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白雪鼬

作者: 唄うたい


白雪(しらゆき)、という名に変えてはどうでしょう?」


 (おさむ)青年の口から発せられた響きが何とも儚げで、あまりに自分自身に似つかわしくなかったため、おれは眩暈(めまい)を覚えた。


「おれの名に難癖(なんくせ)を付ける気か?」


 じろり、と下から()め付けてやれば、奴は慌てた様子で手を横に振った。つい先ほどまで散々おれを叩き伏せていた(こぶし)が、今はやんわりと解かれている。


「そういうわけじゃあない。立派な名です。」


 立派と口にする治は、今でこそこうして、人畜無害な笑みを浮かべている。おれを散々懲らしめ尽くした鬼の形相は、どこへ行ってしまったのか。

 こんななよなよとした男に負けたとは、にわかに信じ難いものである。


「けれど、君はもう、これからは悪さをしないと約束してくれたろう?

となれば心機一転。新しい名を、この僕が付けて差し上げようと思ったまでです。」


「何様のつもりか。」


 憤りかけたものの、今の名にはそれほど思い入れが無いことに気づく。むしろ長い月日を経て汚名となり果て、何となく以前から、その響きだけで良からぬものに思えて仕方なかった。

 きっかけが何であれ、おれは密かに転機を待っていたのかもしれない。となればこれは、まさしく好機である。


 そう。おれは負けたのだ。こんなただの人間の小僧の腕っ節に負けたのだ。

 あな恥ずかしや。なれば、奴の提案を甘んじて受け入れよう。


「…しかし、なぜ“白雪”なのだ?」


 口にするのも気恥ずかしいような、楚々(そそ)とした響き。

 だがそれ以上のことを治は、実に恥ずかしげも無く、たかだか一匹の白鼬(しろいたち)に過ぎないおれに向かって言ったのだ。


「君の毛並みが、雪のように白く好ましいからですよ。」


「………。」


 それは、おれが生まれて初めて受けた褒め言葉だった。



 ***



 人間の(おさむ)と、白雪(しらゆき)と名付けられたおれが出会ったのは、今年最初の雪が薄らと降り積もった、寒い寒い冬の日のこと。出会い方はとてもじゃないが、おおよそ浪漫チックと呼べるものではなかった。


 兄達と共に悪行を重ねていたおれは、その所業を見兼ねた、ただ一人の青年の怪腕(かいわん)によって、抵抗虚しく成敗されてしまったのである。

 負けた者は勝った者に従うのが自然の摂理。手始めとして、治がおれに命じたのが、事もあろうに先述の「改名」だったのだ。


「白雪はなかなか強いのだね。里では敵無しだった僕でさえ、やっとの思いで制したよ。」


「おれも、ただの人間がこんなに諦めが悪いとは思わなんだ…。」


「ははは、僕は前向きな男なのです。拳を交えないと、知り得なかったこともあるのだね。」


 元を辿れば、畑を荒らしたり家畜を盗み食いしたりと、悪行の限りを尽くしたおれが悪いのだ。治は仲間達のため、退治役を買って出たに過ぎない。

 さらに治は、喧嘩の末に怪我を負ったおれの手当てまでする始末。つくづく大馬鹿者である。こんなのはおれの自業自得というやつなのに。


 人里から少し離れた山の中に、粗末な小屋が建てられている。治は子どもの頃から、そこに一人で住んでいるらしい。

 何でも、生まれつき腕っ節が立つため用心棒には向いているが、それ以外の仕事はほとほと向いていないのだとか。

 茶碗を洗えば残さず割ってしまうし、風呂を沸かせば煮え油のようにグツグツ煮立ってしまう。人と手を握り合おうものなら、小枝のように指をぽきりと折ってしまうのだとか。


「おまえもしかして、友人がいないのか?」


「うぅ……。」


 おれの何気ない問いは、治の空元気(からげんき)までも、ぽきりと折ってしまったらしい。

 しばし寂しげな背中を見せていた治だが、ふいに何か妙案を閃いた顔になって、かと思えばおれに、こんな頓狂(とんきょう)なことを命じる。


「白雪、じゃあ君が僕の友になっておくれ。」


「はあ?」


 おれもまた、そう間抜けな声で返すしかない。


「そうとも。僕は人の友達がいない。しかし白雪のように大きくて腕の立つ(けだもの)なら、骨を折ってしまう懸念もないだろう。」


 おれはただの鼬とは違う。治などより遥かに長命であるし、体も大人の人間よりもずっと大きいのだ。確かに、そう易々と骨を折られる気はない。

 友になること。それがおれを負かした治の願いならば。


「良かろう。だが、(けだもの)と侮られる筋合いはない。おれは本来なら、おまえ達人間にこそ恐れ伝えられる、物の怪(もののけ)と呼ばれるものなのだから。」


 身の丈八尺に育った大きな体は、おれが幾星霜(いくせいそう)を生き続けた証であった。そんなおれの白い毛並みを大きく撫で付けながら、大馬鹿者の治は何が可笑しいのか、一層へらへらと笑うのだ。


ーーー本当に、珍妙な男に捕まったものだ。



 ***



 怪我が快復した後も、おれは足繁く治の住む小屋に通った。

 治は腕っ節こそ熊のような規格外ではあったが、心根はとても優しい男だ。それは幾度も足を運び、拳ではなく言葉を交わしたからこそ知り得たこと。


「治。おまえ、里には下りないのか?」


「僕が下りたところで、歓迎してもらえるはずもない。それこそ皆、熊が山から下りてきたが如き反応を示すだろうよ。…そうは言っても、本音では少し人恋しいのだけど。」


 そう語る治の背中は、普段よりずっと小さく見えた。

 口では物分かりの良いふりをしてみても、やはりこの男は人の子だ。親兄弟と離れ、一人寂しく暮らしているのにも、のっぴきならない事情あってのことだろう。

 白雪という人外の友を持ってもなお、彼は寂しいに違いないのだ。

 …しかし、


「おれという友がありながら、人間を恋しがるなど、厚かましい奴だ。」


「ははは、怒られてしまった…。」


 そんな辛気臭い顔を見せつけられる、おれの身にもなってほしいものだ。弱々しく微笑む男を嗤いつけながら、おれもまた、ある妙案を思い付く。


「治、おれにすべて任せなさい。」


「え?君、何をする気なんだい?」


「何。おれは情に厚い鼬だ。決して悪いようにはしないから。」


 ここは友として、一肌脱いでやるべきと考えたのだ。



 ***



 手始めにおれは、治と最初に交わした約束を大胆にも破る。山の麓の里に下り、畑という畑をめちゃくちゃに踏み荒らした。


「なんだ!なんだ!」

「何事だ!」


 当然、住民達は大慌てで家から飛び出し、集まってくる。しかしそこで暴れ狂うは、身の丈八尺に及ぶ、白毛の恐ろしい化け物である。虎のように隆々に育ち、しかし風のように軽やかに身をくねらせる、鼬の物の怪である。ただの人間に、手を出す勇気があるものか。


「こら、何をしている!やめないか!」


 騒ぎを聞きつけた治が走ってやって来た。そしておれの姿を見るなり、自慢の怪腕を奮い、巨大な白鼬を軽々と投げ飛ばして見せたのだ。

 おれは「きゅん」と弱々しい声をひとつ上げ、一目散に山へと逃げ帰ってゆく。


 恐ろしい物の怪に臆さず立ち向かった治青年は、一躍里の英雄となった。

 腕っ節は勇猛な男子の証として讃えられ、もう以前のように、治を腫れ物のように遠ざける者はいなくなったのだ。

 そんな後日談を、山中の治の小屋で聞きながら、おれは大いに満足な心地になった。


「だから言ったろう。おれに任せたお陰で、すべて上手くいった。」


「ああ、本当にありがとう白雪。こんなに皆に頼られるのは生まれて初めてだから、なんだか気恥ずかしいやら嬉しいやら、忙しない心待ちだよ。」


 治は控えめに笑うが、おれの背中を撫でる手がいつもより力強い。心から喜んでいる。

 どうしたわけか、彼の喜びが伝わってくると、おれは得意げな気持ちとは別な思いに駆られた。喜んでいるのは治なのに、おれまでも一緒に嬉しくなってくるのだ。畑の野菜を掘り返した時も、家畜の鶏の羽を毟った時も、こんな気持ちにはならなかったというのに。


里長(さとおさ)が、里の中に僕の住処(すみか)を用意してくれるというんだ。仕事も与えてくれるという。」


「それは良いことか?」


「ああ。今よりも安定した暮らしが送れるんだ。いつもいつも、君の獲物を貰ってばかりは申し訳ないからね…。」


 冬の深い雪の中から野兎や野鳥を探すのは、人間には至難の業だ。だからこの時期は、おれが代わりに獲物を獲り、治に食わせてやっていた。たかが、そんなこと…


「おれは何とも思わない。仔鼬(こいたち)が一匹増えたようなものだ。」


「それでも、僕は君に依存しきりだったからね。それは申し訳ないのだよ。…ただ、人里に下りるということは、君に会う頻度が減ってしまうことだから、それだけは気がかりだ。」


 治の、おれを撫でる手が弱々しくなる。

 奴はどうやら背中を押してほしいらしい。人の輪の中での暮らしは、治の憧れだ。しかしそれを即断即決出来ない程度には、ただの一匹の白鼬への恩情もまた、治の中に強く根付いている。

 人里と山。どちらが、治が幸せに暮らせるか。そんなこと、考えるまでもないだろう。


「小僧、おれは誇り高い鼬だぞ。小便臭い人間の小僧の世話をしなくて済むなら、この上ない幸せだ。」


「ははは…君は冷たい男だ。荒っぽくて、ひどい奴だな。」


「おまえに好かれようとは思わない。」


「そうかい。僕は(しと)やかな(ひと)が好きなんだ。

…実は、僕に友達が出来そうなんだ。人の友達だ。里長の一人娘なんだが、とても礼儀正しくて、綺麗なひとなんだ。仲良くなれたら、白雪にも紹介させておくれ。」


「人間はもっと好かぬ。」


 治のおれを撫でる手が、再び力強くなったのを感じた。奴の心がどこにあるかなど、言うまでもない。

 おれは、その手が次いつ撫でてくれるか分からないものだから、憎まれ口を叩きながらも、決して身を(かわ)したりはしなかった。


 治が小屋を出たのは、それから程無くだった。


ーーー


ーー




 長い長い冬が終わり、少しずつ雪が溶け、(ふき)の花が咲き始めた頃。

 人里に移り住んだはずの治が再び、山中の小屋を訪れた。


 彼の足音を忘れるものですか。ずっと小屋の中で帰りを待っていた私は、いそいそと彼を出迎えようとした。


「………。」


 しかし、目にした光景に、私は思わず足を止めてしまった。


 治は傍らに、見知らぬ一人の女を連れていた。人間の美醜はよく分からないけれど、利発そうで、所作の美しい女だった。

 恐らくあれが、治の言っていた“淑やかな女”なのだろう。


 私は小屋の裏口から逃げるように外に出て、息を殺して様子を伺う。

 しばらく見ない間に、治はすっかり様変わりしていた。小屋暮らしの頃に着ていた襤褸(ぼろ)より遥かに上等そうな着物を着て、まともな食べ物のおかげか肌艶良く、髪もきちんと整えている。それでも、屈託のないつぶらな目は相変わらず。


「白雪、ここにいるのかい。」


 治が私を呼んでいる。懐かしいあの声を忘れるものですか。

 今すぐ飛び出して、その膝に頭を擦り寄せることが出来たらどんなに良いか。冬の終わりをどれだけ待ち侘びたことか。


 けれど、治の目的は別にあろう。あの口約束を果たしに来たのだろう。良い仲になった娘を、私に紹介しにやって来たのだろう。


 私は顔を出さなかった。

 小屋の裏手の茂みの奥に身を潜ませたまま、姿を現せようはずもなかった。


 しばらく小屋とその周囲を見回していた治だけれど、私が居ないと知るや、残念そうに肩を落とした。


「…また出直すよ。

次は、僕の妻となる人を、君に紹介させておくれ。」


 元来た残雪の道を戻って行く、二人分の人影を見送り、しばらく時が経ってから、私はやっとお天道様の下へ姿を現した。


 “人間の女”に変化(へんげ)するのは初めてだった。里の女達と唯一違うのは、治が「好ましい」と褒めてくれた白髪(はくはつ)。それだけは、私本来の白色を活かしていた。

 髪が映えるようにと化粧も覚えたし、白色が最も美しく見える、黒い着物にも身を包んだ。


 治が言ったのよ。淑やかな(ひと)が好きだと。だから私は、兄譲りの無骨な言葉遣いは一切やめて、白雪の名に似つかわしく…“女らしく”なったというのに。


「治…。おまえにもっと早く、私が女だと明かせば良かったの…?」


 それから私が、治の前に姿を見せることはなくなった。



 ***



 治と娘の祝言が挙げられた日を境に、月日は目まぐるしく過ぎていく。


 夫婦は子宝に恵まれ、誰もが理想とする幸せな家庭を築いた。畑仕事に精を出し、やがて出稼ぎのために治が里を離れた。

 転機が訪れたのは、その直後。


 治が留守にしている間に妻は流行病に罹り、看病も虚しく、子らに看取られながらこの世を去る。

 電報を受け、急ぎ帰った治が、どれだけ嘆き悲しんだか…。


 その後の治の家は、花が萎れるが如く、みるみる凋落(ちょうらく)していった。

 愛していた妻の死に囚われ続ける治。子らは皆逃げるように家を離れ、一人残された治もまた、心労が(たた)り体を壊す。

 日を追うごとに衰弱していき、緩やかに死へと向かっていく治。

 医者からも「手立て無し」と見放された彼は、(つい)の住処として、慣れ親しんだ山中のあの小屋を希望した。


「あれは、僕の思い出の場所なのです。ですからどうか、連れて行ってください…。どうか…。」


 病床に一人残された治は、昔山中の小屋に追いやられた頃の姿そのものであった。今や彼の身を案じる家族の姿もない。


「………白雪………。」


 最後の力を振り絞って書いた手紙を握りしめたまま、治は一人、孤独に逝ってしまった…ーーー。



 私は長らく遠目から、(おさむ)ら家族の様子を静観してきたが、あの小屋の中で静かになってしまった治を、どうしても一人ぼっちにしておけない。

 とうとう彼に見せることが叶わなかった“人間の女”の姿に化け、私は治の枕元に現れた。


 この数十年で、私はすっかり美しさに磨きをかけた。見目麗しさも、白髪の艶やかさも、細やかな所作も、…おまえが一目でも私を見れば、虜になってしまうような姿に仕上がっていた。


「ーーー治、久しぶりね。」


 だが、数十年来の友は、(とこ)に伏したまま、もう目覚めることはない。


 深い皺の刻まれた顔。かつては黒々としていた髪も、今や蚕の糸のように白く細くなってしまった。痩せた頬からは血の気が失せて、あのへらへらした笑顔の面影が感じ取れない。屈託の無いあのつぶらな目が、私を映してくれることは二度とないのだ…。


 私は、治の握り締めていた手紙を手にする。その宛名は、家を出た子どもらでも、亡くした妻でもない。


 「私」だった。「白雪」。彼が名付けてくれた私の名で、その手紙は始まっていた。


『白雪


大病を患ってからというもの、僕の頭に浮かぶのは、妻でも息子らでもない。君の美しい白毛だった。

僕の大切な友。叶うことなら最期にもう一度、君に(まみ)えたかった。


一縷の望みにかけて、この手紙を遺すことにした。もしこれを君が読んでくれたなら、どうか、後生ですから。お願いします。

僕の哀れな孫を、守り育ててやってください。


僕の息子らが非行に走り、我が子一人満足に育てられないような人間になってしまったのは、他でもない親の僕の責任である。心の弱いこの僕が招いた結果である。

その償いを、友である君に託すことの卑怯さも、重々承知している。

君は優しい男だから、僕と僕の家族のことを、陰ながらずっと見守っておられることだろう。』


「………。」


 まだ文の途中だというのに、私は一旦目を逸らさねばならなかった。経験したことのない暗く醜い感情が湧き上がってくる。胸が刺すように痛むのだ。目は瞬く間に霞み、頭の中で鈍重な鐘の音が鳴り響く。


 この数十年、私が姿を見せずとも、治ら家族のことを陰ながら見ていたことを、治は知っていたのだ。この手紙は一縷の望みなどでなく、意図的に私へ送られたものであった。


 人ですらない、ただの鼬だというのに。あろうことか、物の怪のこの私こそ、安心して身内を託せる存在だと、治は心に決めていたのである。

 治は、それほどまでに私を待っていた。私を信じていた。…それどころか、“私が女であるはずがない”ことも、少しも信じて疑わなかったのである。

 その純朴さが、その朴念仁(ぼくねんじん)ぶりが、…今の私にはひどく腹立たしく、そしてひどく愛おしかった。


 手紙は、こう締め括られる。


『その上でどうか、放任された幼い孫息子を、保護してほしいのです。

僕に頼れるものは他にありません。

僕の大切な身内を、大切な君に託したいのです。どうかお願いします。

お願いします。』


 手紙の震えた筆跡を目で追いながら、私は唇を噛んだ。血が滲み、口の中に鉄の味が広がる。


「…ああ、治。おまえは本当に、本当にひどい人だわ。なんて厚かましい人。大馬鹿者…。」


 私を一人ぼっちにしておきながら、おまえと同じ血が流れた子どもを、私に託すだなんて。

 この私が、おまえの住み慣れた町を離れられないことを。大切なおまえと同じ人間を憎みきれないことを、知らないでしょう。


 毎年雪が降ると、おまえと過ごしたささやかな日々を思い出してしまうことなど、ついぞ考えもしなかったでしょう…。

 おまえから離れがたくて、未だに心はこの小屋と、あの冬の思い出に囚われたままだということを、おまえが知ることはもう二度と無いのよ…。


「……大馬鹿者だわ…。」


 すっかり紫のゆかりに染められてしまった。大馬鹿者は私のほうだったのだ。とうの昔に。



「……良いわ、治。

おまえの大切な坊やは、私が守り育ててあげましょう。命に代えても。」


 こんなにも寂しく、こんなにも腹立たしいのに、大切な治の末期(まつご)の願いだけは、何としてでも果たさねばという使命感に駆られる。


「……ああ、そう。

これが…恋しいということなのね…。」


 皮肉だこと。

 あんなにおまえを嗤っていた私が今、同じ思いに苛まれているのだからね。

 いくらでも自覚する時間はあったというのに。伝えようと思えば伝えられたのに。おまえがいなくなってから、やっと後悔するなんて、私は本当に…なんて大馬鹿者かしら。


「治、きっとおまえは勘付いていなかったでしょうね。

優しいおまえのことだから、もし勘付いていたら、私を受け入れようとしてくれたはずだもの…。」


 そんな未来も、ひょっとするとあり得たかもしれない。


 しかし全ては過ぎたこと。

 おまえの言葉を借りるなら、前向きにならねばいけない頃合いね。いつまでも思い出に囚われず。


 手紙を握り締め、私は治の眠る小屋を後にした。彼のための黒の着物は偶然にも、通夜の別れにお(あつら)え向きの装いとなり、それが(かえ)って、彼との良い決別となった気がした。


 私は一人、山を下りる。変化し慣れた、淑やかな女の姿で。

 この先、私が元来た道を振り返ることも、あの小屋を再び訪れることもないでしょう。


 他でもない愛しいあの人が、この私に未来を託してくれたのだから。



〈了〉

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