しつつ、珍しい船の残骸へと足を運ぶのだった。
ぎゃあぎゃあと、小うるさい声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。たしかこの辺りを縄張りにする小型の肉食恐竜の魔物が群れを成していたはず。
草木に紛れる緑の体色をした魔物たちは体格のでかいやつをリーダーにしている。どうやら彼らは何かを相手取っているらしかった。
群れのうちの一匹が船の残骸へと躍りかかる。おそらく船の影に敵がいるのだろう、どれその顔を拝んでみようと近付こうとしたその時。
「ハッ!!」
影から現れた回転する⋯⋯回転する⋯何?
ノコギリの刃がズラリと並べられた円盤が組み込まれた銃。狙撃銃ってやつだろうか。
つまり人だ。あの影にいるのは間違いなく人間だ。あんなもの、人間の手でないと作られないだろう。
いやはや銃があるとは、この世界の人間は高度な技術文明を築いているのだろうか。
ともかくその武器は、魔物の肉を引き裂き地面へと叩き落とした。なんと恐ろしい凶器か、肉と血しぶきが激しく飛び散っている。
船の影から飛び出してきたのは、青い髪色をした獣人の少女であった。冷静な顔つきであるが、飛び散った血しぶきで狂戦士にしか見えない。
しかしそんな形相をしていても、魔物たちは一歩も引き下がらない。久しぶりの獲物なのだろうか、目がまっかっかに充血し意地でも狩るという気概を感じる。
「アズール、博士起きたよ」
「よし。それなら⋯ッ!?待って!」
誰か仲間がいるのだろうか。こちらからは見えないが、私の耳はよく聞こえる方だ。誰かと話している声はバッチリと聞こえている。しかし当然だが言葉がわからない。
そうやって観察していると、少女は私に気付いたようだ。驚いた隙を好機と見た魔物の一体が飛びかかるも、少女の横から飛び出した仲間と思しき人影がその手に握る双剣で首を落としてしまった。
「何に驚いてるの〜?今のちょっと危なかったじゃん」
柔らかい間延びした声を出したのは、薄紫色の髪をした少女だった。手の内で双剣を遊ばせながら眠たげに顔を洗う彼女の頭にもぴょこんと耳が生えている。双剣を操るからかこちらもかなり身軽な格好をしているようだ。
髪の色といい、獣耳といい、ようやく異世界転生したという実感が湧いてきた気がする。やはりモンスターよりも人を見るのが一番『らしさ』を感じられるものだ。
「あ、あっち!何かヤバいのいるって!」
「ん〜?⋯⋯あー、あれとやり合うのはちょっと遠慮願いたいね」
「なんじゃなんじゃ、また魔物がいるのか?わしにも見せい!」
ひょこっと船影からもう一人。幼子だろうか、金色の髪と耳が眩しい子だ。目を見張るのは九本の尻尾。まさか九尾の狐というビッグな存在と出会えるとは⋯⋯今日だけで少しずつ人間であった頃の感覚が戻ってきた気がする。
「ふおおお!見たことがない魔獣じゃの!」
「興奮してる場合じゃないんだけど!ピンチなんだからもう少し緊張感をね⋯!」
「博士のこれは今に始まったことじゃないからさ。とにかくここを切り抜けないとね」
紫髪の少女がポケットから何かを取り出すと、こちらへと投げつけてきた。それは軽い爆発を起こして赤い粉を撒き散らし、私の体になにやら香ばしい匂いを付ける。
嗅いでみると、どこか甘い香りがする。どうやら何かの花粉らしい。眠る時に良さそうな香りだなと楽しんでいると、ふと魔物たちがこちらを向いていることに気が付いた。
「ごめんなさい!」
すっかり意識を外していた少女たちの方向から大きな音が鳴り響く。それが発砲音であると理解したと同時に、額に凄まじい衝撃が襲った。
⋯⋯⋯⋯は?
しばらく、何が起きたのかはわからなかった。
視界に捉えたのはヨダレを撒き散らしながらこちらへ襲いかかる魔物たち。上から下へと落ちていく蒼い角。そして少女たちが東側にある密林の方面へと走っていく姿。
待て。いや待て待て待て。
私を撃ったのか。いやわかるとも。なるほど、この粉で魔物たちの注意を私に向け、そして私を怯ませつつ手傷を負わせることで戦闘意志を掻き立て時間稼ぎをしてもらう算段か。
角を折られた血が流れる。そして流れる血が高音になっていく。それは体内の栄養が大量に分解され、爆増した代謝に呼応した魔力が火炎属性へと変換される証である。
私の本能として、極端に戦闘行為を面倒くさがるきらいがある。しかし一度でも手傷を負わされ、倒すべき敵だと体が反応してしまえば。
もう私自身でさえ止めることはできなくなる。
「ウオオォォオオオォンッッ!!」
咆哮とともに魔力を解放する。魔力は火炎となり、爆発した火炎は魔物たちを焼き爆風で吹き飛ばした。
まずはお前たち。次は、貴様らだ。
眼光はこちらに背を向け走り続ける少女たちへと向けられた。