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「うなり声を上げて渦巻く悪意の闇から生まれた万を超える黒い蛇が、幾筋もの鎖に変化して私を襲う。だけど私も負けてはいないわ。即座に逃げることを諦めて振り返り翼を広げて迎え撃つ。”白き魂を閉じ込める鳥かご”から抜け出すために広げた翼の羽の一枚一枚を光の剣に変えて放つ! 放たれた光の剣は万の蛇を突き刺し大地に縫い留める!」
「おおっ」
白目を剥いている場合ではない。
食堂に朗々と響くルルの声。
目の前では黒衣の少女の即興と思われる作り話がゴウベルらに披露されている。
今は善なる者の魂を閉じ込める”魂の鳥かご”とやらから抜け出す場面だ。
佳境、なのだろう。最初は静かに語り始めた黒衣の少女の言葉にも熱が籠り、それを受けて聞く者もまた頬を紅潮させる。
「多くの蛇が縫い留められた死の大地に取り残される私。闇はまだ深く私を囲む。寒い、そこはとても寒い世界。私の腕には依り代になってくれていた黒猫さん。気を失っている。……至近に迫る蛇は撃退出来たものの、その代償に光の翼は空を飛ぶ力を失ってしまった……」
「なんと……」
「けれど、そのおかげでしょうね。覚悟を決めたのよ。逃げるのを止めて、戦う、その覚悟を。私の体を守護していた光は夕闇に融けるように薄れ、天を舞う祝福の力を無くそうとも、魂の輝きまでは失われないのだと」
「おお」
即興、だよな?
聖女という”希望”を打ち砕くために強襲してきた”世界を悪意に染めて滅ぼすことを目的”とする”魔女の姿をとって現れた邪悪なる魔の王”によって、精霊にして俺の友であるところの黒猫のルルは不意を突かれ傷つけられて飲み込まれ、そこで始まった魂の戦い。強い意思のみが力を持つ魂の世界で、依り代にしていた黒猫の肉体から魂だけを切り離し、美しく光り輝く本来の姿で戦うルルの一幕。
魔女の使い魔と思われる巨大な黒蛇に飲み込まれた黒猫の姿は、あの場にいた何人かが見ていた通りだ。話にいくらかの説得力もあるのだろう。皆、聞き入って邪魔する者はいない。
実際は、まぁ、あれだ。黒猫を傷つけたのは俺だし、蛇もまたルルが持つ姿の一つでしかないのだが。
「形勢は圧倒的に私の不利。そのままだったら負けて闇に飲み込まれていたことでしょう。けれど幸運にも、事態は変化する……そう、魔女の魂が直接私を下すために出向いてきたのよ」
「そんな」
「それは私にとって最大の危機でもあり、そして彼女を討つ、またとない好機でもあり……」
一時の感情に身を任せて行動した結果だが……反省している。心から。
本当の事を知りつつも、口を挟めない。
嘘の作り話を嘘だと追及出来ない。
何故出来ないのか。それは俺の恥を晒すどうこう以前に、この場がただ混乱するだけだと理解しているからだ。俺の口はルルのようによく回る方ではない。話に割り込んでルルの気分を害して消えられてしまったらそれこそ終わりだ。
ここでこうして白目を剥いてルルの白々しい作り話を聞いているしかないこの身の上を知っていたら、もう少し慎重に行動しただろうに。昔の俺め、聞いているか?
黙秘、黙認という形で嘘の片棒を担ぐ俺のことなど気にせずに黒衣の少女は物語を進める。
「いつまでたっても滅ぼせない私に苛ついていたのでしょうね。魔女の攻撃は熾烈を極めるものだったわ。魔女の両手から繰り出される何十もの火の玉、氷の刃、襲い来る死の調べ。黒猫さんを庇いながら逃れる私。魔女の呪いによって闇から次々と生まれてくる蛇、蛇、蛇、その数は膨大。蛇は魔女に操られて私を襲う機会を伺う。私はすでに満身創痍。戦う術は無い。万事休す! 絶体絶命! それでも私は諦めない!」
「おお」
外はもう暗いな。
窓の外を見て心の中だけで呟く。
いつまで続くのだろう。この話。
「その時! 声が聞えたの! 祈りの声よ。リュミエラさんの、人々を想う祈りの声が、闇を引き裂き私に届いた!」
「光の聖女様……」
「リュミエラ様! リュミエラ様ぁ!」
見ろ、あのゴウベルの瞳の輝きを。
燭台から洩れる光を受けて星々のように輝いている。
子供か。
おとぎ話を聞かされている子供か。
茶番はいらないという気持ちはもう消え失せた。信じたいなら信じればいい。俺は知らない。人は嘘を吐く生き物だ。ルルが人かどうかは、少し考えねばならないことだが。
「祈りの力で世界は書き換わる! 私の体から再び溢れる、あたたかく力強い光!」
「光!」
「時を同じくして、外の世界の黒騎士さんからも力が溢れるのが、魂の鳥かごに居ながらもわかったわ。私と黒騎士さん、そのまま呼吸を合わせて魔女に最後の攻撃を放つ! 会心の一撃!」
「おお!」
「魔女はそれでも倒れない! しぶとい! 魔女、しぶとい!」
「ぐぬぬ」
「ただそれも時間の問題だった。内と外から聖なる光の力で焼かれた魔女の魂は、恨み言を残しながら灰へと変わる。魔女に操られていた蛇もその力を失い塵へと還る……戦いは終わった……」
「ほ」
「けれど……」
「け、けれど?」
唾を飲み込み続きを待つ一同。ルルは十分に溜めてから悲しげに言う。
「私も黒猫さんも、魂の鳥かごの中に閉じ込められたままだったわ……出口は見えない、空を飛ぶ力ももう無い。ただ彷徨うしかない私たち……このまま永遠に寂しい世界に囚われてしまうことを……覚悟したわ」
「な」
「戦いは終わったのに!」
「だけどもだけどもその時その時!」
「え? そ、その時!?」
「また違う方角から祈りの声が聞えたわ。助けを呼ぶ声、必死な祈り……今度はプリュエルさんの祈りの声が私に届いた」
「私の……」
「黒猫さんを抱いて急いで声の聞えた方に向かったわ。もつれる足を必死に動かして走る私。その先で見た、漆黒の闇の中に浮かぶ、微かで、けれど確かに存在する優し気な光、綺麗な銀色の光」
「おお、銀の聖女様……」
話し方が上手いのだ。
話す内容は荒唐無稽。だが身振りや手振り、口調や視線の強弱も加えて語る不思議な物語は、確かにこの場にいる人の心を捕えているのだろう。遠巻きにこちらを伺うプリュエルの同僚たちもルルの語る言葉に合わせて拳を握ったり溜息を吐いたりしている。
「魂の世界と現世を繋ぐ境界線、私は必死に手を伸ばす。あと少し、もうあと少し……手を伸ばす私の後ろに、ふと気配が生まれる。振り返ると魔女が、燃え尽きたはずの魔女が、その灰を集めて復活しようとしていたわ」
「しぶとい奴めぇ」
「徐々に弱くなる銀の光、後ろには復活せんとしている魔女……私は選択を迫られた」
一同を見回し微笑むルル。
口の端を上げる、いつもの人を小馬鹿にしたかのような笑いかたではなく、何の含みもなさそうな美少女の笑み。無邪気な笑顔。息を呑む一同。
「私はここに残りましょう。この世界に残って呪いを閉じ込めましょう」
胸に手を当て微笑を浮かべ、そう厳かに宣言する少女のなんと気高い事か。俺もそう思っただろう。裏を知っていなければ。
「私はこのまま魂の鳥かごに残って悪い魔女の魂を抑え込む。復活させないように誰かが封印しなくてはいけない。けれど黒猫さんだけでも現世に戻したい。だから抱いていた黒猫さんを銀の光の中に放ち、プリュエルさんと話をしたわ」
「リュ、リュンヌ様はそれで……」
潤んだ瞳でゆっくりと頷くルル。視線の先には部屋の隅で我関せずとばかりにくつろぐ黒猫。
いいな。猫は気楽で。いや、今の俺も似たようなものか。渇きを覚えてワインに手を伸ばそうとしてやめる。鉛の毒が入っているのだった。少量なら問題ないようなことも言っていたが、さすがに飲む気になれない。もう酒には手を出せないかもしれない。あの男のようになりたくないのだ。
「現世と繋がった事で色々な事がわかったわ。魂の鳥かご、それは魔女の本体そのものだった事、それからプリュエルさんが困難な状況にあることも。私は最後の力を振り絞り奇跡を行い、魔女の魂を封じ込めるために魔女の体の中に残ったのよ」
「おお……」
変な事を言い出さないかと気が気でなかったが、この程度の作り話なら別に構わないだろう。誰も傷つけていないし。
「私にとって幸運だったのは、魔女もまた力を使い果たしていた事。魔女の体を乗っ取って……言葉が悪いわね、ええと、主導権を握るのに抵抗は少なかったわ。で、魔女の魂は封印中みたいなことになって、あー、まぁ? そんな感じのあれよ」
最後。
「で、今、この体を私が使えているのよ。わかった? ゴウベルさん?」
「そんな感じのあれだったのか……ううぬ」
最後適当だったな。
もう少しだったろうに、最後まで頑張れよ。
それでもゴウベルは納得したのか、ううぬううぬと何度も唸りながら頷いている。
そんな感じのあれで納得するなら最初から疑うな。
「魔女にとって不運だったのは、よく考えもせず私を取り込んだことね。毒、まさに魔女にとって私は取り込んではいけない毒だった。恐ろしい力を持つ魔女でも内と外、肉体の戦いと魂の戦いの両方を同時にこなすのは無理だった。きっとどちらが欠けても勝利は無かったわ。みんなも体内に取り込むものには気を付けないとね、知らずに毒が入っているかもよ、ふふ、とまあ、教訓めいたそんな感じのあれで締めくくりましょう」
だから最後。
横に座っているゴウベルが俺に向き直り問い質す。
「あの日の戦いはそういうものであったのか。まったく知らなかった。楽勝というわけではなかったのだな。それで空を飛ぶ力も失われて? ううぬ、光の戦士の同胞たる骨の道化師よ! やっぱりそんな感じのあれだったのか!?」
「……ああ、そうだな。そんな感じの……あれだ」
どうしたことだろう。丸一日も寝たはずなのにもう眠い。
骨の躰の時のような耐え難い睡魔ではないが、眠い。
光の戦士仲間にするなと口にするのも面倒くさい。出かかったあくびを噛み殺す。
「なんだどうした腑抜けた返事をよこしやがって! おい! まだ寝ぼけとるのか!? がはは!」
「耳の近くで大声を出すな。うるさい」
ゴウベルの奴、機嫌がいい。おそらくルルの話の中にリュミエラの出番もあったからだろうな。自分や自分が信じる者の活躍で勝利を得たのだと言われるのはさぞ気分がよいだろう。ルルがそういう風に話を持って行ったのだ。なんたる手管か。悪辣な詐欺師め。
「ゴウベルさん、ゴウベルさんや」
「な、なんであるか、魔女、では無く、ああと」
「ルルでいいわ」
整った顔立ちの少女に真正面から見つめられて戸惑うゴウベル。魔女である疑いはもう晴れたのだろうか。単純な奴。
「光の戦士ゴウベルさん。ゴウベルさんが光の戦士に選ばれたのはどうしてだと思う?」
「ぬ」
たまたまそこにいたからだろうな、とは舌の先にまで出かかった言葉だ。
「それはね、愛、よ」
「愛、であるか?」
「何かか好き、何かを守りたい、そういう心に反応して祝福は強く輝くのよ。愛であるからには寛容さが大事。慈悲の心を持っていないと愛というものはすぐに強引な欲望へ変わる。独善的な愛は他人を傷つける。日頃から心構えをしていなさい。ゴウベルさんはね、もうちょっと紳士であるべきよ。疑っているからと言って脅しながら女の子を追いかけまわしたり、大声で迫ったりしては駄目。いい? 寛容と慈悲、それを忘れないで」
「ぐぅ」
反論の言葉も出てこないのか、ルルに態度を窘められてゴウベルの奴の口からはぐぅの音しか出ない。なんだぐぅとは。
いい事を言っているように聞こえるが、実際には自分が追いかけまわされたくないからだろうな。それと嘘が露見した時のため。俺もルルのことがわかるようになったものだ。
「ルル殿、貴女は自分を精霊であるとおっしゃいましたが、きょ、教義にある聖霊とは違うので?」
泣き虫が恐る恐るルルに尋ねる。
繊細な質問だ。答え次第では宗教界に論争が巻き起こる。
泣き虫だけでなく聖職者のマロー司教も息を呑む。
確かにルルは自分は精霊、そう名乗った。
精霊ならば自然の中にもあるようなものだ。物語の中であればランプといった道具にすら宿る。力と意思を持つ生物ではない何か。錬金術の話の中でもよく出てくる。火や水といった大元素を代表するような精霊もいるはずだ。そうではなく聖霊、聖なる霊となったら、父と子と聖霊の御名においてという三位一体の祈りの場面で出てくるうちの一つだ。愛によって人々を愛へ導く存在なのだと教えられたが、俺にはよくわからない。よくわからないのは俺だけでなく、その神格は果たしてどういうものかといった論争が聖職者の中でも絶えないと聞く。神は唯一、ならば聖霊は? と。
泣き虫はルルの事をそこらにいるような精霊ではなく聖霊であると思っているのだろうか。
気持ちはわかる。
泣き虫も自分の目で見たであろう、死にかけた偽ジャンヌと周囲を癒した奇跡を行う者は、もはや神か神と同格の何かだ。ただの精霊であろうはずがない。
ただの精霊であればあったで大きな問題にもなる。本物の力を持つ、ここに実在する精霊を自分たちが信じる宗教でどう扱えばいいというのか。
精霊か? 聖霊か?
実際のルルは……未だにわからない。
本人が言うには人の為の道具として人によって造られた存在だとか。AI? 人工知能? わからん。否定しても肯定しても問題になる質問、ルルはどう答える? 自分を精霊と言った意味は?
「そう、精霊と聖霊、ね、ふふ、……どっちだと思う?」
「え?」
考えてなかったな。
質問に質問で返すルル。中年というにはまだ若い泣き虫が困惑顔を見せる。
ルルの奴、椅子に座って余裕ぶっているが、一瞬だけ目が泳いだのを見た。それなりに付き合いの長い俺でないと気がつかないような些細な変化だった。精霊なんぞも、どうせ口から出た適当な言葉で違いない。詳細は考えてなかったのだろう。それらしい言葉を使っただけ。わかるようになった。こんなのはもう気にするだけ無駄。ふ、泣き虫の呆けた顔を見よ。口を半開きにして間抜けめ。
「はー、泣き虫さん。いい? 答えを言うわよ? それはね、自分で考えるように。自分で考えて得たものにこそ価値が宿る」
「ええと……」
「言葉の表面ではなく、そこに込められた意味こそが重要。言い方、名前、些細な事。大事なのは愛、愛なのよ。何を為したか、何を為す者か、じゃあそういうことで、はー、つかれたー」
勢いだけはいいが内容の無い適当な返事をしやがった。誤魔化そうとしてる。俺にはわかる。最初のはー、で奴は会話自体、もうどうでもよくなった。その瞬間を俺は見た。
「立つな、まだ席を立つな、いーから」
「なにかしら? まだ何か?」
そのままの勢いで、さりげなく立ち上がって去っていこうとうするルルを引き留める。まだ行くな。まだ行かれると俺が困る。
まだ連れて行ってくれと言えていない。
思えばルルという存在自体が宗教界に論争を巻き起こす存在であった。精霊と聖霊なんぞの言い違いも些細な事。どうでもいい。俺にはもうどうでもいい。
宗教の行く末よりも尚深刻な俺の問題が残っている。
この期に及んで連れて行ってくれの一言を口に出せないでいる。
黒猫の姿をしていた時のルルの首を斬りつけた罪悪感が、俺をあと一歩の距離で踏みとどまらせている。
ルルが許そうとも、ルルを殺しかけた俺の心の清算は終わっていない。俺程度では殺す事など出来ない存在だったというのは問題ではない。殺す気で剣を振るったことが問題なのだ。本当に、昔の俺よ……いや、よそう、過去の自分を恨んでも不毛な事にしかならないと学んだはずだ。時は戻せない。戻そうとしてもいけない。
「大事なのは愛……ぐすん……」
まてよ。
聞けば答えてくれる。頼めば応えてくれる。
ルルに対してはそういった謎の信頼がある。だが、どうだろう?
もし頼んで断られたらどうしよう。
ふとよぎった思考に足が震える。ルルの奴はもうここにいる理由なんぞ無いのだ。この世界にいる理由が無い。ルルは自分の仕事を終えた。
ここに居たのも最後に俺の様子を見たかった、本当にそれだけだったのだろう。
この世界に置き去りにする俺の様子を。
そんな俺が連れて行ってくれと頼んで、奴は受け入れてくれるか?
奴に何の得がある?
断る理由はあっても、受け入れる理由は無いのだ。
「天使様方……次は私の告解を聞いてくださいませ」
「あ、うん、聞きたくないかな。彼女にお願い」
「彼女? ああ、俺か、じゃなく、俺に振るな、俺も聞きたく無いわ」
「えええ……」
一瞬彼女と言われて誰の事かわからなかった。俺だ。今は女だから彼女であってる。女であることが間違っているのだが。
告解を断られて祈りの姿勢に入りかけていたマロー司教がそのままの姿勢で固まる。
「ここで聞きたい事や知りたいことがいっぱいあるのは黒騎士さんでしょう? 沢山話をするといいわ。私には無いので本当にお別れにしましょう。サイズ調整した鎧は、ええと、枕元にでも置いておくわね」
「む、鎧……鎧はいいが、あー、その、なんだ」
言え。俺も連れて行って欲しいと。
「何? 私は時間だのなんだのと何かと束縛されない生き方をしているつもりだけど、年中ヒマしてるってわけじゃないのよ?」
「あー、仕事? 仕事か。世界の穢れを流す、だったか? つ、次はどこに行くのだ? また、どこかの世界で誰かを救うのか?」
雑用係として使われても構わない。あわよくば、もう一度仕事の手伝い、見習い、魔女の弟子のような位置に戻れはしないか。
そんな下心すら抱いて口にした自分の言葉に反応し音を立てて蘇る記憶。
――どうか、どうか主人の、ジル様の魂をお救いください。どうか。どうか。
俺の未来、別の世界。処刑され半分焼けたジル・ド・レの死体に縋り付いた男の祈りの言葉。
古くから俺に仕えていてくれた男の祈りの言葉は神に届いたのか、それとも神などいなく、ただ流れのままに何かしらの存在、ルルの目についただけだったのか。
わからない。
それでも救われた。
ルルはあの男と俺を別人だと言う。
それでも、
俺が、救われたのだ。
どのような形であれ、関係であれ、俺は救われたのだ。
心を苛む無力感から。閉塞感から。……破滅の未来から。
俺は受け取っただけだ。救われたという結果のみを受け取っただけ。
何も返せていないではないか。何も支払っていない。
返さねばならない。これは巨大な負債だ。
「誰かを救う仕事はしてないわねぇ。気に入らない汚れを流しているだけ。自分の為に」
「ルル様は世界の穢れを払うお仕事をなさっているのですね」
「貴いことですじゃ、その、告解を……」
「そんな大層なものじゃないけどね、じゃあ、そんなこんなで、ここら辺で……」
いつもの調子のルルにプリュエルやマロー司教が話しかける。
ルルは適当に相手をしながら立ち上がり、部屋を出て行こうとする。俺も椅子を蹴って立ち上がる。
「ルルッ!」
「ん?」
「大事な話だ、よく聞け。俺は貴様に負債を返すと決めた」
「はい?」
「俺がそう決めたのだ。だから勝手にどこかに行くとこは許さん」
「ええと?」
ルルに近づき、両肩に手を掛ける。
奴に触れることが出来たのはいつ以来だろう。互いに人の姿でということならば、初めてだ。
「だからッ! 貴様の行くところに……俺も連れていけ」
この世界に用は無いと言ったルルのように。
俺もこの世界に用は無いはずだ。
気になる奴らもいるにはいる。ここに居る連中だけでなく、姿の見えないプレラーティやリッシュモンや偽ジャンヌたち、リュミエラやジェルマンやアリセン、ユーザスの面々、会えずにいたシャルル王や、アンドレの行く末も気になる。他にも何人もの顔が浮かぶ。
この国、この世界が、これからどうなっていくのかは、とても気になる。
「そこがどんな世界であろうとも一緒について行く。一緒にいさせてくれ」
だが。
重要ではないはずだ。
今この瞬間は。
もっとお前から学びたい。もっと色々なことを知りたい。どんな不可能な事でも可能にするお前の様に俺はなりたい。そういう思いを込めて。
俺の見つめる先で、黒衣の少女は笑みを作る。
「意外にも真っ正面からきたわね、情熱的なプロポーズ、流石にこれは照れるかも」
「プロポーズではないわっ!」
「えっ!?」
「えっ!?」
上がった疑問の声は正面の少女からだけでなく、その場に居あわせた一同からのものだった。
「プロポーズだよなぁ」
「プロポーズに聞こえました」
「プロポーズだな」
「違うっ! 違う! そうじゃない。誤解をするな!」
肩に乗せていた手を離し、一歩後ずさる。
「愛だの恋だの、そういった浮ついた話じゃない。そうではない。仕事。これは仕事の話だ。世界の穢れを払う仕事を俺もしたい、下働きでもいいから手伝わせてくれという、そういう話だ」
「仕事の話……だとしたらだとしたで上から目線がすごい」
ルルの言葉に頷く一同。
「か、勘違いする方が悪いだろう。何故いきなりそんな話になると思ったんだ? ルルだぞ? 相手はルルだぞ?」
「あれえ? ナチュラルに喧嘩売られているの私?」
「仕事の話もいきなりでしたぞ……」
「仕事を乞うならそれなりの態度もあるだろうにな、それでは押し売りと変わらん、がはは」
「もしや断られるのを待っているのでは……」
違う。違うと言いたい。だが上手く口が回らない。顔に血液が上がっていくのがわかる。頬が火照る。見えたのか? さっきのは、人には愛の告白に見えたのか? 今の俺の顔色はどんなだ? 自分の顔色など気にする必要の無かった骨の姿が懐かしい。
「ごたごた言うな、いいから連れていけ、そうでなくばどこにもいくなよ? 俺から離れるな」
「それはもう実際にプロポーズのようなものでは? 精霊や天使も恋愛をするのでしょうか?」
「違うわっ」
「なんという焦り様じゃ」
「黒様は、その、可愛らしいお方です」
「見た目はすさまじく良いのに頭はな」
「見た目! そう! よく見ろ、ほら、女だぞ、女同士、女同士で愛も恋も無いだろうがっ!」
「なっ!? ……黒騎士さん、いえ、黒騎士ちゃん。もうすでに女であることを利用しようとしているですって? なんていう適応力、なんていう順応性、恐ろしい、恐ろしい子……」
「ち、ちが、言葉のあやだ、ルル、真に受けるな」
俺を女の身体にした当の本人が俺を恐ろしいものを見るかのように見てくる。
自分の肩を両手で抱き、斜めに体を引きながら俺を見てくる。
視界の端ではプリュエルの同僚らが顔を突き合わせてひとひそと話をしている。噂か? 噂になるのか? 違うからな。そういうのではないからな。
一瞬で騒々しくなった食堂。
騒々しい食堂の隅には我関せずの黒猫が体を丸め黒い塊になって寝ている。
なんだこの状況。
誰が悪い? どうやら俺が悪い。
もう少しだけでも言葉を考えるべきであった。戻りたい。少し前の自分に戻りたい。時よ戻れ。
俺ではない。こんなのは俺ではない。俺はもっと、こう、何事にも動じず冷静な性格のはずだ。いや、そうだったか? そうじゃなかったかもしれない。
精神は肉体の状態に引きずられるというルルの言葉が呪いの様に降りかかる。
この女の身体は色々と、なんか色々と、なんだ、考えがまとまらない。焦れば焦る程に思考は散らばる。とくかく愛でない事だけは確かだから。
務めて冷静さを取り戻そうとしていると、食堂に入って来る人影。大柄で短髪。見覚えのある顔。
「一大事です! マロー司教はおいでか!?」
なんという名前だったか。ルーアンからパリへ向かう道中に出会って、突然歌い出し、俺に聖水をぶつけようとしていた男だ。パリのノートルダム大聖堂にもいた。
「ふおおっ!? 天使様! 本当に動いている! すごい! 眠られている時の、銀嶺の月もかくやというしかない玲瓏たるお顔も儚く美しかったですが、今は顔に生気も取り戻されて! まるで太陽の様に輝いて! ああ美しい!」
「クレマン司祭、落ち着くのじゃ」
「あ、はい」
そうだ。クレマン。そういう名前だった。
俺を見て騒ぐクレマン司祭はマロー司教に窘められて一瞬だけ大人しくなる。
ゴウベルとはまた違ったうるささだ。
「一大事とは? 今この場には誰も立ち入れぬようにと言っておったのじゃが」
「一大事は一大事、出た、出たのです!」
「声を控えなさい。で、何が出たと?」
「出たのです! リッシュモン卿が連れてきた兵の中から、出たのです! それでリッシュモン卿が人を引き連れてこちらに向かっています。奇跡を、天使様の癒しの奇跡を求めて!」
食堂に響き渡る声。うるさい。
焦るクレマン司祭の心の動きがマロー司教にも移ったのか、老いた司教もまた声を荒げる。
「だから! 何が!?」
「死です!」
身振り手振りを交えて焦るクレマン司祭。
「黒き死の病。黒死病と思われる患者が出たのです!」
その報告を受けて、先ほどまで騒々しかった食堂に沈黙が舞い降りた。
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