01
01
そのような経緯で八木沢の上流域を目指して、今鷹穂は道なき道をずんずんと脇目も振らず歩いている。沢登りに適した流域なので、橋下の自殺者以外にもそこそこの子供たちが不慮の事故で亡くなっているため、山には両親を求めてさまよう霊が多いのだが、鷹穂にはそもそも見えていないため、熊などの獣に対する恐怖しか今のところ鷹穂にはなかった。もし他にあるとすれば、人殺しの現場に目撃するのではという不安だろうか。鷹穂は、人殺しをしたいと思ったことは一度としてないが、もし人を殺して遺体の処理などをしなければならないようなのっぴきならない場合に陥ってしまったら、廃墟などの人の寄り付かない心霊スポットでやろうかなと考えていたので、同じような考えを持つ人に鉢合わせしたら嫌だなあと思いつつ、山深くへと進んで行った。みずみずしい緑の枝葉が、夏の殺人的な日差しから鷹穂の頭を守ってくれてはいるものの、これこれ1時間ほどは沢に沿って山を登っているので、汗だくだった。木々に絡む蔦科の植物も乾涸びていて、鷹穂の代わりに暑い暑いとうなだれてくれている。リュックを背負った背中がじっとりと濡れ、黄緑だったTシャツの色はとっくの昔に汗で真緑に変色していた。鷹穂は腰のポケットに入れていたスマホを取り出して、地図アプリを開いた。まだ目的地まで距離がある。鷹穂は呼吸を整えるように、ふうと長い息を吐いた。
始まりこそ信之介のガードが緩かったおかげで、棚ぼた的に強力な霊の大まかな在処を知った鷹穂だったが、何も無計画で沢の上流を目指している訳ではなかった。
自分に見える霊がいるかどうかはさておき、鷹穂には当てがあったのだった。幽霊は生きている人間と異なり、姿形は霊によってまちまちだ。死ぬ間際の姿をしている霊もいるし、最も心残りが強いとされる時の姿で、生前と何ら変わらず綺麗な姿をしているものもある。もう人とは似ても似つかない姿の霊もたまにはいるらしいが、霊感の強い信之介でも、見たことがないと言っていた。肉体という物理的な制約のない霊は、見かけこそ人間と違ったりするものの、その本質は人間とあまり変わらないと言われている。具体的にいうと、人が長く留まらない、もしくは留まらなかった場所には、霊もまた存在する理由がないのである。霊がいるということは、そこには現在か過去のどちらかで、生きた人間がいたという証でもある。つまり、八木沢の上流で霊の感知があったということは、かつて八木沢で過ごした人間がいたという証であり、霊を見つけたければ、かつて人がいたであろうスポットを重点的に探せば良いということなのだった。鷹穂は八木沢橋と聞いた時から、すでに見当をつけていた。自分には幽霊が見えないらしいと気が付いてから、伊達に心霊スポット巡りをしている鷹穂ではない。県内の有名な心霊スポットはすでに高校生の段階で網羅しており、そしてどこに行っても何も見えず帰ってきたのであった。
現在の八木沢橋は新しい橋で、自殺の名所になったのはここ二、三年の話である。現在の八木沢橋が完成するまで、この八木沢には今は通行止めになった旧八木沢橋と呼ばれる橋があり、昔は多くの人間が通っていたと聞く。この旧八木沢橋を越えて当時の県道を進んでいくと、横に細長い造りの白いコテージがあり、かつては八木沢の地で唯一若者が羽目を外せるクラブがあったと言われている。バブルの頃には相当賑わっていたと八木沢出身の中学の時の担任が感慨深げに話していたのだ。ところが景気の悪化とともにクラブは閉鎖、残った建物を建設会社の事務所兼木材搬入庫として利用していたようだが、夜逃げのように事務所も突然閉鎖し、当時の荷物が全て残ったまま、コテージは時と共に忘れ去られ、今や立派な心霊スポットになっているというわけだ。中学生の時に中学の先生に頼んで連れてきてもらった時は、まだ外壁の白いペンキが綺麗に残っていて、外から眺めただけ(敷地に降りて探索したかったが、先生に激しく引き止められたので、泣く泣く見るだけだった)だが、それほど恐ろしさは感じなかった。だが、何せ今は心霊強度5の原因がいるかもしれないのだ。一心不乱に登っていると、ギギギという擦れた金属音のような鳥の声が鷹穂の頭上を通りすぎて行った。鷹穂が顔を上げると、木々の隙間から、緑でも茶でも黒でもない、白色に塗られた壁が見えてきた。壁の外壁は6割ほどはまだ白かったが、残りは禿げて、腐った木の色と、建物を覆う枯れた蔓によって、まだらになっていた。鷹穂の胸が高鳴る。何か起こりそうな予感。喉の奥から鼓動が響いて、どくどくと反響していた。
二晩過ごしたが、何も起こらなかった。
コテージに着いた日、まず鷹穂が行ったのは周辺と建物内の探索だった。木造の建物なので、ほとんどの部屋の屋根は朽ち果てていて、自然の吹き抜けは解放感があり、空色の天井も鮮やかだった。床は朽ちた木と虫まみれで大惨事だったが。一巡りして、何も見えない、起こらないことを確認した鷹穂は、とりあえず夜まで待ってみることにした。昼と夜で霊の出現率は変わらないという常識を鷹穂も知らない訳ではなかったが、夜の方が恐怖を感じやすい。幽霊が見えた時、人はひどく怯えた表情になる。恐怖というのは、霊感に多いに関わっているのではないかと鷹穂は持論を持っていた。幸い、今は九月で大学はサークル活動以外は夏休みだ。時間はたっぷりあった。登山用のリュックにはテントこそないものの、寝袋としばらく食うに困らないほどの食料が入っているし、大学からここまで安くないガソリン代と時間をかけてやってきたのだ。初めから待つ気で準備していた。
だが、待てど暮らせど、霊は見えない。たまに木の葉や枝が擦れ合う音や、微生物が分解中の建物の木々が風や通りがかった狸などの獣によって乾いた音を立てるばかりで、鷹穂が殺人鬼に怯えながらも見たいと切望している肝心の霊は、一度として鷹穂の目に映ることはなかった。
もう、食べ物も少なくなってきたし、何より水があと500mlのペットボトル1本しか無くなっていた。鷹穂は寝袋の近くに転がった石を拾って、手のひらで遊ばせながら、深いため息をついた。信之介の顔が浮かぶ。心霊スポットから肩を落として帰ってくる鷹穂を慰めてくれるのは、彼しかいなかった。彼は「見えた」とも「見えなかった」とも聞かず、ただ鷹穂の隣に座って、鷹穂がぼんやりするのをただ見ているだけだ。そして、時々何かを見つけたようにギョッと目を見開く。鷹穂も信之介の視線をおいかけて虚空を見つめるが、そこにはいつも何もいない。信之介の怯えた表情に、鷹穂はいつも羨ましいと思ってしまう。無駄足に終わったことよりもずっと、そんな自分が、ひどく嫌になるのだった。
もうすぐ日暮れになる。鷹穂は帰ることに決めて、信之介にメッセージを送る。帰ったらまた怒られるだろうが、何だかんだで、彼は心配しているはずである。家に帰ったら、彼にお詫びのアイスでも買ってあげて、最寄りの墓の近くで一緒に食べよう。そう考えて、鷹穂が立ち上がった瞬間だった。
風雨の浸食を受けてボロボロになったコテージの壁穴から、黒い何か大きなものが素早く通り過ぎていったのが見えた。足音も物音もしなかった。真っ黒な何かが、鷹穂のいる部屋の前の廊下を通って行ったのだった。鷹穂がいたのは黒い何かの進行方向とは反対側の壁だったので、鷹穂に気がつかなかったのだろう。鷹穂は思わず息をひそめた。しばらく息を止めて、周囲の様子に耳をそば立てたが、何の音もしてこない。鷹穂はそうっと廊下の方へ近寄り、部屋の外の様子を伺おうとしたその瞬間、鷹穂の腕が、後ろにぐいと引っ張られた。驚いた鷹穂が次の瞬間目にしたものは、白目以外人間らしい色をしていない、真っ黒な子供が、鷹穂の腕を掴んでいた。