02
さっきまで鷹穂はこの部屋に間違いなく一人だった。入り口は先ほどの影が通った廊下側にしかない。それなのに黒い子供が一人鷹穂の背後に突然現れた。そしてその顔面には凹凸がなく、白目だけがじっと鷹穂の目をみつめている……それがどれほど異様な状況か、分かってもらえるだろうか。鷹穂は気が付いたら廊下に出ていて、建物の外へ向かって走っていた。鷹穂は足が速い方ではなかったが、その足運びはもはや競走馬のようであった。朽ち果てた事務所のような部屋と、広間のような広い壁のない部屋を2秒とかからず通り抜けた時、鷹穂は視界の端にまた黒い影をみた気がした。だが、最早鷹穂の頭の中にはとにかくこの場から逃れること以外考えられなかったのだ。鷹穂が黒い影の横を目にも止まらぬ速さで駆け抜けた時、足元で何かが割れる音がした。とにかく足を前に出せ!という脳の命令しか理解出来なかった鷹穂は、そのことに気がつくこともなかった。破裂音を聞きつけて、更に二つの影が鷹穂の背中をののしっていたことも。
どれくらい走ったのか分からない。鷹穂は気がつくと、旧道に戻ってきていた。車通りも、人気もない。だが、舗装された道まで戻って来れたことで、鷹穂はようやくほっと息をついた。あまりに急で無茶な運動をしたので、立ち止まった瞬間、鷹穂の足は痙攣し始めた。喉の奥から肺までを息が通るのだが、息を吸えば吸うほど吐き気がするほど空気を苦く感じる。鷹穂は胸を抑えて、道路脇の砂利道に膝をついた。汗がつたって、目に入る。鷹穂は左手で思わず目を擦った。
「いやー、足速いね君」
いつの間にか鷹穂の横に顔を墨塗りした男がしゃがみこんでいた。
ギャッと叫んで尻餅をついた鷹穂の顔を追いかけるようにして、さらに男が覗き込む。男の唇は笑みを浮かべるように弧を描いていて、白い八重歯がちらと黒い唇から覗いていた。
「どなたですか?!」
「それこっちの方がセリフだよ」はははと乾いた笑い声を男が立てる。
「ここ、誰も立ち入れないようにいっぱい怖そうな霊を放し飼いにしておいたんだけど、君怖くなかったの?」
男が首を傾げた。
「えっ…何も見えなかったですけど……」 鷹穂が答える。
「えーっ、本当に?ボディービルダーでも裸足で逃げ出すようなキモいやつを40体くらい俺置いといたよ?」
「そんなこと言われても…見てないものは見てないですし……」
鷹穂は呆然としたように答える。
「ふうん……悪運でもあるみたいだね」男がふむ、と顎に手を当てる。顔が墨塗りなので、自信はないが、やけに様になっている。顔に何もついてなければ、見た目の良さそうな男だ。
「まあいいや、君が無事で良かったよ。悪い霊に取り憑かれてたらどうしようって、心配して着いてきたんだけど、君、全然平気そうだし、何も憑いてないしね」
男が立ち上がって、砂埃で汚れてしまった膝を綺麗にした。
「平気そう?」鷹穂が顔を顰めた。