真紀子の幸せと、忍び寄る戦争の気配。
一方、真紀子の施設でも、自衛官看護士の派遣に応募していたが、審査に落ちてしまっていた。
真紀子や勝部から見れば「そりゃそうだろう」となる。真紀子の古巣と比べると、自治体が行う定期監査の評価が、段違いに低いはずだ。
派遣にあたっては、監査の結果も「成績表」として派遣の可否判断に使われることになっていたから、書類審査で引っかかったのだろう。
施設長はタダで派遣される自衛官をこき使う気満々で、皮算用を立てていた上に、何故自分の施設が落ちるのか、本気で納得していなかった。
おまけに田中政権が消費税率引き下げと引き換えに、財源にしていた、介護士の処遇改善手当を引き下げる、というニュースを目にして、「話が違う」と食堂で大騒ぎしていたのだ。
(彼女は田中政権を支持し、冬の選挙では田中の政党の候補に投票している)
昼休憩の大半を、施設長の相手で潰した真紀子は、ようやく自分で作った弁当を食べ始める。
他の職員も一緒だった。彼、彼女達も施設長の大演説に巻き込まれていた。
(全く、あんなのは事務室で、自分と二人だけの時にしてくれれば良いのに。何でまた他の一般職員まで巻き込もうとするのよ。)
休憩が重なったスタッフの一人は、最近入社した中年男性だ。未経験だが、他職種からの転職組は、下手な経験者よりも優秀なことが多いから、真紀子は期待していた。
だが、一方で微かな不安もあった。
真紀子の経験上、介護業界で未経験の中年男性スタッフが増える時は、景気が悪化した時だったからだ。
だとしても、最近の彼女は機嫌が良い。
花との会話が増えているからだ。
研修中から、介護技術の相談を受けることがあったが、実際に働き始めると一気に話題が増えた。
介護のやり方の相談に始まり、二人の共通の知人となった山井や山岡、瀬戸達の話題。花と加奈子が職場でやらかした失敗等々。(建前上、職場で知った、利用者の個人情報は家庭でもしてはならないことになっているから、花の行為は、実は守秘義務違反だ。)
真紀子が職場で散々花の愚痴を喋っていたことは、初日に花にバレてしまい、その日の夕食で花に派手に文句を言われたが、これについては真紀子は平謝りしている。
それでも親子の明るい会話が増えたのだから、その程度は真紀子にとっては何でもない。
「お母さん、職場では評価高かったんだね・・。」
と、花が横を向きながら、ボソっと褒めたたえてくれたことの方が、遥かに重要だ。
その上、信じがたいことに、手のかかる一人娘だった花が、初めてのバイト代を使って、母の日にスイーツギフトをプレゼントしてくれたのだった。
僅か半年前、真紀子の言うことに対して、聞く耳など一切持たなかった花とは、まるで別人のような変化だ。今まで頑張って花を育ててきて良かった。そう思った真紀子が、油断すると目が潤んでしまう程だった。
いや実際には、花と一緒にプレゼントのスイーツを食べている最中に、今までの苦労が一挙に報われたような気がした彼女の感情は決壊したのだ。
シングルマザーの給料で花を育てるためには、自分の贅沢は論外中の論外、後回し中の後回しにして、何年も生きて来た。にもかかわらず、花は「親の心子知らず」の権化のような10代だった。
その花から贈られたデパ地下のスイーツがもたらしたのは「美味しい」というより、真紀子にとっては「報われた」という感覚の方が、大きかったのだろう。
花が慌てて「ちょっと、ちょっと!?お母さん!どうして泣いてるの!?」
と言われるまで、真紀子は自分が涙を流していることに気付かなかった。彼女は心の底から
「花、ありがとうね。アンタを育てて来て良かったわ。」と娘に告げた。
しかし、真紀子が幸せを噛みしめている一方で、李が指摘した通り、田中政権により世情は混乱しつつあったのだ。
彼女の身の回りでも変化が起きている。
その李が突然退職したのだ。
真紀子は、その背後にある事情に全く気付いてはいなかった。
ようやくにも手にしようとしている、花との幸せな日々。彼女はそれを根底から破壊しようとする、中国の策謀の一端に触れていたというのに。




